史上最高の年間純利益を上げた個人商人はシカゴ、ギャングの創始アル・カポネ。1927年の1年だけで、稼いだ儲けが当時のお金で、1億5千万ドル(約2百40億円)。不景気で金の値打ちがうんとあった当時のこと。新興宗教の予言者やら、視野の狭い実業団体の幹部につつかれて、1919年に禁酒法が連邦会をフアフアッと通過したばっかりに、以後、13年にわたる米国暗黒時代がやってくる。その口火をつけたのは、「禁酒党」と名乗る政治結社であり、最も先鋭的だったのが「酒場反対規正連盟」の善男善女。ほんの一握りの人達が酒のない国を天国と夢見た高邁な理想のために、国民のほとんどが大変な迷惑を被り、さらに加えて屈辱と堕落の地獄をさまよったのだ。”夜の市長”とも名付けられたアル・カポネ。彼は161カ所へお気に入りの子分を送って酒場の経営に参画させ、鼻血が噴き出すほどの札束を政治家へ握らせて、議会も裁判所も警察も買収し、善良な市民をせせら笑って悪の世界に君臨した。彼の手下は遂に700人にもなり、機関銃を乱射してカナダから密輸の高級酒を奪ったり、防弾装甲車でインチキ密造酒の運搬を護衛したりして、その生命の大半は、ウイスキーにかけられた。彼らは機関銃を「タイプライター」と名付けて、口笛混じりに打ちまくり、1929年だけでギャング団同士が500人を殺している。墓場に大密造所があったり、質屋の店にずらりとぶら下がった洋服に酒瓶が隠されたりした。この時密造酒と言えば、浴槽へアルコールをぶち込み、エッセンスを垂らして浴槽の蓋でジャブジャブかき混ぜ、じょうごを瓶の口へあてて風呂桶で汲み込まれたという驚くべきシロモノ。「ライオンの小便」と人をくった名前を付けている。禁酒法は1933年に撤廃されたが、密造酒と違って発酵蒸留の行程を経て造られるウイスキーは、仕上げの段階で樽貯蔵による熟成期間が必要だ。すぐ需要に応じられるものではない。だから、しばらくはカナダや英国からの輸入が相次いだ。翌34年は昭和9年に当たるが、この年、日本からもウイスキーが輸入されている。(禁酒法は1919年の次をクリックして下さい。)
1806年のアメリカの雑誌では、カクテルが、酒に水、砂糖、ビターズを混ぜた飲み物の意味で使われている。だから、その頃にすでに「カクテル」と言われる名前はあったことは確かである。19世紀を通して、ヨーロッパとアメリカに広がっていったようである。1862年には、ジェリー・トーマスによる「ボンビバン・ガイド、いかに飲み物をミックスするか」が出された。これは最初のカクテルブックと言われ、ジェリー・トーマスはカクテルの父と言われる。しかし、以上はカクテルの前史であり、本格的なカクテル、つまりモダン・カクテルはアメリカで準備され、1920年代に世界的に普及したのであった。モダン・カクテルは単なる混ぜた飲み物ではなくて、その飲み方が、現代都市生活にふさわしいスタイルを持っていなくてはならないのである。つまりファショナブルではなければならないのだ。第一次世界大戦が終わり、新しい時代が始まる。現代都市のライフ・スタイルが現れる。ドリンキングのスタイルも大きく変わらなければならない。新しいスタイルをヨーロッパに持ち込んだのはアメリカ人であった。彼らはジャズとカクテルをもたらした。1920年代にこの二つは切り離せない。この時代にドリンキングのスタイルはどう変化したろうか。19世紀までの強い酒をぐでんぐでんになるまで飲むという習慣がなくなり、軽い酒をスマートに飲むようになった。これはたばこについてもいえることで、きついパイプは葉巻に変わって、軽いシガレットが中心になる。おそらくこれは、女性が酒を飲み、たばこを吸うようになったことと関連しているのだろう。飲むときは徹底して飲むが、飲まないときは飲まない、と言うスタイルから、いつでも好きなときに、好きなようにして飲むというスタイルに変わってくる。19世紀には、レストランやバーは決まったときにしか開いていなかったし、夜中になると閉まった。しかし、、20世紀には電機照明によって街は夜も昼のように明るくなり、真夜中も起きているようになる。1921年から1922年に、ロンドンでは、ドリンキングの二つの新しい習慣が登場したと言われる。一つは最初のナイト・クラブがオープンしたことであり、二つ目は、カクテルの登場である。この二つは、第一次大戦世代の旧世代にとってショックであった。元に戻る