じ ゃ ん が ら
自安我楽
「 祐天上人とじゃんがら念仏踊り」歩録
「トント トント トント トント ドント ドン don,t、 チャンチャ チャンチャ チャン チャンチャチャン チャンチャン チャチャチャン チャント」ねと、小太鼓を打つ音と鉦(かね)をならす音が、昼休み、近くにある食堂で、昼食を終え、事業所の構内に戻ると、この囃子を誰しも耳にする。
ここは、いわきの町外れにある、地域密着型の事業所で、昼休みには、拍子のある音響があることが、ありふれたようになって、俗界と離れた雰囲気となった構内である。
ちんどん屋なら、チンチン ドンドン チンチン ドンドンに加え、クラリネットの音色がはいる。
鉦と太鼓は、いわき市平地方で、伝承された風俗、じゃんがら念仏踊り≠フ囃子である。
いわき市平地区青年団の活動で、江戸時代からの伝承して、盂蘭盆に新盆の家を廻って、供養のために、じゃんがら念仏踊り≠慣行でやっている。
昭和四十一年十月一日に、平市、内郷市、常磐市、磐城市、勿来市の五市が合併する以前には、いわき市南部方面の植田地区、錦地区、勿来地区では、みられなかったもので、いつのまにか、いわき市の風物詩になっていた。
いわき市平地区の親族が、毎年の盂蘭盆に、「じゃんがら≠ェあるので、盆明けには行きますから。」といって、盆送りの前には、訪れられない言い訳をしての連絡がある。
その親族は、いわき市平地区青年団連合会長を就いて、活動の役柄を生甲斐のようにしていた。
じゃんがら念仏踊り≠フため、編成、資金、行動予定等を仕切っているという話は、酒以外でも快感に酔っているようにも見えた。
「お布施の入りも、馬鹿にならないし、集大成の平市民会館で行う、じゃんがら念仏踊り総合大会≠ナは、市長に掛け合って、寄付をもらうが、俺でなければ、もらえない。別の人が行くと、市長が、どうして、彼が来ないと言うらしい。青連会は、俺がいなくては、うまくはないんだわい。」と自慢する。
いわき市平地区青年団連合会長というものの社会的地位の程度を知らない者に、必死で説明するが、いわき市南部人にとっては、他国の大統領の存在で、側近におだてられ、誰もやりたくない、寄付の要請廻りをさせられていると推測する。
現今、いわき夏まつりの行事では、新作の国籍不明、いわき踊り≠うみだして、伝統あるがのごとくにふるまい、おどらにゃそんそんと、猫と杓子がやっている。
この、いわき踊り≠ヘ、観光を目的とした行事のために、単純に、福島市のサンバカーニバル≠フ物まねに過ぎないことは、いわき人には衆知のことである。
じゃんがら念仏踊り≠ネらば、「ナア、ハア、ハア、ホイ、メエ、ヘエ、ヘエ、ホイ、いわき名物ゥ、じゃんがら念仏、・・・・、じゅうろくよごしの踊りだ・・・」とかの歌詞と珍しいふし≠ナうたったレコードを聞いたような気がする。
これを、いわきの民謡とずうっと、おもっていた。
カラオケ時代の来る前は、東北の北部の他県に行くと、酒席で必ず、「磐城の民謡を歌え」と言われる。
「いわきには、民謡といわれるような歌がないんです。」と答えた。
酒席の勢いは、「常磐炭鉱節≠ェあるんでないか。」と言う。
常磐炭鉱節の「朝もはよからよォ、カンテラ下げてない。・・」という民謡の歌詞も、後に続いての小節が出ないほどに忘れてしまった。
もっとも、常磐炭鉱節は、茨城県民謡だ。
相馬地方出身が、相馬盆唄、相馬二篇返し、相馬流山を必ず歌った。相馬は、民謡で有名な土地である。
現在では、いわき<Cコール、美空ひばりのみだれ髪≠ナあり、民謡の芸を出す人などはいない。
文化体育活動の話合いで、新しく、じゃんがら部≠フ創設を願望し、認知の求めて提案した面々がいた。
そこで、部として新設を認めないことの主旨で「じゃんがら≠ヘ、宗教的行事である。したがいまして、野球部、サッカー部、バレーボウル部、スキー部、書道部、華道部等と同列で、じゃんがら部≠ニはならない。体力増進と一般教養の情操が目的の文化体育活動の枠組としてのあつかいはできない。ましては、新盆の家を廻って、供養のために、じゃんがら念仏踊り≠披露し、お布施をいただく行為というのは、坊主の代わりか、同じく宗教活動の一環である。いくら、宗教の自由といっても、事業所内での宗教活動を許されることでないとおもう。したがって、部として認められることでない。部を新しく設けることには、反対する。」と、筋道として通ったつもりの意見とおもって発した。
座長は、既に、じゃんがら部≠フ認知の求め、提案している面々に、内諾を下していたような感じだが、口を尖らして、「じゃんがら≠ニいうのは、ここ、いわきのお菓子のことで、じゃんがら踊り≠ニいうのは、その菓子をもとにして、太鼓の踊りになったとおもっていたし、宗教活動になるなどということは、少しも考えていなかった。」と少しトーンダウンしながら言った。
don,t、know!
「お盆の季節でもないのにもかかわらず、じゃんがら≠フ太鼓と鉦をならしているが聞こえるのは、宗教団体の構内に入るような嫌な雰囲気になるし、一考を要する事である。」とも付け加えた。
ねんがらじゃんがら事態である。
「和太鼓部というのが既にあり、熱心な活動を続けている。幅広く、有名になってしまったので、言い難いが、じゃんがら念仏踊り≠焉A太鼓と鉦だから、混ぜてもらうことで、その一部になってはどうか。」という妥協案を出した。
じゃんがら≠ノ、とかされた面々は、転向することはなかった。
熱心に、太鼓踊りを毎日している面々を、批判はしても、非難まではできない。
他人の道楽には、けちをつけるな≠ニいうのが、ひとの道である。
「高名な僧侶が、『いわき地方の衆人は、無学で信仰心の薄いので、なんとかして、仏教をひろめようと、念仏を歌と踊りに代えて、教えようとした。』ということから、布教の目的で、じゃんがら念仏踊り≠広めたのが由来で、そこを理解し、郷土芸能部として、いわきの風俗を研究という目的を掲げて活動するようにしたら如何か。」と提案した。
同席者に意見もなく、落着した。
「高名な僧侶とは、
祐天上人≠ナすよね。」と、じゃんがら念仏踊り≠率いる頭領が言った。
祐天上人≠ニいう人物との関わりを知りながらの活動と分かり、じゃんがら部の新設反対を、深追いしないで良かったと覚えた。
此方もじゃんがら念仏踊り≠フ由来が、
祐天上人=Aとだけの見識である。
国道六号線を北上して、いわき市四倉町仁井田川附近を通過する際、左側に、佑天上人の生家入口≠ニ標識が目に入っていたが、未だ踏査してなく、気がかりの地であった。
旧浜街道に面して、空き地があり、 祐天上人≠フ案内看板があった。
そこの後方で、庭の手入れをしていた女の方がいたので聞いてみた。「佑天上人≠フ生家というのは、あの赤い屋根の建物でしょうか。」と質問した。
女の人は、庭の手入れの手を止めて答えてくれた。
「そうです。わたしのうちです。いまでは、あの家に、住んではいないんです。
祐天上人≠ヘ、確かに、この家から出たんです。といっても、そんなにはながくは、住んではいなかったそうで、あの建物の前の建物だったそうです。」と言った。
「
祐天上人≠ヘ、いわきの人物で、三本の指に数えられる人とおもっていましたので、祐天上人≠フ生家ということは、確かな原点で、出発点になりますので、祐天上人の生家入口≠ニの案内標識を気にしていまして、それで、今回、来てみました。」と訪れた動機を話した。
「数年前まで、住居にしていたのですが、あまりにも古くなったので、手前に住居を新築して住んでいます。古い建物なのですが、壊すわけにもいかないですし・・・・・」と話をしてくれた。
「今では物置として使っているので、荒れてしまって、あの家に、上人≠ノ関係として残っているようなものは、なにもないんです。」と付け加えて言った。
庭の手入れを中断し、説明をしてくれるので、恐縮してしまった。「もう少し、
祐天上人≠フことを調べてから、また、来ます。ありがとうございました。」と礼を言い、立ち去ろうとした。
すると、親切に「
祐天上人≠ェ、自分で植えたという、数珠の木≠ェあるのでご覧になりますか。」と、庭の中に入れさせてくれて、案内をしてくれた。
数珠の木≠、実物を観たことがなかったので、「どれですか」と聞いて、指で示してもらった。
樹は、建物の正面に植えてあった。
数珠≠ニいうと、仏・菩薩、を礼拝するときに、手にかける用具、キビ(黍)のような、植物の球状の種子を採って、乾かして、孔をあけ、紐を通して作られているようにも想像していたので、樹木の実を使い数珠玉にしているというのを知り、少し面食らった。
数珠の樹を観るために庭先まで入ったので、建物も近くでみることが出来た。
新居側の玄関に、新妻≠ニいう表札があった。
建物の構え、経緯を教えてくれた。
「かやぶき屋根の痛みが激しいので、後にトタンで覆ってあります。この家は、日常生活の玄関とは別に、縁側に階段をつけた入り口にして、近所の人達が、信仰のために集まる際に、家の中への出入りをしやすいように、造られたようです。以前に、いわき市暮らしの伝承郷≠フ所へ移転をして、いわき市が保存するという話もありましたが、この家は、この場所が良いということで、そのままになりました。こういう状態で保存も大変なのですが。」と言った。
此方も、「
祐天上人≠フ原点ですから、ここに残してあった方が良いとはおもいます。しかし、文化財に指定されたりしたら、維持をする子孫が大変ですね。」と言ったら、「そうなんです。」と頷いていた。
建物裏手、北西側に、お堂があり、二十三夜堂=A二十三夜尊塔≠観ることが出来た。
しかし、曰くがありそうなので、じっと見てから、写真を撮った。
すると、「上人≠ェ、幼少の時、ここで、お告げがあって、あの道に入ったと聞いています。二十三夜は、今でもやっています。」と言った。
二十三夜≠ェ何なのかも知らないで訪れたことを恥じた。
じゃんがら念仏踊り≠フ源泉を探求した手ごたえを覚えた。
東京都目黒区中目黒の佑天寺の
祐天上人≠フ墓とともに、分骨され、郷土にも墓があると知っていたので、場所を聞くと、「国道六号線の海側にある、最勝院というところです。」と教えられた。
庭の手入れを中断させたお詫び、説明をしてもらったお礼を言ってそこを離れた。
祐天上人の墓≠フある最勝院(浄土宗)を参詣した。
最勝院は、国道六号線の二級河川、仁井田川にかかる橋の近くで、北に向かって右側にある。
いつも通るたびに、大きなお寺と見ていたところだった。
古く太い大樹、銀杏の樹が、幹は朽ちても、枝をつけ、黄に色づいた葉をつけている。
本堂の右手奥に、一段高い造りで、南無阿弥陀佛≠ニ刻まれた墓石があった。
「
祐天上人の墓」、「新妻家」とか、「新妻家先祖代々之墓」とかを刻んだ墓石と想像していたが、新妻家の後継ぎではなかったためであろう。
観光地でもないのに、仏教に疎く、縁もゆかりもないものが、寺の墓に、お参りに行くことは、少しの抵抗を覚えた。
後日に分かったことだが、庭の手入れを中断して、説明をしてくれた女の方を知っているという知人がいた。
新妻家の子供二人と、知人の子供が三人の内の二人が同級生であるということを聞いた。
気がかりな地を訪れたのは、その遠感現象かと覚えた。
いわき人ではない福島県の人が、「じゃんがら≠ニいうのは、ここ、いわきのお菓子のことで、じゃんがら踊り≠ニいうのは、その菓子をもとにして、太鼓の踊りになったとおもっていた・・」と言った座長は、歴史小説を書いて、本を出すほどのしたたかな方だ。
だが、どこの土地でも、名物とか、おみやげの菓子の類は、その地域の有名な山、川、海、産物、人物、祭、名所旧跡等の由来として命名するはずだ。
菓子を源泉として、囃子と踊りを振付けにするというような、可笑しな由来は、聞いたことがない。
この方の文章力の評判は聞いていたが、歴史の調査力と歴史考証の真偽の程度は、眉唾ものと覚えた。
たしかに、銘菓じゃんがら≠ヘ、太鼓の形をしている。
勿論、じゃんがら念仏踊り≠フ、囃子の太鼓の形をモチーフに、菓子のデザインをしたのである。
いわきの銘菓、じゃんがら≠製造と販売している、みよし≠フ初代社長、故荒井氏とは、かつて、ゴルフでラウンドの機会があった。
お菓子の名に、じゃんがら≠ニ命名した理由を、直接に聞いておけば良かったと後悔した。
じゃんがら≠ノ縁のなかった、いわき市南部の四沢という所から、いわき市平地区(当時は、平市)に、出店し、どうして、じゃんがら≠ニ命名したのかと。
鰍ンよし銘菓じゃんがら≠フ源流は、勿来町四沢にあった、その頃の和菓子の製造・販売店の風景をおぼろげに憶えている。
鰍ンよしの創業者で先代社長の故荒井氏には、先見の明があった。
いわき市での創業で、生き延びている、数すくない企業に敬服する。
故荒井氏の生前、同伴ラウンドの際に、「ゴルフは、ボウルを飛ばすわりに、スコアが悪いというのは、猿と同じだ。猿は、飛ばせ、飛ばせと教えられると、ボウルを飛ばせるようになる。しかし、猿というのは、馬鹿だからグリーンに来てまでも、また、飛ばしているからなあ。」と強烈な叱咤を受けたことがあった。
猿みたいな容貌の荒井氏に言われたので、衝撃が大きかったので、
お菓子の名に、じゃんがら≠ニ命名した理由を、聞く余裕も失せてしまったことをおもい出す。
いわき市で、最も高級なベンツを運転し、おサルのベンツ≠ェ走ると言われていた荒井社長である。
いわき市平では、無人のベンツが走るともいわれた。
故荒井社長のベンツは、側溝への寄り道が多かったとの話もあって、有名人でもあった。
近くよりも遠くの観通し力に長けた人である。
南無阿弥陀佛
ゆうてんしょうにん【 祐天上人】
寛永十四年〜享保三年
(一六三七〜一七一八)
江戸中期の浄土宗の僧。
号は、明蓮社顕譽。
磐城の人。
念仏布教に努めて生仏と尊ばれ、将軍徳川綱吉・家宣の帰依を受け、東大寺大仏殿・鎌倉大仏などを修営。
いわき市四倉町上仁井田北細谷、一六三七年四月八日生まれ。
幼名、新妻三之助
詳しくは、東京都目黒区中目黒の佑天寺で知ることができる。
《探求》(広辞苑に採録から)
数珠の木
じゅずたま【数珠玉】
木欒子(もくれんじ)、水晶、珊瑚などを用いる。
もくれんじ【木欒子】
〔植〕モクゲンジの別称。
もくげんじ【欒子】
ムクロジ科の落葉高木。中国原産で寺院などに栽植。球形の種子は、数珠玉に用いる。センダンバノボダイジュ、ムクレニシムクレンジノキ。漢名、欒華。
ムクロジの誤称。
むくろじ【無患子】
ムクロジ科の落葉高木。高さ約十〜十五メートル。葉は、羽状複葉。六月頃、淡黄色五弁の花をつけ、球状の核果を結ぶ。種子は黒色固く羽子の球に用、・・・
数珠の木≠ニ言われて、樹種を特定の探求を始め、あたりのつけてみた。もしかして、これかも、辿り着いたのだろうか。
つくばね【衝羽根】
(羽根つきの羽根の玉)という情報もあったので、なるほどそういえば、羽根つきで、羽子板で撞くところの羽根の玉と数珠は似ているので確かめてみた、こちらは、ビャクダン科の落葉低木で、これではなさそう。
にじゅうさんや【二十三夜】
陰暦二三日の夜。
この夜、月待をすれば願い事がかなうという信仰があった。二十三夜待。
じゃんがら【自安我楽・治安和楽】
(囃子の鉦などの音から)、念仏踊りの系統に属する民族舞踊の一。
長崎県平戸島、福島県平地方などで行われる。
《広辞苑から出典》
「ぢゃんがらの夏」という、郷土風習を記録した本を見たことがある。(夏井芳徳氏)
《広辞苑に収載の磐城の人》
あまだぐあん【天田愚庵】歌人。
おおすがおつじ【大須賀乙字】俳人。
くさのしんぺい【草野心平】詩人。
やつはしけんぎょう【八橋検校】近世筝曲の祖。「六段の調べ」
ゆうてん【
祐天】僧侶。
《いわき銘菓といわれた菓子》
じゃんがら【自安我楽】鰍ンよし。
ろくだんもなか【六段最中】平凡。
あまたろう【甘太郎】
やなぎパイ【柳ぱい】松月堂。×
じゃんぼしゅう【ジャンボシュウ】白土屋。
おなはままんじゅう
【小名浜饅頭】菓房しんげつ。
たびとまんじゅう【田人饅頭】。
とおのまんじゅう【遠野饅頭】。
平成十五年九月十四日
自安我楽 佑天上人とじゃんがら念仏踊り
浜 耕
浜耕(はまこう):自称、分楽者。
関心、疑問、探求。砂浜は、掘っても、穿っても、何も実らない。にもかかわらず、分けては楽しんで、分かった事で楽しみ、分からなかった事が分かるまでも楽しみ。
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