禁酒法とスピーク・イージー

アメリカの禁酒運動は、実に長い歴史を持っている。古くは1660年、マサチューセッツ議会が、休日の酒場の営業禁止を決定したと言う記録が残っている。以来、多くの州や郡が禁酒の決定をしている。が、それにともない庶民の間でも禁酒運動に身を投じる人々が現れた。一説には1833年末までには禁酒団体5000、会員100万人にものぼったとか。こうした運動の推進者のリーダーで結成されたのが、ピューリタニズムの強いW・C・T・U(キリスト教婦人矯風会)であった。この団体を支持母体に、20世紀初頭には50万軒に達していたサルーンを標的に、キャリー・ネーションが大活躍をした話しはあまりにも有名だ。禁酒法の立役者、キャリー・ネーションが何故禁酒法に走ったか・・・。比類なき酒飲みだった最初の亭主をアル中で失い、2度目の亭主も酒が原因で離婚、そんな彼女は54歳のある日、神の声を聞く「悪魔の呪いである酒から人々を解放せよ」。そこで彼女は神の言葉に従って活動開始。まずカンサズ州のカイオアのサルーンに手斧を持って乱入。以後、彼女はその筋肉たくましい体躯を黒装束に包み、禁酒に賛同する女性達を率いて各地で大活躍?禁酒法遂行に邁進したのである。女丈夫とはいえ、そこは神の導きがあったればこその行動?

ドイツ人ルイス・レビン博士は1927年に次のように記している。「新たな強制禁酒措置が実施された結果は、もしも自分自身の目で最近の事の真相を見たのでなければ、これほどまでひどく、これほどまで大ぴらに、これほどまでぬけぬけと楽しげに法律を馬鹿にすることが出来るなど、ほとんど信じられない」と。実際、これほど抑圧的な措置に、アメリカ人はほとんど慣れておらず、禁止によってかえって勇気づけられたかと思われるほどに、この法律を大胆に違反した。ビールや蒸留酒の密造工場が増え、スピーク・イージー(もぐり酒場)や闇の酒屋も増加した。アルコールの推定消費量だけでも、1921年から1930年までの間に5倍に増えたようである。医師はその患者に対し、必要と思われる場合に、10日に半リットルを限度として酒を処方する権利を持っていた。こうした医師達は1年間になんと1380万枚のアルコール引換券に署名した。酒場経営者やバーテンは「出直し」をして仕事を変え、たとえば、ニューヨーク州の薬局の数は1916年に1565軒であったものが、1922年には5190軒に増えた。しかし、良心的なバーテンダーはフランスやイギリス、キューバのバーへ職場を変えた。そして彼らにより、アメリカ的なファッショナブルなバーが作られていったのではないだろうか。アル・カポネに戻る