ヒンドゥー教の千年 [安南(ベトナム・ラオス)][カンボジア][ビルマ(ミャンマー)][ジャワとバリ]

 中国の影響と北からの楽器の流入は、モンゴロイドの民族の南方への進出とともに、歴史を通じて断続的に繰り返されてきた。しかし、歴史時代の入り口で、すでに、新しくて重要な影響を感じさせる。
 AD2−3世紀から、インドの商人たちは、スパイスや白檀、黄金などを求めて、中国国境からインドまでの広大な地域を探索し始め、4-5世紀までには、その大部分をインドの植民地としていた。ヒンドゥー教と仏教がそれに続いて伝えられ、また、それとともに音楽がもたらされ、5世紀から小さなヒンドゥー教の王国が、それぞれの文化と芸術生活とを伴って、勃興し始めた。中には、これらの民族文化を高い文明にまで高め、場合によっては千年以上続く王国も現れた。

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安南(ベトナム・ラオス)

 初期の音楽に及ぼした影響は、特に北部では跡付けることが困難になる。たとえば、ベトナムは、ヒンドゥー教の影響を保持している(造形美術では、6-7世紀)一方で、音楽的には、BC1世紀からAD10世紀まで併合されていた中国との類似性を強く保持しているように思えるから。中国の宮廷楽団のような宮廷楽団を長い間維持していた。そして、現在まで残っている楽器は、広く唐王朝(608-906年)やその後の時代の系統を引いている。

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カンボジア

 カンボジアのクメール文明(6世紀初め-15世紀初め)は、その原動力を一層はっきりとインドの文明に負っている。その芸術は、ヒンドゥー教と仏教が平和に共存した時代に花開いた。特に、アンコール時代の初めの3世紀(9世紀初めから12世紀まで)は。この首都の寺院は、宇宙のイメージとして考えられ、天使のハープを含む多くの楽器が、神である王の儀式の場で演奏されたことを、レリーフを通じて私たちに語りかける。この文明の痕跡は、祭りや複雑な舞踊の中に残っている。カンボジア音楽は、今日、インドの特徴をほとんど保持はしていない。ある程度、安南の文化の影響下にあったが、後に見るように、幾分後の時代に発達したシャム(タイ)の文化の方に近い。

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ビルマ(ミャンマー)

 他方、ビルマは、人種的にはモンゴロイドと類縁関係にあるが、東南アジアの大陸部にあるすべての国の中で、地理的にも文化的にもインドに最も近い。統一した民族の歴史としては、いわゆるパガーン(Pagan)期(11-13世紀)とともにインドの時代に遅れて始まる。この古代の首都は、何百ものストゥーパやパゴダが、今日廃墟となって、サボテンやなつめ、ぎょりゅうの木々が茂る中に、半ば隠されたように横たわっているが、それは、かつては建物が立ち並び、宗教的大熱狂、絶えざる軍事行動が行われた光景であった。これらすべては、古い戦争の踊り、カル・ギュイン(Kar-Gyin)、ソロと合唱の歌の中に記憶されていて、この時代にまで時代は遡ると信じられている。ビルマの礼拝の歌は、ビルマでは常に主要な宗教である仏教に負うている。--韻律的でない、半ば歌うような、半ば語るような、一部はビルマ語、一部は古代にサンスクリット語から派生した言語でのレシタティヴォの形態。ビルマの少年たちは、すべて、思春期になると、見習いの儀式に参加し、続いて、今日では普通名ばかりだが、それまでの生活とは切り離された一時期を過ごす。儀式では、増四度(a sharp fourth degree)の七音音階で(一種のリディア旋法)歌が歌われる。--太鼓やシンバル、また21個の連なる銅鑼とともに歌の伴奏をする円錐形のオーボエ(Hne)にも、ビルマ音楽の著しい特徴が見いだされる。ビルマの小さな楽団は、インドを思い起こさせ、器楽音楽は、久しい昔に本国では消滅してしまったいくつかの特徴を保持している。13弦の舟形ハープ(ビルマでは saum、シャムでは soum、文字通りの意味は「舟」)は、特に重要である。それは、オクターヴで演奏され、いくらか装飾音を伴い、特に五度で変奏される。歴史的には、この優雅な楽器は、ビルマの音楽理論の根幹と関わっている。それは、直接、仏教徒たちによって、ガンダーラ(Gandharva)時代(第三章を見よ)にベンガルを経由して伝えられた「天上の」アーチ形ハープに由来している。それは明らかに南のジャワ島にまで道を見いだしていた。9世紀の寺院のレリーフから私たちが判断するなら、そこでは、すでに消滅してしまったのだが、今日、唯一のよく似たハープが、アフリカのある地域に見いだされる。そこでは、明らかにエジプトのものが原型になっているが。ガンダーラ時代の型は、私たちがシュメール文明と関連づけている初期のインダス渓谷の象形文字の中ですでに知られている。(BC3000年)古代のエジプトとメソポタミアとの近い類縁関係を思い起こせば(第一章、第二章)、現在ある東南アジアとアフリカのハープには、4000年前にまで遡る近東地域の音楽生活と遠いつながりがあることに、私たちは何の疑念も抱かない。

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ジャワとバリ

 ヒンドゥー教の影響は、大陸部よりはかなり遅れて力を得たのだが、初めはインドネシアでも強かった。スマトラ島のシャイレンドラ(Sailendra)王朝の下で、ジャワの有力な諸王国が勃興し、7世紀末あるいは8世紀初めから1375年までのヒンドゥー教寺院や社のレリーフには、その時期の楽器が十分に描かれている。これらや、また特に、800年頃のボドブロールのものには、より新しい時代の楽団(ガムラン)が形成されるようになっている。ほとんどの土地固有の楽器だけでなく、当時の数多くのインドの楽器、その多くはすぐに消滅し、全く使われなくなったように思えるのだが、それらも含まれている。支配階級の家庭で見いだされる楽器やアンサンブルは、初め、広くヒンドゥーの性格を帯びていたことには、ほとんど疑いがない。そして、10世紀には、太鼓や貝のホルン(ホラ貝)、丁字型に曲がったラッパ(トランペット)などで、小さなアンサンブルが存在していたという別の証拠がある。
 調音についていえば、いくつかの楽器は、すでに述べた固有の音階(ペログ=pelog)で調音され続けていた。もう一つの音階、スレンドロ(slendro)(あるいはサレンドロ(salendro))という、シャイレンドラ王朝にちなんで名づけられた音階を採用した楽器もある。これは、その王朝とその後継者たちが強い力を有していた地域で見いだされる。ヒンドゥー教の神、シヴァの命により、バタラ・エンドラ神(deity Batara Endra)によって発明されたと言われ、8世紀頃、スマトラ島から来た仏教徒によって、恐らく採用されたのだろう。それは、5音音階(3つの異なる旋法がある)であり、オクターヴをペログより等しい部分に、すなわち全音のおよそ 6/5の音程に分割する。スレンドロの音程は、今でも、ペログの音程より、西洋人の耳には奇妙なものである。平均律になる傾向があるというのは誇張しすぎるだろう。古いジャワの楽器の発掘によって、(耳がするように)中国の音階でもあり、インドのラーガ音楽の中にも存在した長調の五音音階(全音と短三度の音程を持つ)とより緊密に関連づけられた。しかし、この二つの音階は同一であるとはとても呼べない。インドネシアの人々は、スレンドロを男性的で意気揚々とした、厳格なものであると考えており、ペログは、女性的で友好的で悲しげに思える。
 音楽の構成で、最も影響を及ぼした要因の一つは、ヒンドゥー教によってもたらされたサンスクリットの劇であった。すでに第三章で述べた、偉大な叙事詩ラーマーヤナは、自由に翻案され、多くの東南アジアの言語に翻訳された。そこから取られた場面の上演は、早くから多くの亜大陸の地域で人気を博していた。9世紀からジャワに現れ、遅くとも11世紀からジャワで上演された証拠がある。これらの舞踊劇と並んで、影絵芝居(ワヤン)(shadow-plays(wayang))と呼ばれるもう一つの劇も上演された。その起源は、ヒンドゥー教が伝わる以前にまで遡ると信じられ、人形の影を地面(やスクリーン)に投影させるものである。これらの劇は、今日でもまだ人気があり、インドのカタカリ(kathakali)舞踊のように、舞踊と物語体の歌の領域を拡大をしてくれる。
 ジャワの人々にとっては、歌と詩は、実質上、分けられないものである。詩は、そのムードによって分類され、それぞれ分類されたムード(恋愛とか戦とか)は、それぞれ韻律の型を持っている。ジャワの歌には、多くの古代インドの韻律が今日でも使われている。
 舞踊は、その最も高度な表現をバリ島に見いだしている。そこでの舞踊は、劇の中での役割を演ずるだけでなく、礼拝の行為、すなわち、伝統的儀式の一部である。
 しかし、劇は、必ずしも宗教的神話から導き出されたわけでもなかった。空想化された想像上のその地域の歴史を描いていることもあった。ガンプ(gambuh)と呼ばれる舞踊劇は、14世紀のジャワで演じられたものだが、今でも、南バリのある村(バツアン=Batuan)に残っており、その楽団は、幾分初期の時代の楽団と似ているだろう。笛(suling)、太鼓 (kendang)、金属製の太鼓(kenong)、そして銅鑼(kempul)など。フィドル(rebab)は、つまるところムスリム起源(インド経由)のものだけれども。

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