インド(の影響)後の時期 [シャム(タイ)][インドネシア]
シャム(タイ)
ヒンドゥーの王国は、14世紀まで存在した。(ジャワではマジャパヒト、カンボジアではアンコール)しかし、第1千年紀(西暦1000年)の終わりまでには、ヒンドゥーの影響は弱まり、新しい動きが北から押し寄せる兆しがあった。唐王朝の時代、中国で繁栄した南詔(Nan Chao)王国を築いたタイ民族が、宋王朝の時代に、次第に今日、私たちがタイとかシャムとか呼ぶ土地に浸透してきた。13世紀中頃から16世紀にかけての時期に、二つの王国がシャムに起こり、それが今日の音楽文化の重要な中心となった。シャムの音階体系は、確かに、すでに議論した二つのインドネシアの体系と類似している。オクターヴは、多少なりとも等しい7つの部分(全音の 7/8)に分けられており、それは、5音音階の7つの位置となっている。それで構成された旋律は、構造的には、中国の旋律と似ていなくもない。その類似性は、歌われると一層大きくなる。というのは、歌い手たちは、中国の5音音階の方に、これら音程がずれる傾向があるから。シャムの合奏には、二つの主要な種類があり、そのパターンは今日も存在する。弦を含む柔らかい音色の楽器を用いる婚礼やその他の儀式での室内アンサンブル(mahoori)と、軍の式典や祭典、仏教の儀式での大きな音の出る楽器(太鼓の数が増え弦楽器はない)を用いる屋外でのアンサンブル(piphat)と。
タイは、9世紀からシャム平原に広まってきたカンボジアのクメール文化からかなりのものを吸収しただろう。しかし、一方で、シャム人は、1431年にクメールを征服し、現在のカンボジア宮廷のオーケストラは、シャムのものよりは小さいけれども、シャムのものに似ている。恐らく、より初期の形態をとっているのだろう。各オーケストラの11の楽器のうち5つは、チャイム楽器であり、残りの6つは、室内アンサンブル(女性によって演奏される)の弦楽器と打楽器、一本の笛と室外アンサンブル(男性によって演奏される)の一つの弦楽器である。弦楽器は、中国やモンゴルの型(2−3弦のフィドル)にとても近く、男性と女性とに分けられるのは、唐王朝(618-906年)の中国宮廷を思い起こさせる。
クビライ・カーンによるモンゴルの東南アジアの征服は、他のほとんどの地域以上にビルマに影響を及ぼし、パガン(Pagan)の没落に続いて、シャン(Shan)時代(13−15世紀)には、ビルマ人はタタールに忠誠を示す。ビルマ人たちは、「中国の曲(airs)」の部類のものを持っており、彼らのフィドルは、同様に中国やモンゴルの型である。また、「シャムの」曲の部類のものも持っているが、それらは、16世紀からシャムとの軍事的争いの後のことである。
東南アジア全域の中で、中国の影響は、安南において最も著しい。安南は、明の時代(1368-1644)に、再び中国の直接の支配を受けるようになった。
反対に、島嶼部では、ムスリムの影響が強くなった。ムスリムの国家は、13世紀後半にスマトラ島に存在した。そして、15世紀の終わりまでには、ジャワ島でもムスリムが支配的になった。主な音楽の遺産は、レバブ(rebab)、2弦のペルシア・アラビア風のスパイク・フィドル(spike-fiddle)である。これらの楽器が、今日、インドネシアの合奏団の多くを導いており、亜大陸全体でごく普通に見られる。他のムスリムの楽器は、音楽の技法においては、ほとんど影響を及ぼさなかった。いくつかは、より原始的なレベルで同化されてしまったのだけれど。今日、イスラム教は、島嶼部では、主な宗教であり、バリ島だけにヒンドゥー教が残っている。このように、ジャワの音楽は急速に変化し、ヒンドゥーの要素を失った一方で、バリの音楽はより古い伝統の多くを保存してきた。16世紀に、イスラムから逃れて、バリ島に到達したジャワ人は、東南アジアに初めて固有の音楽の記譜法を創り出した。これは、音階の5音の名(ding, dong, deng, doong, dang)の母音に基づいており、韻律の名を挙げることで、リズムの音の配列を示している。
しかし、ムスリムの音楽の影響は、あまり深く浸透しなかった。ヒンドゥー文化の力が、イスラムが現れる前に広く十分に行き渡っていた。疑いなく、このことが、固有(土着)のマレーの要素を前進させ、他所から受け入れたすべてのものを完全に消化し同化することを可能にした。こうした動きの一つの局面が、新しい金属の楽器の、竹のイミテーションであった。インドネシアの合奏団(ガムラン)が、現在の形態をいつ取り始めたのか、正確に言うことは難しい。というのは、18−19世紀になるまで、音楽のために特別に書かれた文書が全く存在しないからだが、その過程は、11世紀から13世紀の間に、恐らく青銅の鋳造が突然の発展を示し始めた時から、徐々にであったように思える。この固有の局面の主な特徴のすべてが、今日のオーケストラの中に変わらず現れている。それらが、儀式や祭典、舞踊、影絵芝居、そして軍務の音楽を供給している。
音楽的に言えば、オーケストラは、三つの異なる型がある。二つの音楽大系には、共通の音は1音しかないので、ペログ(pelog)とスレンドロ(slendro)の音階のためには、異なるオーケストラが必要とされる。中央ジャワの侯国の富裕な貴族たちは、そうした二つのガムラン(それと共に「王の編曲(royal arrangement)」を演奏するための、すなわち、二つの音階体系で交互にガムランの曲を演奏するように作られた第三のガムラン)を維持することができたが、村では、一つだけしか維持できない。粗野なものだけれど、村のオーケストラは、大体、大規模な宮廷のものと同一であり、美学的な好みというより、むしろ歴史や伝統に応じて、ペログあるいはスレンドロに調音されている。