第10話「朝廷はなぜ伽耶を隠したか?」

新カリスマのルーツを探せ・第9話「伽耶と大和朝廷との関わり?」

 大和朝廷の誕生とともに生まれた古墳に欠かせない「竪穴式石室」は、伽耶の文化を受けて作られたことがわかっている。つまり、伽耶で石槨(せっかく・棺を石で囲む埋葬施設)をもつ墳墓が生まれなければ、古墳文化はつくられなかったと考えられる。

 さらに、古墳時代の半ばまでの大和朝廷は、伽耶の文化を取り入れることで成長した。日本は、交易で伽耶の鉄を入手し、農耕具や織物の製法を伽耶から学んだ。この時期の朝廷は、伽耶諸国のなかから金官(きんかん)伽耶国(任那)と結んで高句麗や新羅と戦ってもいる。この戦いが日本の豪族に対する王家の指導力を強めることになった。朝鮮半島への出兵に加担しない豪族は、王家にそむくものとして亡ぼされた。

 また、5世紀末には伽耶から多くの帰化人(渡来人)が来朝し、先進文化を伝えた。しかし、6世紀にあたる古墳時代後期にはいると、大和朝廷は独自の文化を創造する方向を模索し始めた。奈良県斑鳩町藤ノ木古墳出土の豪華な馬具や装飾品は、その成果を示すものだと言える。これは、6世紀が、伽耶諸国の衰退期であったためだ。

 そして、7世紀には新羅が朝鮮半島を統一し、伽耶のものと異なる新羅文化を生み出した。新羅の動向より一足おくれる形で、大和朝廷にも独自の文化を、実際に生み出す動きが生まれた。7世紀始めに在来の文化と唐・百済・新羅などの文化を融合させることによってつくり出された飛鳥文化はその成果である。

 この動きの中心となったのが、かの聖徳太子といわれている。飛鳥文化がつくられた時代こそ、「日本」という国家が生まれた時期なのだ。そして、旧来の文化を持ち続けた伽耶諸国の多くは、新羅に併合されて滅んでいった。

次回は、「朝廷は、なぜ伽耶を隠したか?」です。

[その10でーす] /welcome:

 さて、伽耶(から)は小国連合として誕生し、その形態を保ったままで6世紀に滅びさった国だ。もし、この伽耶が日本を支配しようとしたなら、侵攻する前に伽耶自体の国土を統一するのが先決だったのではあるまいか。

 少なくとも、古代朝鮮半島は、隣国の領域を無視する形で海を渡って他国を侵略するほどの余裕はなかったと考えるほうが自然である。まして、自国の統一もなせないまま、他国を侵略することが果たして可能であり、国益を生むかどうか、はなはだ疑問である。

 伽耶と日本との関係が支配・被支配と言う形で描けないとすると、本来の関係はいかなるものであったか、ということである。そもそも、伽耶と日本の交流が近年に至るまで問題視されなかったのは「記 紀」(古事記・日本書紀)がこのあたりの事情を無視したためだ。ではなぜ朝廷は伽耶を隠したかなのだ?

 それは、伽耶自身が日本の正体を知りすぎているということだ。天皇家・大和朝廷の成立に何らかの形で深く関わり、このかかわりが、朝廷の神髄にふれるほどの深さであったために、のちに朝廷は伽耶の実像を抹殺しようとしたと考えられる。

 両国の親密な間柄になる条件のヒントは、それは、伽耶が交易国家だったということだった。つまり、伽耶が日本へ進出したのは事実であり、その理由を突き詰めれば、それは侵略ではなく、商業圏の拡大、市場の確保だったのではないか、との推理が働くのである。

 土地も少ない伽耶にとって半島で生き延びる道は、活発な商業活動の中に見いだすことが出来るはずなのである。伽耶は小国、日本は東海の孤島、両者は互いに弱い立場であったこと、地理関係からの結びつきなどから、経済的に盛んに交流を行うことによって、繁栄を築き上げようとしたのではないか、そしてもちろん、この商業圏を確保するためにも、伽耶は天皇家と多くの血縁を結び、王朝成立に貢献した可能性は高い。だからこそ、後の朝廷は伽耶滅亡後、朝廷成立の裏事情を知りすぎた伽耶の実像を抹殺せざるを得なかったのではないか。

 伽耶諸国の滅亡は、伽耶固有の文化が史上から姿を消すことを意味した。そして、それによって朝鮮半島の文化と日本文化とが、それぞれ独自の道をたどるようになる。

 この伽耶滅亡をきっかけに、日本人と韓国(朝鮮)人とは、別々の民族になっていったのである。

 地理的障害である対馬海峡が、日本列島と朝鮮半島との交流を妨げたわけではないのだ。壱岐(いき)・対馬(つしま)を経由すれば、古代人の丸木船でも、対馬海峡を簡単に往来できた。だから古代の北九州の人にとって、朝鮮半島南端部は、大和(やまと)より、身近な存在であったからだ。

次回は「新羅・百済の仏教」です。

参考文献・武光誠著「謎の加耶諸国と聖徳太子」ネスコ発行/文藝春秋。