「歴代天皇目次」

「46の1」

「46」

「45の4」

「45の3」

「45の2」

「血筋」

   多くの学者たちは、第2代の綏靖(すいぜい)天皇から第9代の開化天皇までを「闕史(けっし)八代」といい架空の天皇だとしている。八代の天皇の事跡が述べられていないことも手伝って、天皇家の古さを強調し、由緒に箔(はく)をつけるための創作だというわけだ。

 ただ「古事記」「日本書紀」(記紀)の記述で気になるのは、1代目の神武を含めて9代の天皇の宮跡が、いずれも葛城(かずらぎ)山麓の周辺に集中しており、また皇后の出身が物部氏族であるなど、一つのまとまりをもって記録されていることだ。

 そんなわけで、学者たちの中にも、学界において主流となっている闕史八代に異議を唱える人もいる。その論拠を記すなら・・・。

 一・歴代の皇后を出した氏族でもっとも多いのは磯城県主(しきのあがたぬし)、春日県主、十市県主などの大和小豪族である。後世の造作ならば、その当時の大豪族をあげたはずである。

 二・神武天皇以下九代の天皇御陵の地が、すべからく大和盆地の西側にあり、それがだんだん大和中央へ移っているのは不自然な作為ではない。

 三・神武天皇をはじめとする初期の天皇の中には、100歳を超える不自然な長寿の天皇が記されてあるが、これは天皇の数をそのまま即位年を引きあげたために、一代あたりの在位年数がのびたものと考えられる。もし、闕史八代の天皇が作り事なら、架空の天皇を増やせばこのような不自然さは避けられたはずである。それをしなかったといいうことは「記紀」の編者が、八代の天皇が存在したという伝承に手を加えることをはばかったからと見られ、むしろ八代の実在を物語る。

 「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」である崇神天皇(第十代)の前に、九代の天皇を挙げた「記紀」の編者にしても、その矛盾に気付かないわけがない。それをあえて記したのは、それだけの理由があってのことに違いない。というわけだ。

 もしそれらの天皇が実在したとするならば、彼らを「葛城王朝」と言うらしい。

 神武から後の数代は葛城地域の首長として存在し、第7代孝霊天皇から大和中央に進出したが、三輪山麓の出身者である第10代崇神天皇によって倒され、政権が交代したのではないか、と?闕史八代の記録がないのは、それらの事跡を「記紀」が神武に一括して述べたのであろうと言うのが闕史八代存在派たちの意見である。

 さて、三輪山山麓にある纏向遺跡(まきむくいせき)は、他所からの征服者によって開かれた”クニ”であったという

  • ここ20を参照してねぇ

    すでに学界では、その移住者の首領が崇神天皇となった人物であり、この大王(おおきみ)こそ大和朝廷の初代天皇だったと見る説が主流を占めている。

     しかし、崇神一派が大和の三輪山麓にある纏向遺跡への移住集団であったことは、いまや多くの学者たちも認めるものだが、それが即座に現在の天皇家につながる先祖であるかについては、いまだ多くの疑問が残っている。

     この謎も古代を揺るがす最大の謎の一つであるが、結論から先に行ってしまうと、現代の皇室の祖先となるのは26代の継体天皇からではないかといわれている。ただ、大和朝廷の基礎を築いたと言う点では、崇神が嚆矢(いっとさいしょ)としてもよいそうだ(三輪王朝)。

    [その45の2です] /welcome:

     崇神の血筋を語る前に、このコーナーでも参考文献で登場する黒岩重吾先生のご冥福をお祈りしたい。氏の作品は、私(わたくし)が活字を追いかけるようになった20代前半(おそいですが)、松本清張氏、石川達三氏とともに、本棚に並べて、悦に入っていた時代の作家の一人である。私の職業であるバーテンダーにおいても、そして、音楽の分野でも物故される方が相次ぐ(たとえば、新橋トニーズバーのトニーさん、ビートルズのじょーじはりすん)、とても寂しいけど、諸行無常、致し方ないことなのかも知れない。

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     さて、私め、図書館へはずっとご無沙汰だったのですが、久しぶりに利用させていただきました。わが高岡の図書館もついにコンピュータ化されて、とても便利になりました。そこで、お借りしてきたのが「激論古代史」。興味深い文面にぶちあたったので、さっそく引用させていただきましょう。

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     日本神話と言えば、極右、古代史といえば極右、といった風潮が1970年頃まで見られたらしい。1945年の敗戦から1970年までというのは、いわば日本書紀を語る意味において、あるいは古代史に深く関わる人間、これはどうも胡散臭いというように、とくに左翼系がそう思っていたらしい。

     そして、一時的に小学校の教育から日本神話など排除していこうというような傾向もあった(当店のお客様である小学校の先生に聞きましたが、神話など全然教えていないと言うことです)。

     明治維新のとき、日本が西洋列強の植民地になるまい、そのためにはどうしても日本人自身が誇りをもたなけりゃいけないということ、それから、植民地にならないためには他に植民地をつくる必要がある。そういう考え方から、朝鮮への侵略ということがおこなわれていった。その時持ち出されたのが「神功皇后の三韓征伐」で、かつて日本は朝鮮を支配していたんだ、だから現在再び本家が分家を統一するのは当然とばかりに古代史がそのまま政治にもちこまれた。こうした風潮がだいたい1910年の朝鮮併合まで続いて、いわゆる「日鮮同祖論」が唱えられ、政治に利用されてしまった。

     ところが、朝鮮が日本の植民地になってしまうと、古代史は、朝鮮をなおざりにしてしまう。

     しかし、敗戦間近な頃、朝鮮人も戦争に駆り立てなければいけないくなってくると、再び「日鮮同祖論」がでてくる。

     そんな経緯がだいたい、明治維新から敗戦までの日本の古代史と政治のかかわり方だ。

     1945年、冒頭で述べたように今度は、朝鮮を等閑に付したツケが回ってくる。1960年代にはいって、読売新聞が<日本の歴史>というシリーズで古代を扱い、非常に広範囲に読まれた。これが戦後の古代史ブームの先がけだ。そして、その次に中央公論社がやはり<日本の歴史>で、これは第一巻が150万部も売れたと噂された。これが第2期古代史ブーム。しかし、朝鮮史が欠如していた。

     1972年、高松塚古墳が発見された。それにより、朝鮮を見直さなくてはいけないと言う古代史における真実が高松塚により、如実に証明された。厳密にいえば、1972年の3月26日、その日から古代史の戦後が始まったと言っても過言ではない。

    参考文献・激論!日本古代史・成甲書房。

    [その45の3です] /welcome:

     「古事記」によれば崇神天皇の御世(みよ)、疫病が流行って人民が多く死んだ。天皇が愁(うれ)い歎(なげ)いて占ったところ、夢に三輪山のオオミノヌシがあらわれて、「是(こ)は我が御心(みこころ)ぞ、故(かれ)、意富多多泥古(オオタタネコ)を以(も)ちて、我が御前(みまえ)を祭らしたまはば、神の気(け)起こらず、国安らかに平らぎなむ」といったという。

     つまり、オオモノヌシがたたっていたのである。「日本書紀」においても、だいたい話は同じであるが「書記」の場合はヤマトトトビモモソヒメノミコトが一枚からんでいる(わたくしは舌をかんでいる?)。つまり、神託は直接崇神に告げられたのではなく、ヤマトトトビモモソヒメを通じて告げられたのである。

     この話は、日本人の宗教観を考えるにあたって、大変重要な話である。崇神はオオモノヌシをなぜ祭ったのか。それはオオモノヌシが祟ったからである。つまり、祟りによって人間に不幸を下す神こそ、もっとも大切に祭られるべき神であるからだ。

     なぜオオモノヌシが祟ったのか?オオモノヌシは、天孫族(渡来人)の支配者にとっては前王朝の神であった。天孫族は、九州から大和へ攻めてきて、そこにいたオオモノヌシの種族を滅ぼして日本を統一した。ここで、オオモノヌシは正に前王朝の恨みを代表しているのである。前王朝の恨みが、オオモノヌシの祟りとしてあらわれる。そして崇神は正に、その前王朝の神を祭ることによって、その恨みを慰め、前王朝の遺民との妥協をはかった、のだろうか?

     さて、そこでオオタタネコ(大田田根子・意富多多泥古)だが・・・。

     崇神天皇は、オオタタネコを探させ、河内に住んでいたオオタタネコを連れてきた。崇神は「お前は誰の子か」と聞くと、「父を大物主大神、母を活玉依媛(いくたまよりひめ)とする陶津耳(すえつみみ)の女(むすめ)です」と答えた。そこで崇神は、物部連の先祖の伊香色雄(いかがしこお)を、神に捧げるものを分かつ人として、オオタタネコを大物主大神を祀る祭主とした。これでやっと、疫病がなくなったというお話。

     そこで物部連の先祖と記された伊香色雄(いかがしこお)だが、彼は第八代孝元天皇の皇后ウツシコメの兄のウツシコオの子である。その一方で、孝元天皇は、伊香色雄の妹の伊香色謎(いかがしこめ)を妃としたと記されている。

     ちなみに、皇后のウツシコメは第九代の開化天皇を、妃のイカガシコメは比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生んでいる。後者は、後に登場する武内宿禰(たけのうちのすくね)の祖先と言われる。

     そしておどろくことに、九代開化はナント父孝元天皇の妃であったイカガシコメを皇后とした。そしてその二人の間に崇神天皇が生まれたことになっている。ひょっとしてこれは、万世一系を伝える「記紀」に苦肉の策であろうか?それとも、この間に血統の断絶があったのであろうか・・・・??

    [その45の4です] /welcome:

       そこで問題になるのが、崇神の生母とされるイカガシコメの存在である。先帝の妃を開化天皇が皇后とする自体に血統の無理がある??(かな)、なぜ、わざわざ崇神の生母にしなければならなかったのか。

     先述したとおり、イカガシコメは物部宗家(ほんけ)の出身である。つまり、葛城王朝の宰首の地位にあった物部宗家が崇神一派に組み込まれたことを意味しているのではないか?

     イカガシコメの兄であるイカガシコオは、開化の宰相として権勢をふるっていた。ところが、このイカガシコオは崇神の御代(みだい)でも宰相の地位に就いている。

     もともと物部という姓は、朝廷配下の伴造(とのもみやっこ)を意味するもので、その姓の起こりは、崇神の次の垂仁のときに物部十千根(とおちね)が賜(たまわ)ったことになっている。十千根はイカガシコオの子である。

     だからこそ、崇神は、物部をバックにその宮殿を物部宗家の根拠地である磯城(しき)の瑞籬(みずがき)に建て、続く垂仁も纏向に珠城宮(たまきのみや)を築くことができたというのである。

     やはり、これは物部氏のルーツを探らなくてはならないだろう。

    [その46] /welcome:

       物部一族は古代において「八十物部(やそもののべ)」といわれるほどに、もとを正せばその多くは物部系流に含まれてしまう。

     物部氏の祖先となるのはウマシマヂといわれる。そのウマシマヂの父と言われるのは神武東征に登場するニギハヤヒとされる。

     ニギハヤヒの父に関してはいずれ述べるにして、ウマシマヂは物部連・そして、穂積臣(ほづみのおみ)の祖神(おやがみ)でもあるとする。この穂積氏も「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく・古代の紳士録?皇別(天皇家から分かれた氏族)、神別(神々から分かれた氏族)、諸蕃(渡来系の氏族)という三つのカテゴリに分類されています)」では、ニギハヤヒ六世孫・伊香色雄(いかがしこお)の末裔とある。

     とにかく、「古事記」を見る限り、いずれの氏族も物部と深いつながりがあるといわれる。

     さて、初代の大王(おほきみ)である神武は実名を磐余彦(いわれびこ)といった。彼は物部氏の祖にあたる饒速日 命(にぎはやひのみこと)が東方へ下ったという話を日向国(ひむかこく)できいた。その時彼は、兄たちに東方の日本の中心地に遷ろうとすすめた。

     そして軍勢をひきいてきた九州の宇佐宮、岡田宮を経て、安岐国(あきこく)の多祀理宮(たぎりのみや)に着いた。彼はそこから備前国(びせんこく)の高嶋宮にいった。そこで準備を整えたのちに、難波(なにわ)に上陸して一気に大和を目指そうとしたのである。

     「古事記」「日本書紀」は、神武東征によって大和朝廷が誕生したという。

     神武東征伝説は長髄彦(ナガスネヒコ)を磐余彦(神武のこと)の最大の敵とする。磐余彦の一行は、難波の先の白肩津(しらかたつ)にすすんだ。そこから彼らの宿敵となるナガスネヒコが待ち受けていた。ナガスネヒコの別名を登美彦(とみびこ)という。ナガスネヒコは縄文的神の他に、奈良盆地西北部の小豪族としての要素をもっている。それは 、彼の登美彦という別名に象徴される。登美は難波から奈良盆地北部に続く道の生駒山(いこまやま)を越えた大和の入り口に位置する。物部氏は大和と河内(かわち)との連絡のために交通路上の拠点である登美を支配下におさめていた。登美を支配していた迹見氏(とみし?)はその物部氏の支配下に入っていた。

    続く。

    [その46の1] /welcome:

       長髄彦(ナガスネヒコ)は、天から下ってきたニギハヤヒの命(みこと)を主君としていただいていた。ニギハヤヒの命はナガスネヒコの妹を妻に迎えていた。ナガスネヒコがニギハヤヒの命の意向でイワレビコ(神武)と戦ったものと思われる。また、ナガスネヒコは、縄文的首長であったから自分と異質なイワレビコに反感をもったのかもしれない。

     ナガスネヒコは、もともと人間でなかったといわれる?かれは、縄文時代以来まつられつづけた手長足長の神でもあるという。神武東征伝説の中の核となるナガスネヒコを討つ話は、王家の祖先が現れたおかげで野蛮な状況の象徴といえる縄文的要素が一掃されたと主張するものなのかもしれない。

     さて、ここで気になるのが物部の祖神(おやがみ)といわれるニギハヤヒの命のことである。「古事記・日本書紀」はニギハヤヒを天上から降臨(こうりん)した天孫族(弥生系)の同族の神と記しているが、天上の世界を描いた高天原(たかまがはら)の神話にはいっさい姿をみせていない。わずかに本文の「一書(あるふみ・一例として)」に、出生を記述するのみである。

     イワレビコ(神武)の祖父であるニニギノミコト(御父は、鵜葺草葺不合命 うがやふきあへずのみこと )と別に、ニギハヤヒが天磐舟(あめのいわぶね)に乗って降臨したと言うが、その事実はあったのか?この事実を裏付けるには、なんといってもニギハヤヒの降臨の地を探し出すことだ。が、しかし、「古事記・日本書紀」はそれらをことごとく消し去って見つけることはできない。

     しかしだ、ニギハヤヒは物部氏の祖神(おやがみ)いわれている。物部氏の歴史書といえば「先代旧事本紀(せんだいくじきほんき)」、略して「旧事紀」が有名だ<『先代旧事本紀』は9世紀に成立したらしい歴史書です。神代から推古天皇に至るまでの内容を、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』などを参考にしつつ作られたといわれています。全10巻で、略して『旧事紀』『旧事本紀』ともいいます。序文に聖徳太子,蘇我馬子らの撰とあるため、偽書説もありますが、不自然なのは序文だけで、『記』『紀』に準じる資料価値をみとめてもよいと思います。巻五の『天孫本紀』、巻十の『国造本紀』は尾張氏・物部氏の伝承等古い資料によっていて、『記』『紀』にはない記述がみられます。なお、旧事紀には72巻本と30巻本のものもありますが、両書とも江戸時代につくられたもので10巻本旧事紀とは全くの別物です>

    この歴史書は上述の<>部分で言うように、古事記・日本書紀を信じる学者達からはニセモノ(贋書・がんしょ)といわれているのだが、近年では評価があがっているとも聞く。

    続く