「21・まとめ」

「20・考古学的見地」

「19・抹殺された邪馬台国」

「スサノオ」

   「日本書紀」のなかで、アマテラスやスサノオが活躍した時代は、今から少なくとも3千年以上も前のことになる。だがこの数字があてにならないことは、ここで改めて述べるまでもない。そこで「日本書紀」の作者が想定したアマテラス達の時代はいつ頃だったのかといえば、それは稲作や金属器の記述が見られるところから、古墳時代以前、弥生時代だったことは明らかである。

 日本の誕生を弥生時代に求めたこと、そしてスサノオを稲作民族の敵と描いた「日本書紀」の態度は、非常に暗示的である。また「日本書紀」を記した天皇家は、九州から東に遷(うつ)り大和に王朝を開いたが、これは、稲作技術の伝播ルートと重なるのだ。

 つまり、天皇家がきわめて稲作民族的であると同時に、天皇家の史書が弥生時代から始まっていることは、天皇家が弥生人であることに何よりの証拠といえよう。

 そこで問題になってくるのは、この弥生人に対して執拗に嫌がらせを繰り返したスサノオの存在である。

 「日本書紀」はスサノオをアマテラスの親族として描くが、はたしてこれはほんとうだろうか?弥生人の祖・アマテラスの登場とともに滅び去る運命にあったのが出雲王朝であり、その祖となったスサノオが稲作民を苦しめたという図式は、出雲族が、稲作民族の渡来以前に日本に住んでいた原住民の運命と、どこか共通しているのではないだろうか。

 「邪馬台国」

 スサノオ→出雲→縄文人。アマテラス→大和→弥生人。この図式はとてもすっきりしてわかりやすい。でも、結論は後に残しておこう。それよりも、そもそも、「日本書紀」を編纂した天皇家が九州出身であったと「自己申告」している以上、九州に上陸した例の倭人伝の魏の使者に情報を与えたのが、九州時代の天皇家であった可能性(蓋然性)は高い。もしそうであったなら、どうして邪馬台国は天皇家によって抹殺されたのか、という疑問が生じる。なぜなら、邪馬台国と天皇家が同一であるならば、天皇家は自らの存在を抹殺したことになる。

 天皇家がはじめ九州にあって、のちにヤマトに移ったとする「書記」の証言。これが邪馬台国の東遷(とうせん)ではなかったかという疑いがある。しかし、そうなると、「書記」の記述の中に理解できない箇所がでてくるのである。すなわち、もし邪馬台国が天皇の祖国なら、なぜ「書記は」その事実を認めなかったかということだ。

 このあたりの事情を詳しく説明しよう。たとえば、「書記」の神功皇后(じんぐうこうごう)摂政39年の条には、次のような文注が載る。

 「三十九年。是年(このとし)太歳 己未(つちのとひつじ)。魏志に云(い)わく、明帝(めいてい)の景初(けいしょ)の三年の六月、倭の女王、大夫(たいふ)難升米等(なしめら)を遣わして(つかわして)、郡(こほり)に詣(いた)りて、天子に詣らむことを求めて朝献(てうけん)す」

 この記事の重要なことは、誰でもが認めるところである。なぜなら、「魏志」倭人伝という文献の存在とその内容を、「書記」の編者が知っていた疑いがでてくるからだ。つまり、7〜8世紀の朝廷は、邪馬台国がかつて日本を代表する国家として魏との間に華々しい外交活動を演じていたことを認識していたのである。

 ところが不思議なことに、「書記」は邪馬台国という国名を全く無視している。また「卑弥呼」の名に関しても、「倭の女王」とあるのみで、「書記」のどこにも登場してこないのである。

 つまり、「書記」の編者は、邪馬台国と卑弥呼の存在を知っていたにもかかわらず、どちらとも「書記」に登場させようとしなかったということになる。この行為は、実に重大な意味をもってこよう。なぜなら、邪馬台国がヤマト朝廷の本来の姿であったとすれば、「書記」はこれを明確に記していたはずだからだ。

[その19でーす] /welcome:

 「書記」は、邪馬台国を隠した。しかも、卑弥呼を神功皇后その人であったかのような消極的な比定を行う一方で、卑弥呼をアマテラス(天照大神)という太陽神に仕立て上げ、卑弥呼の業績一切を神話の世界に閉じこめてしまった(アマテラスが太陽神に祭り上げられたのはあくまでも記紀が編纂された8世紀からだ。太陽神とは本来男性である)。

 なぜ、「書記」は邪馬台国と卑弥呼の存在を抹殺してしまったのか?

 「記」「紀」ともに、その語られる神話や神代世界において3世紀ごろの倭の存在及び倭国についての表現は、なぜか意識的な形で避け通している。このことは、日本書紀の編者が否定できがたい倭の卑弥呼および壱与(いよ)女王の存在を神功皇后に擬すのがもっとも妥当と判断したからだろう。このように、「書記」が卑弥呼を神功皇后に比定したのではなく、比定せざるを得なかったという不自然な態度は、邪馬台国東遷論の矛盾を露呈させてしまうのだ。

 つまり、文献学的には蓋然性が高いとされる邪馬台国東遷論の欠点は、ヤマト朝廷が「書記」編纂とともに邪馬台国の存在を抹殺してしまった理由を説明できないことに尽きる。

参考文献・関裕二著「卑弥呼は二人いた」ワニ文庫。

[その20でーす] /welcome:

 邪馬台国、この謎の王国をめぐって近畿(大和)説対九州説両陣営の果てしない論争が続く。しかし、先生方の意見を総合すると、どうも九州説が有利な気もする?

 とはいえ、歴史の素人からすればそんな錯綜したことがおもしろいのであって、とにかく興味が尽きないのが邪馬台国論争なのだ。

 そこで、先生方の著作を頼りに、その大和・九州説を考古学見地から邪馬台国の存在を追求してみることにする。

 さて、大和の神奈備(かんなび・神の宿るとこ)といわれる三輪山周辺は考古学の宝庫といわれている。歴史的に言ってもとても重要なところである。現に纏向遺跡(まきむくいせき)のすぐ東北には、第11代垂仁(すいにん)天皇の珠城宮跡(たまきのみやあと)、第12代景行(けいこう)天皇の日代宮(ひしろのみや)、景行天皇陵が点在している。さらにその先には、歴史上存在が確実視されている第10代崇神(すじん)天皇陵があり、その宮殿とされる瑞籬宮跡(みずかきのみやあと)もある。こうした初期の天皇陵や宮跡が集中していることから、近年では考古学の発掘調査にともない、この三輪山周辺は大和朝廷の最初の発祥地に比定するまでになっている場所なのである。

 この三輪山周辺では、特に注目を浴びているの二つの古代の遺跡である。先ほど紹介した「纏向遺跡」と「唐古・鍵遺跡(からこかぎいせき)」だ。

 まず時代的に古いと言われる唐古・鍵遺跡の方から述べる。この遺跡は以前の教科書では「唐古遺跡」と紹介されたが、発掘が進むに連れて地域が広がり、鍵地域にもおよぶようになったことから「唐古・鍵遺跡」と呼ばれるようになった。

 その広さは邪馬台国時代の”クニ”として評判になった吉野ヶ里遺跡とほほ同じ面積で、平成4年1月の発掘では、この地に環濠集落があったことがあきらかになった。しかも、それは四重の濠が設けてあった。この遺跡は弥生時代中期のものとされ、時代的には吉野ヶ理遺跡よりも古いもので、いわば北九州にしか存在しなかった”クニ”が弥生期に大和にもあったことが裏付けられた。

 さらに、この遺跡で注目を浴びたのは、吉野ヶ理遺跡のように敵を見張る「楼閣」の発見こそなかったが、その存在を推測される土器が出土したことだった。一世紀前半の土器にすでに楼閣の絵が描かれてあったのである。

 したがって、その絵から、唐古・鍵遺跡に集落には、瓦屋根をもつ中国風の建物があったのではないか、と説く学者もでてきた。

 さらにまた、この唐古・鍵遺跡には、巨大な青銅器工房があったのではないかと推測されている。というのは、平成3年11月から翌年1月にかけて、ここから大量の銅鐸(どうたく)・銅剣・銅鏃(どうぞく・青銅の矢じり)の鋳型片がでてきたからである。

 これまで銅剣文化は北九州を中心に広まり、銅鐸文化は近畿地方を中心に存在したといわれてきたが、唐古・鍵遺跡ではその説をくつがえし、同時に両方を持ち合わせた小国だっただったことが証明されたのである。

 しかもこれまで、弥生時代の青銅器は北九州を中心に存在していたと思われていたのだが、近畿地方における青銅器の総量は約2・5トンと推測され、北九州のそれは約1トンにすぎなかった。つまり、近畿地方の豪族は北九州の二倍以上の青銅をつかった高度な”青銅器国家”を築いていたことが分かったのである。

 そして、この集落遺跡は3世紀末まで存在し、その東方に出現した「纏向遺跡」にとってかわられたらしい。

 一方その「纏向遺跡」であるが、ここの発掘は昭和46年(1971)に始まった。古代史上、重要な位置にあったが、当初この遺跡はあまり注目されなかった。ところが発掘が進むにつれて脚光をあびるようになった。

 それは「纏向遺跡」の規模が想像以上に広く、約一万平方メートルにもおよんだからである。奈良時代の都であった平城宮よりやや狭いが、藤原宮よりも広く、吉野ヶ理遺跡の4倍に相当する面積だった。しかも、その遺跡からは、当時の庶民の住居であった竪穴式住居は発掘されることが少なく、多くが高床式住居であったことから、「纏向遺跡は初期の大和朝廷でつくった古代都市で、その住居は農業を行わず、高床住居に住む支配層だった」と唱える学者もでてきたほどであった。

 古代ファンを驚嘆させる発掘はさらに続いた。昭和62年には、4世紀初めに作られたという浄水道施設が発見され、それ以前にも周辺の河川を結ぶ大溝があったことが明らかになった。さらに平成元年には、その纏向遺跡の西北から全長93メートルにもおよぶ石塚古墳が発見され、調査の結果、それが3世紀中葉(250年頃)の日本最古の古墳であることが判明した。そのため、マスコミは「卑弥呼の墓、発見」「邪馬台国の台与(とよ)もしくは壱与(いよ)の墓か?」との見出しを付け、いち早く纏向遺跡は全国的にも有名になったのである。

参考文献・神一行著・消された大王ニギヤヤヒ・学研M文庫。

[その21でーす] /welcome:

 では、これまでの三輪山周辺の発掘調査から、考古学上どのようなことが分かったか、整理しよう。

 1・古代の大和地方には、邪馬台国時代(3世紀中葉)より以前の弥生中期(紀元前1世紀〜紀元1世紀)ごろに、すでに青銅器を生産する小国が誕生していた。これが「唐古・鍵遺跡」の居住者で、3世紀末まで存続したと思われる。

 2・ところが、3世紀中葉に纏向へ移ってきた部族に滅ぼされたのか、大和の中心は「纏向遺跡」に移った。

 3・纏向への移住者は、その地に日本最古の石塚古墳(250年頃のもの)を築き、4世紀初頭になると、我が国最初の大型前方後円墳である箸墓古墳(はしはかこふん・全長278メートル)をつくって全盛期を迎え、4世紀を通じて栄えた。

 学者の中には、「纏向遺跡」が三輪山周辺にあることから、そこを支配した王朝を崇神天皇を中心とする”三輪山王朝”と呼ぶものもいる。

 つまり、言いかえるならば古代大和の地には、先に”原大和王国”ともいえる「唐古・鍵遺跡」があり、この集落の首長こそ、大和の最初の大王だったことになる。そして、そのあと「纏向遺跡」を築いた征服部族が移住してきて、「唐古・鍵遺跡」を滅ぼし、崇神天皇の頃に全盛期を迎えたことになっている。

 それでは、1・の青銅器国家といわれた”原大和王国”の大王は誰だったのか?

 2・の「纏向遺跡」の征服者は誰であったのか?

 しかし、考古学からそれを求めるのは不可能である。ならば、文献史学ということになるが、こんにちの文献史学で天皇の年代がはっきりしているのは、5世紀初頭の応神天皇からとされている。だだし、これとて、推定だが・・・・。

 要するに、正史といわれる「古事記」「日本書紀」が正確な記述と年代を伝えなかったために、日本の古代史は闇の中に存在しているというのが現実だ。それにしても、原大和王国の大王が誰で、大和朝廷はどのように誕生したのだろうか???