まほらばのスキーヤー
フジ三十郎
1998.10.20
吾妻小富士の山の頂に雪が降ったと便りがあり,「いよいよスキーシーズン」という冬の入り口になると,
当然のように姿を現すスキーヤーがいる。
フジ三十郎という。
シーズンインの天元台スキー場に始まり,月山の夏スキーまで滑るスキー家だ。
だが,夏は,ウエットスーツで身を包み,アクアラングが専門家という自称する。
桃太郎や三四郎より先にカナディアン・ロッキーを滑ったスキーヤーである。
いわきスキーフレンズのカナディアン・ロッキー・スキーツアー1次隊員なのだ。
フジ三十郎の挿話ほど,繰り返し語られ絶えることないのも類が少ない。
しかし,ここ数年,スキーシーズンになっても姿を現すことがなくなった。
ひょっこり登場が彼のスタイル,また来る思っているうち,数年過ぎ去った。
桃太郎がフジ三十郎との初めての出会いは,ナコソスポーツの蔵王スキーツアー。
バスのドライバーの真後ろのシートに座って,時折,道案内や指図をしている交代の
ドライバーとおぼしき人がいた,ボア付の革ジャンパー姿,1977年の冬である。
人間ナビケーションシステムと言う感じ,音声案内である。
蔵王スキー場に到着すると,その人はスキーにも同行し,コース案内に変身した。
桃太郎と眠梨三四郎は,スキーを主に蔵王スキー場で楽しみ,足前向上していたので蔵王スキー場に精通のつもりだが,
此方を積極的に案内するその人に敬意を持った。
その日の夜のホテルで,その人は,バスのドライバーでなくアイアンでもなく,いやナビゲーターでもなく,
スキーツアーメンバーであると知った。
桃太郎と眠梨三四郎は,スキーツアーのまとめ役として同行していたのに,あまりに当然のごとくガイドするので,
バス関係者とおもってしまったのである。
そんな出会いがフジ三十郎で,その後20有余年,共にスキー行き,スキーを楽しみ,そして,「いわきスキーフレンズ」の
発足にも関わった。
フジ三十郎について,語り継がれる挿話は,数知れない。
「挿話そのT」,驚異のいわき〜月山スキー場間を1日に1往復半。
いわきから山形月山スキー場までドライバー兼スキーヤーとしてメンバーでを送り,1日滑って,1日遅れの乗り込みメンバーを
迎えにいわきに戻って,再び月山の民宿に到着するという離れ業である。
「挿話そのU」,いわきから栗子国際スキー場までメンバーを送った後,仕事ということで折り返していわきに戻り,
建設工事現場の監督業務,折しも強風下に飛んできた
コンクリート工の型枠が頭部を襲い強打され,失神というアクシデントに遭った。
救急車で病院へ搬送され,気がついたらベッドの上だったという。
にもかかわらず,フジ三十郎は再び栗子スキー場に舞い戻り,スキーを2本滑った上,
いわき向けマイクロバスのドライバーを務め,メンバーを日帰りスキーをさせるというアイアンマンぶりである。
フジ三十郎の挿話は,体感した者でなければ信じる者は少ない。
誰にも「冗談でしょう」といわますが,彼は,桃太郎と寅次郎と三四郎ともどもが事実を認め「並の方と違う」としています。
フジ三十郎に,スキービデオを撮影してもらったスキーヤーは多い。
8ミリ映画の時代からベータビデオ,8ミリビデオまで,カメラマンのフジ三十郎として,桃太郎,三四郎のスキーシーンが
残っているのはそのお陰である。
車関係とビデオカメラ関係機材の購入は,抜群の先達であったなとおもう。
しかし,撮影してもらっても,フジ三十郎のビデオカメラに吸い込まれたままで,再生映像を見たことも無い気の毒な面々が
多いことも事実である。
カナディアン・ロッキー・スキーツアー1次隊もフジ三十郎が撮影したようだが,ビデオカメラに吸い込まれたままで,
再生映像を見なかったということだった。
フジ三十郎は,ビデオカメラでなくタイムカプセルを持ち歩き,友達のおもいでを蓄積していた「まほらばのスキーヤー」と分類した。
再び,ひょっこりひょうたんフジ三十郎が現れるような気がしてならない。
「何日君再来」
百太郎