「その9・反酒場連盟」

禁酒法・その8  「婦人キリスト教禁酒同盟」

 南北戦争後、二つの組織によって、禁酒法運動の復活が図られた。1869年に結成された「全国禁酒党同盟」と、1874年の「婦人キリスト教禁酒同盟」だった。連邦レベルでの禁酒法成立綱領を掲げた前者は、禁酒法に消極的な民主・共和の二大政党に不満をもつ人達を結集しようとした第三政党である。この政党は、1872以降100年以上にわたり、毎回大統領候補を立て続けたが、二大政党の強固な壁は厚く、大きな政治勢力とはなれなかった。

 他方、婦人キリスト教禁酒同盟は、男性指導者の手から離れた初めての有力な禁酒組織で、世紀転換期には、会員数の点で、世界有数の女性による社会改革組織となった。当時のアメリカ社会では、ほとんどの州で女性の投票権は認められておらず、また政治的な活動についても、男性だけでなく、多くの女性から否定的にみられる傾向にあった。

 そもそも、婦人キリスト教禁酒同盟が誕生するきっかけは、酒場を標的にした女性達による実力行使だった。女性達は隊五を組んで酒場に押しかけ、賛美歌を歌い祈りを捧げ、閉鎖を求めて店内に居座った。

 この「酒場訪問」には、酒場の主人達にとっては、この上もない恐怖を感じさせた。もちろん、家庭を離れてひとときの心の浄化場に妻達が来ると云うことは、亭主達にとっても青天のへきれき、ゆゆしき大事件であった。結局、酒場側は一度は店を閉鎖したため、この婦人達の活動は一時は成功したかに見えた。しかし、生活を脅かされた酒場の主人達も反撃にでた。グラスを奪われた亭主達の強いバックを受け、一度は同意しておいて店を閉鎖したものの、とりあえずは裏口を、結局最後は、堂々と正面の入り口を開けて営業を再開するのであった。

 業を煮やした婦人らは、1880年前半、政権政党の共和党に接近を図った。しかし、投票権をもたない女性の協力より、それをもつ男性飲酒家の反発を恐れ、冷淡な反応しか見せなかった。

 結局、婦人キリスト教禁酒同盟が共闘できたのは全国禁酒党だけで、この二つの連合は、大きな政治勢力にはなり得なかった。ただ、1880年代に州レベルの禁酒法を求めた運動が、これらの組織を中心に展開され、カンザスやノースおよびサウスサダコダ州で州法が成立したことは、ささやかな成果と言える。次回は「反酒場連盟」です。

[その9でーす] /welcome:

 世紀転換期のアメリカ社会は、東・南ヨーロッパを中心とした国々から移民が大量に流入し、その数が年間100万人を越える年が続いた。民族的多元化にいっそうの拍車がかかるとともに、文化的規範を問い直す風潮が強まった。排外主義が、再度大きな力をもつようになった。1850年代と同様に、禁酒法は都市・農村を問わず、主にアングロ・サクソン系プロテスタント(ワスプ)の市民の間で支持された。

 世紀末以来、禁酒法の成立を目指した政治活動は、1895年12月に結成された反酒場連盟を中心に行われた。教会に基盤を置くこの組織は、所属政党や禁酒以外の問題への取り組みに関係無しに、禁酒法に賛成する議員を推薦する一方で、それに反対する議員を攻撃した。この組織を支持する人達には企業家も多く、ジョン・ロックフェラー親子はとくに有名で、彼らは長年にわたって多額の寄付をした。政治腐敗や売春などの社会的悪徳と結びついた酒場を糾弾することで、反酒場連盟は目的手段の点で多様化した各地の禁酒組織を、全国レベルで統括することに成功した。

 当初、反酒場連盟は、一般社会で悪評を買っていた酒場の、コミュニティーからの追放という文字通り、「反酒場」を目標に掲げた。その後連盟は、攻撃目標を酒造業界へも広げる戦略を採った。これは酒造業、とりわけビールを製造する醸造業者が、19世紀以降多くの酒場をその支配下に置き始めたことが背景にあった。この現象は、禁酒運動の成果の一つとして、酒場の営業許可証取得料が、各地で大幅に引き上げられたことに端を発した。

 当時すでに、多くの酒場は過当競争から経営難に陥っており、醸造業者の取得料肩代わりの申し出に飛びついた。業者が製造するビールを酒場で独占的に扱うことが、肩代わりの主な条件だった。

 この「特約酒場」を支配できたのは、資金が潤沢な醸造業者が多かった。それは、19世紀の後半になって、ドイツ系移民が味の良いラガービールを生産し始めたこと、また禁酒運動の影響で蒸留酒を控える「適度な飲酒家」が増えたことにより、国民の多くが醸造業、とりわけビールを好むようになったからだ。1840年には、15歳以上の国民一人が蒸留酒5.5ガロンを消費したが、1900年には1・8ガロン(一ガロン=3.7853リットル)へ減少した。一方ビールは、同じ期間に2.3ガロンが、約10倍の23.6ガロンへ激増している。従って、醸造業者による酒場支配は、資本の蓄積がなかった醸造業界の実力を反映したものだった。酒類の販売だけではなく製造そのものも禁止してしまう禁酒法が、強く求められたのは、このような状況があったからである。

次回「時は来たれり」です。

 

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