1903年の時点で、メイン、カンザス、ノースダコタの各州には、19世紀からの遺産として禁酒法が成立していた。その後、反酒場連盟を中心に、各州で州禁酒法の制定を求めた運動が活発化した。1907年にジョージアとオクラホマを皮切りに、1919年まで合計33州で禁酒法が成立した。一口に州禁酒法と言っても、その内容は千差万別だった。廃止が容易な州法として成立したところもあれば、それが困難な州憲法の一部となったところもあった。
また、例えばノースカロライナ州やジョージア州では、蒸留酒のみに言及したものであり、アラバマ、ヴァージニヤ、サウスカロライナなどの各州では、他州または海外からの搬入を認めた。ミシシッピー州やテネシー州などでは、個人消費であれば自宅でワイン製造を合法としたし、反対にすべての酒類の製造・販売・運搬を禁止した「絶対禁酒法」を成立させた州も、アリゾナやアーカンソーなど13州におよんだ。しかしこの中にも、宗教行事で使われるワインを認める州も多かった。このように、なにをどのように禁止するのかという点は、州によって様々な相違があった。
1913年以降、反酒場連盟は州禁酒法の成立を目指しながら、合衆国憲法に禁酒修正条項を加える試みを並行しておこなった。同年4月、機関誌「アメリカン・イシュー」は、「時は来たり」と宣言した。その後開かれた集会において、憲法修正による全国禁酒法を求める決議を、全会一致で採択したのである。この決議は、首都ワシントンで下院議員のリチャード・ホブソンと上院議員のモリス・シェパードに託され、その後「ボブソン共同決議」として議会に上程された。
「ボブソン案」は、1914年末に下院で採決され、過半数の賛成を得たものの、憲法修正に必要な三分の二には遠くおよばなかった。しかし、この年の6月に勃発した第一次世界大戦は、禁酒法運動にとって、まさに追い風となった。
ウイルソン大統領は対ドイツ宣戦布告を勧告する教書の中で、「世界を民主主義にとって安全なものとするため」、国民に「惜しみなく払う犠牲」を求めた。
アメリカが、ドイツと戦闘状態に入る1917年頃には、国民の愛国心が高揚すると同時に、禁欲的な生活を強いる社会風潮が一段と広まった。醸造業者のほとんどがドイツ系市民だったことも、禁酒法運動をさらに活発なものにした。また、戦争という非常事態は連邦権力の拡大に貢献し、平時ならば州権との関係で強く主張されたであろう憲法修正に慎重な意見が、予想外に弱かった。時宜を逃さず改めて提出された修正法案は、多くの国民が戸惑うほどの速さで、1919年1月16日に、合衆国憲法修正第18条として確定されたのであった。
次回は、「高貴な実験」です。
参考文献・岡本勝著・禁酒法「酒のない社会」の実験・講談社現代新書。
アメリカでは、1920年1月17日の午前零時を過ぎて、酒類の製造、販売、運搬などを禁止する合衆国憲法修正第18条(以下18条と略称)が効力を発した。第31代大統領ハーバート・フーバー(在籍1929〜33年)は、この試みを「高貴な動機と遠大な目的を持った社会的、経済的実験」と評した。彼は「ドライ派」、つまり禁酒法の支持者であり、もちろんこの「実験」を肯定的にとらえていた。しかし、この言葉が伝えられた1928年には、実際に国民の多くは禁酒法を廃止するか、少なくともアルコールの度数の低い醸造酒を合法化する変更を求めており、フーバーのように、それを擁護する者は少数派になりつつあった。世論を支配した「ウエット派」、つまり禁酒法に反対する人達は、大統領の言葉尻を捕らえ、第18条を冷笑的に「高貴な実験」と呼び始めた。
1919年に第18条が確定したとき、多くの国民は、来るべき時代には世の中から酒類が一掃(しっそう)され、秩序ある社会が出現するものと考えた。確かに、1920年代になると、政治的には秩序を重んじる保守的な風潮が広まった。ロシア革命後一段と高まった共産主義にたいする恐怖の中で、強盗殺人の容疑者として逮捕された二人のイタリア人無政府主義者(アナーキスト)に、物的証拠がほとんど示されないまま、死刑執行が下されるという出来事があった。公正さを欠くこの裁判に対する国の内外からの非難を無視して、1927年に刑は執行された。この時代、無政府主義者と共産主義者とは同一視され、「反アメリカ的」として敵視されたのである。
1924年には、議会は移民全体の数的制限に加えて、カトリック教徒やユダヤ教徒が多い東・南ヨーロッパ地域からの人々に対する割当枠を狭め、さらに、アジアからの移民(実質上日本人)を全面的に禁止する制限法を成立させた。これは、国内に広がった「排外主義」の声に答えたものだった。また、1925年には、テネシー州で有名な「スコープス裁判」が行われ、ダーウィンの「進化論」を教えた高校教師のジョン・スコープスが、罰金刑の有罪判決を受けた。当時テネシー州では、聖書の教え(天地創造説)を否定する理論を、公立学校で教えることを禁止すう州法があった。
しかし、このような政治の分野では秩序を求めて保守化したが、現実の社会は必ずしもそうはならなかった。当初禁酒法も、秩序をもたらしてくれるものと期待されたが、実際には思わぬ混乱を招いた。禁酒法が施行されると、密造酒や密輸入酒が大量に出回り、それを扱って暴利をむさぼるギャングの組織化が進み、彼らと手を組む法の番人が増え、むごたらしい殺人事件が多発し、一般に国民の中にも、法律を無視することに罪悪感を感じない風潮が蔓延するなど、皮肉な結果が生み出されたのである。病気に効くはずの「特効薬」が、より深刻な「副作用」を引き出してしまったと言える。