7. 東南アジア

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[先史時代の要素][ヒンドゥー教の千年]
[インド以後の時代][ガムランとその音楽][現代]

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先史時代の要素

 中国の南、インドの東と南には、さらに亜大陸--東南アジアが横たわっている。そこには、固有の特色ある優しい音楽、鐘の合奏(chimeorchestra)やジャワ島やバリ島の舞踊を通して最もよく知られている音楽を発達させてきた。この広大な地域は、一部は大陸--インドシナ(安南=ベトナム、カンボジアなど)、シャム(タイ)、ビルマ(ミャンマー)、そしてマレーであり、一部は島嶼--インドネシアの東インド諸島(スマトラ島、ジャワ島、バリ島を含む)--である。人種的に言えば、この地域は非常に複雑であり、中期石器時代(恐らくBC5000年)の早きに、すでに三つのグループ--アウストラロイド(アボリジニの)、メラネソイド(中央アジアから)そしてネグリト(恐らくインドから)の故郷となっていた。今日、現在の住民の基になっているこれらの原始的な種族は、孤立した地域の黒い肌で平らな鼻の民族の中により顕著に見られる。たとえば、マレーのジャングルに住むテミアル(Temiar)族の精霊による歌と踊りは、その地域全体の中で最も原始的なもののひとつである。
 人種の上層は、二つの主要な民族の移入による。この最初のものは、(インドネシア人、ネシオト(Nesiot)、あるいは先マレー人と様々に呼ばれている)、主として、もとはもっと西からやって来たのだが、中央アジアを経由し、途中でコーカソイドやモンゴロイドの要素を取り込みながら、新石器時代、竹の文化と農業とをもたらした。彼らのタイプは、南中国や安南(ベトナム)の高い高原に散在している様々なミャウ(Miau=苗)族の中に見られる。男女が交互にお互いフレーズで応答しあうアンティフォナ的求愛の歌は、古代中国の詩経(Book of Songs)(周王朝BC1050-255)の詩句と比較されうる。詩経については第4章で言及した。彼らの偏鐘(stone-chime)もまた彼らと古代中国とを結びつける。そして、リード・マウス・オルガン(khen)は、中国の笙(sheng)と関連する。リード・マウス・オルガンは、しばしば、長さ4フィートにもなり、その6本の管は、4度と5度の一種の原始的なオルガヌムで、同時に2−3本がまとまって演奏される。安南のラオスは、14管の楽器で、旋律を演奏したり、強いハーモニックな感じを与える初歩的なポリフォニーを奏でる。
 マウス・オルガンは、東南アジアの多くの地域で見出される竹の楽器全体の中でユニークなものである。非常に古代の伝統を永く維持しながら、これらの多くの楽器は、先史時代から生存を米に頼ってきた民族の農耕の方法と儀礼とに関連している。そうしたものとして、たとえば、棚田に水を入れるときに音を出すハンマーのような仕組みの竹(筧)(ジャワ語で taluktak)がある。節に合わせて注意深く切られた中空の竹の管が、上の田の灌漑用水路から水を満たすようになっており、水が一杯になると下の田に水が流れ出でるように押し倒すようピポットが配置されている。水を放出すると再び垂直の位置に戻り、そのとき竹の下端が石を打ち、それによって一定の間隔で、一定の音を響かせる。この主な目的は、田の所有者に流れの止まったことを知らせることであるが、その音は、これらの人々の内面の美的感覚に訴えるものであり、そこから様々な大きさの一連の竹を立て、様々なピッチの、また打つ間隔をずらせて、様々な周期で音を立てるようにしている。その結果、非常に旋律的でリズム的に魅惑的な音のつながりを見せている。ここで、私たちは、すでに現代の東南アジアの鐘のオーケストラやその音楽の根本的なテクスチャーの指針を持っている。音とリズムは非常に多様で、複雑な模様を織り成すよう結び付けられている。そうして、布の糸というような、一つ一つのアイデンティティは失われている。また、もし、田んぼで終日、絶えず、そうした音の呪文を聞かされ、そのアンサンブルに即興のメロディーを自由に自分の声で加えようとするような--音楽的感性を持った人なら、それに抵抗することは難しいが--自由で創造的な要素が加えられると、作曲は完全になる。
 セダン(Sedan)族(安南)は、さらに進んでいる。水田の守護神である精霊を魅了しようと願って、さらに精巧な、枠は多くの竹ででき、ハンマーで打ち水圧で鳴る一連の鐘(カリオン)(tang koa)を作り、数ヶ月の間止むことなく魅惑的な音楽を奏でている。
 米が成長すると、それは杵でつかれる。シャムとインドネシアでは、丸太や木の幹が地面に置かれ、穴が彫られて中に米を入れる。村の女たちが周りに立って杵でつく。穴は様々な大きさ形をしていて、女たちは様々な速さや力で打つので、魅惑的な音のリズムのシンフォニーが鳴り響く。土地の詩人によってこう表現されているように。「チントゥン、トゥトゥングラン、ゴンタン(tintung tu-tung-gulan gondang)」ここでも私たちはオーケストラ(ガムラン)の音楽的要素と東南アジアの社会構造の中で、音楽がいかにしてそれほどまでに重要になったのかの示唆が与えられる。こうした音とリズムに満たされ、さらに非常な楽しみを与えてくれる音とリズムとを求めて、初期の時代の住民たちは、疑いなく、初歩的な音楽体系を見出していた。豊穣の儀礼と関連した、つく米のないときでさえ演奏された、米をつく木片(stamping block)の音楽(bendrong)の中に、すでにその兆候はある。月明かりの夜や蝕の時には、女たちは空洞の木の幹の周囲に立って、いろいろなところを打ち、木の厚さが様々であるので音は様々に複雑であるが、公式にリズムの分析のできる意味深いパターンでつながり合っている。
 他の竹の楽器は、疑いなく後の文化の影響だけれども、さらに淘汰が進んでいる。笛(ジャワ語で suling)、管のツィター(ジャワ語で ketung-ketung、バリ語で guntang)ガラガラのチャイム(rattle-chime)(ジャワ語で angklung)そして木のチャイム、すなわちシロホン。シロホンは、東南アジア全体で様々な形で見出される。(安南では tatung、カンボジアでは rang nat、シャムでは ranat、ビルマでは pattalar、ジャワとバリでは gambang)今日、インドネシアの合奏で演奏される多くのチャイム楽器と近い類縁関係にある。その古い伝統は、インドネシアの音楽を愛するバタクス(Bataks)のシロホンの演奏の中に求めることができる。シロホンは、広く遠く流浪し広まり、アフリカに現在存在するものは、直接的には、紀元5世紀頃に東南アジアからの初期の移入によるものである。マダガスカル島に現在住んでいるホヴァ(Hova)族のシロホンのように。
 竹の文化は、後の種族、BC4世紀頃、南中国からインドネシアへの道を見出したアジアの初期のモンゴルの末裔(南モンゴル、パロエアン(Paroeans)、あるいは原マレー族などと様々に呼ばれる。)によって、ある程度続けられた。インドネシア音楽の二つの主要な音体系のひとつ、ペログ(pelog)と呼ばれるものは、明らかに、これら原マレー人に知られていた。後に述べることになるもうひとつの体系と同様、オクターヴの認識に基づく5音音階である。それはオクターヴを5つの等しくない音程に分ける。三つの異なったモードのために7つの位置があるのだけれど。5つの音程は、ある範囲内で様々であるが、音階は、下降の長三度と半音からなる二つの分離型テトラコードになる傾向がある。主な旋法(モード)は、結合型テトラコードを用いる形である。ペログは、初め、東南アジア全体に存在していたかも知れないが、器楽音楽に関しては、現在、ジャワ島とバリ島でだけ見られる。音楽理論に欠けていたり、残っていなかったりするので、この音階体系の背後にある原理やそれに関連する東南アジアの他の主要な音階体系は知られていない。その音程は、打ち鳴らされるチャイム楽器の特性と関連しているのかも知れないが、その音楽は、確かに、東洋のどの音楽よりも西洋人の耳には不可思議である。しかし、東南アジアの人々(そして彼らと類縁関係にある北西ブラジル、ペルー、メラネシア及びポリネシアの人々)には、中国や日本、ピタゴラスのギリシアの人々の五度の周期に基づく音階、また、インド、イスラム、そしてヨーロッパの外、古代メソポタミアの人々の弦の和音の分割に基づく音階と同様、単に自然なものである。
 これらの原マレー人は、中国の黄河に到達した時より千年以上遅れて、初めて青銅器時代を東南アジアにもたらしたと信じられている。疑いなく、ジャワ島その他の島々で発見された知られる中で最も古い楽器、元来はインドシナや南中国からもたらされ、魔術的な「雨乞いの道具(rain-makers)」として用いられた、大きな青銅の銅鑼太鼓(gong-drums)は、恐らく彼らによるのであろう。

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