「禁酒法その7」

禁酒法・その6 「ワシントニア運動」

 1840年代に入り、自助を目的とした禁酒の呼びかけが職人仲間で始まり、今日の「アルコール依存者匿名会](AA)の出発とも言える断酒運動が、全国各地で展開されました。

 ボルティモアの、とある居酒屋に集まる大工や鍛冶屋など6人の常連客が、「おもしろ半分」で禁酒講演会を聴きに言ったのが、そのきっかけだった。数日後、素面で集まった6人は、以前は誰一人として想像もできなかったこと、つまり新しい禁酒組織をつくる相談をしたのである。

 彼らは大なり小なり酒で人生を狂わせた経験を持っており、アルコール度の低い醸造酒なら立ち直れるなどという、中途半端な禁酒が無駄なことを理解していた。

 そこで彼らが結成した組織では、誓約書が「蒸留酒の禁酒」から「絶対禁酒」へと書き換えられた。敬愛するワシントン大統領にちなんで、自らを「ワシントニア」と呼んだ改革者たちは、個人が持つ自尊心に訴えるやり方で、断酒の輪をボルティモアから全国へ広げていった。

 この運動のピークは1842年から翌43年にかけてで、およそ60万人の大酒飲みや「ほどほど飲酒家」が絶対禁酒の誓約を行った。しかし、1840年代も半ばを過ぎると、ワシントニア絶対禁酒運動は急激に色あせたものになり始めた。一度は断酒を誓ったワシントニアの多くが、再び飲酒に走る「後戻り現象」がこの運動を妨げた。

 しかし、より重要なのは、ワシントニアに代表される「道徳的説諭」という手段が、もはや禁酒運動において有効と思われなくなったことだ。それに代わって「法的強制」を指向する活動が禁酒運動の主流になり始めた。1850年代以降の「禁酒運動」については、その手段の着目して、「禁酒”法”運動」と呼ぶことにする。

続く。

[その7でーす] /welcome:

 「メイン法運動」

 禁酒法が提唱されるようになった背景としては、次のようなアメリカ社会の変化に留意する必要がある。

 1840年代後半に始まるアイルランドやドイツからの移民の増大は、アメリカ社会に緊張と文化的摩擦を招いた。主食であるジャガイモの大凶作や革命の失敗のため、祖国を離れてアメリカに渡ってきた人達は、おもに北部の都市に住みついた。移民達は、アングロサクソン系に代わる新たな労働者階級を形成し始める。彼らの中には、安息日を無視して、同じ民族的背景を持つ者が経営する居酒屋で、母国語を話しながら飲食し、深夜町の通りを泥酔状態で騒ぎまわる者もいた。

 そこで、禁酒運動家達は、プロテスタント的倫理観に合致すると自らが考える「素面」という生活習慣を、その多くがカトリック教徒の移民に認めさせる必要性を感じた。しかし、以前の同質的だった社会とは異なる多元化した環境の中で「道徳的説諭」の有効性は疑われ、「法律」による強制が支持されるようになった。それまでは個人的な道徳問題として捉えられていた過度の飲酒が、社会問題として扱われ、その解決策として酒類の製造販売を禁止する法律、つまり「禁酒法」が19世紀半ばにすでに提唱されたのである。

 1850年代前半、メイン州を皮切りに11州2準州で、州レベルの禁酒法が成立した。この「メイン法運動」と呼ばれるものは、1920年代に始まる全国「禁酒法の時代」へと向かう、出発点となった。

 しかし、禁酒法が厳格に施行されたメイン州でも反発も強く、禁酒法運動者が市長を務めるポートランド町では、1855年には死傷者を出す暴動も起こった。南北戦争へ向かって、国民の関心がもっぱら奴隷制度に集中する中で、政治家達は州民を分裂させうるこの微妙な問題を避け始めた。結局、南北戦争が勃発する1861年まで、禁酒法と言えるものを施行しえたのは、メインなど数州にとどまった。

 さらに、禁酒法運動の沈滞理由は、南北戦争の時期、むごたらしい殺戮が行われた極度の緊張感の戦場で、禁酒を強制することなど不可能であった。それ故、北軍・南軍を問わず、飲酒は黙認、いや野放し状態にされた(一部に禁酒連隊なるものは存在したが)。次回は「禁酒十字軍」です。お楽しみに・・

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