その10話「伽耶・任那?」

その9話「朝鮮半島南端部?」

 朝鮮半島南端部と北九州との交流はかなり古い時代からしきりに行われていたようだ。それは、対馬・壱岐(いき)を経る海路でなされていた。紀元前2世紀に弥生時代が始まる。そして、そのころ、朝鮮半島南端部と北九州との交易はより盛んになった。そのことは、この時代に両地域に共通の考古資料がみられることで証明される。

 古代社会では、山河による交通傷害が海よりも、現代の我々の想像以上の困難をもたらすものだった。3世紀ごろには、朝鮮半島南端部の人々は、地続きとはいえ山河に隔てられた朝鮮側の帯方郡(たいほうぐん)より島づたいに渡れる北九州を身近に感じ、北九州の小国は、大和(近畿)より朝鮮半島を近いと思った。

 対馬海峡の航路の労苦は、瀬戸内海航路や朝鮮半島沿岸のそれとたいして変わらない。だから、距離の近い朝鮮半島と北九州とを押さえる勢力が出る可能性も十分あった。前者は「韓」、後者は「倭」と呼ばれた。この呼び方は、中国の歴史書で用いられたものである。

 しかし、大和朝廷の九州支配が確立して以来(倭の五王の時代がそれとおもわれる。それについてはいずれ)、北九州と朝鮮半島南端部との境界が明らかになっていく。

 前回述べたとおり、韓民族は、馬韓・辰韓・弁辰の三つの地域に分かれていた。そして、馬韓には3世紀に騎馬民族の文化が広がりつつあった。しかし、辰韓・弁辰・倭の文化はきわめて近い関係にあった。

 三国志(晋代に陳寿が作った、三国時代の歴史書)には、公孫康(こうそんこう)が建安年間(196〜220)に帯方郡をおくと「倭も韓も帯方郡に属するようになった」とある。ここで中国人は韓も倭もひとまとめにあつかっている。また、そこには韓・わい(辰韓の北方にいたツングース系の民族)・倭の国々が弁辰の鉄を求めているとある。魏志倭人伝には、対馬国の人が「船に乗って南(北九州)北(朝鮮半島)に交易する」とある。こう言った記事は、3世紀の朝鮮半島と北九州とが切っても切れない関係にあったことを物語る。

 最近の発掘成果によって、朝鮮半島南端部では紀元前7世紀に稲が開始されたと考えられるようになった。この稲作は江南(中国の揚子江流域)から航路によって得られたものだ。紀元前4世紀には、北九州にも江南の稲が伝わっているが、その頃の日本ではわずかに陸稲(りくとう)が作られただけであった。しかし、その時期の朝鮮半島南端部では、すでに大がかりな水稲耕作が行われるようになったと考えられる。

 原野をきりひらいて水田を作るためには多くの者を指導する首長(リーダー)が必要である。そして、米の収穫により食料供給が安定すると、大規模な集落ができ、やがて小国が生まれる。朝鮮半島南端部では紀元前2世紀頃に多くの小国ができた。

 この流れの中で、朝鮮半島からの移住者によって、日本の弥生文化が生み出された。それは、朝鮮半島南端部の小国形成期に相当する紀元前2世紀始めのことだ。そして、紀元前1世紀半ばに日本にも小国がつくられた。

 さらに同時期、朝鮮半島南端部に中国の江南の製鉄技術が伝わった点に注意したい。江南では、砂鉄製錬による鉄器づくりが行われてきた。朝鮮半島南端部の洛東江下流域には、砂鉄が豊富にあった。そのため、朝鮮は半島南端部のリーダーは、江南の技術を得て、鉄の生産・交易によって富を得ることになる。01/9/19/4:00/

次回は「伽耶?任那」です。

[その10でーす] /welcome:

 朝鮮半島南端部は、前回?前々回述べたように、3世紀には「弁辰」とよばれ、4世紀には「任那(みまな)」や「伽耶(かや)」と呼ばれた。考古学によってそこが豊かな文化が生まれたことがわかるが、弁辰や伽耶に強国があったとする記録はない。

 伽耶地方でもっとも有力であったのが金官伽耶(任那)は、それほど力はなかったらしい。金官伽耶の中心は、現在の金海市にあった。金官伽耶国をまとめる王家は、3世紀なかばに出現したとみられる。最盛期は4世紀と考えられる。その時期に、金官伽耶国は朝鮮南端部の小国郡の指導的立場にあった。そのため、朝鮮半島南端部は、金官伽耶国の別名である「任那」の語で呼ばれたのだ。

 5〜6世紀になると、金海以外の朝鮮半島南端部の各地にも多くの興味深い遺跡が営まれるようになるが、それがその時代、金官伽耶に対立する高霊伽耶国と呼ばれる。ちなみに、4世紀の日本の文化が伽耶の文化と深くかかわる証左は、伽耶の竪穴式石室である。日本の発生期の古墳は竪穴式石室である。そして、4世紀を通じてつくられた前期古墳はすべて竪穴式石室の型を受け継いでいる。その時代の百済のものは、横穴式石室、新羅のそれは積室木管墳(板で棺の回りを囲み、その外に小石を積んだ墓)。ゆえに、大和朝廷が形づくられたとする3世紀末、日本でも伽耶の王墓にならった竪穴式石室が設けられるようになった。このことにより、発生期の日本の古墳が伽耶系であることを示している。

 しかし、5世紀末から6世紀にかけて、百済風の文化が伽耶地方に流れ込んでいる。その根拠は、古墳の文化によるものだが、5世紀末に百済の文化の侵入が始まり、朝鮮半島南端部の文化が多様化していったのだ。

 墓制の観点からだけでも、新羅系を重んじる小国、百済化していく小国、古くから伽耶文化に固執する小国と、様々な立場の王家が出て伽耶地方は深刻化していく。

 こうして、伽耶地方では6世紀に入ると、新羅と結ぶ勢力、百済と結ぶ勢力、大和朝廷と結ぶ勢力の三者の対立が始まった。そして、伽耶諸国のまとまりが崩れ、その地域は新羅と百済に分割されることになってしまう。

 日本では、5世紀半ばに横穴式石室が取り入れられている。しかし、これは、朝廷が進んで百済文化を受け入れ、新文化をみずからの手でひろめていく形を取ったための現象と思われる。朝鮮半島南端部のように、文化の分裂を背景にしたものではないと思う。

 伽耶諸国の滅亡は、伽耶固有の文化が史上から姿を消すことを意味した。そして、それによって朝鮮半島の文化と日本の文化が、それぞれ独自の道を辿るようになる。この伽耶滅亡をきっかけに、日本人と韓国人(朝鮮人)とは、別々の民族になっていったのである。参考文献・武光誠著「謎の加耶諸国と聖徳太子」ネスコ。02/9/21/3/40/

まだまだ続きます。

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