真っ黒な頭の中
四葉黒葉
果たしてこんな発言をしても良いのだろうか。しかし,一度考えたからには,言わずにはいられないタチなのが私。ここは自分の立場を捨てるつもりで(それほどのものでもなかろうに・・・・・・),この文章を書こうと思う。その内容とは,私達が幼いころからなじんできた,あの「みんなの」ヒーロー,そうつまり,
「それ行けアンパンマン」の暗黒面について,私なりに考え,まとめたものである。
果たしてあの無邪気な,良い子のためのワンパターンアニメの何処に悪影響を与える因子があるのだろう,と思う方も居られるだろう・・・・・・
しかし,無邪気であるゆえにそれはますます恐ろしいのである。
なんだか「本当は恐ろしいグ○○童話」のようだ,と言う気がしなくもない。が,これはさらに直接的だ,と私は思う。
そもそも何故私がこういったことを考えるようになったか,というと,それは私のある経験のためだろう。ある経験とは何なのかと言うことは,文章をお読みになればわかっていただけることと思う。アンパンマンのストーリーの中には,現代の児童問題に深く関わる部分がある。
大げさ,と言われればそれまでかもしれない。勿論アンパンマンにも良いところはあるに違いない。「アンパンマンは正義の味方じゃないか,悪く言うなんてお前が悪人なんじゃないのか」と言われればハイそうですと素直に認めるつもりだ。と言うより,アンパンマンの恐怖は,少々穿った見方をしなければわからない。浄土真宗の教えを借りるならば「自分の罪を自覚した悪人のみが救われる」とかいうようになる。勿論,善人であるほうが結構である。しかし,「自分が善人であると自覚する」人は,悪人よりもさらに危険だ。このことについても,後で述べることとする。
前置きが長くなってしまったが,そろそろ本題に行こう。ここでは,ストーリーを追いつつ説明しよう。
果たしてアンパンマンは「本当に」
正義の味方だろうか・・・・・・?
@ 愛と勇気だけが・・・・・?
「なにが君の幸せ 何をして喜ぶ
わからないまま終わる そんなのはいやだ」
このフレーズについては,私がアンパンマンの中でもっとも気に入っているところだ。アンパンマンのオープニング曲は良い。一部は。問題の個所は,次に上げる二つの点だ。
「ああアンパンマン やさしい君は 行け みんなの夢守るため」
実はこのフレーズ,先ほどの「なにが君の・・・・」と矛盾している。
普通に考えると,幸せ=夢となるだろう。先のフレーズでは「幸せは自分で見つけろ」といっておいて,後のフレーズでは,「それを守るのがアンパンマン」。私にしてみれば,それは他力本願。夢も幸せも守るのは自分だろ,水をかぶったぐらいで戦闘不能になるようなヒーローなんかに,守ってもらってたまるか,である。このあたりが,子供の甘えを引き出しているようにも思える。
ならば,アンパンマン=自分ならどうか。・・・・これが実はアンパンマン中最大の問題なのだ。自分のことをアンパンマン(=善)と,置いてしまうことが,この後説明する問題の始まりなのである。
もうひとつのフレーズ「愛と勇気だけがともだちさ」・・・・・これも問題がある。ここはふたつの意味にとることができる。
ひとつは「(自分の中の)愛と勇気(=善)だけがともだち」の意,
ひとつは「愛と勇気を持つ人(=良い人)だけがともだち」の意。
前者は,自分だけが友達,また「自分がイチバン正しい」とか,自信過剰の気がある。・・・もしこれが単にアンパンマンのみのことと言っても,
「みんなをまもる」ヒーローがこれでは・・・・・。
そこで後者の意味をとってみよう。まあまあだ・・・・と思う。しかしこの言葉を裏っ返してみる,するとこれは「悪い奴はともだちじゃない」,
このままでは普通だ。しかしさらに詳しくしてみると「悪い奴は,助けない」こうなる。
悪い奴こそ,助けることによって改心させなければならないのに。こう考えると,アンパンマンとは,ずいぶんと心が狭い。だいたい,毎回バイキンマンをぶち飛ばしても,バイキンマンは毎回悪さをしにやってくる。しかもそれの目的がアンパンマンへの復讐だったりする。ブチ飛ばすのはその場しのぎに過ぎない。バイキンマン程度の悪党を根っこから変えられないところあたり,アンパンマンは真の正義の味方とは言えまい。
話がそれてしまったが,これを子供の心理に当てはめてみよう。
子供にとって自分とは,大体の場合「よい子」である。と言っても,小さな子供でも,好き嫌いがある。何故嫌いなのか?もちろん嫌いな子のどこかが「悪い」からだ。
―――――きらいなやつは,こまってても,たすけてなんかやるもんか。
あのオープニング曲は,子供にこんなイメージを抱かせているかもしれない・・・・・。
A 棚からアンパン
アンパンマンのストーリーのお決まりの始まり方は,言うまでもあるまい。言うまでもないので,書く事にする。
――――アンパンマンが,森(というか樹海)の上のあたりを「パトロール」していると,子供の泣き声が聞こえる。降りてみると,動物の子供が切り株の上などに一人座り込んで,「おなかがすいたよ〜」と泣いている。そこでアンパンマンが,「ぼくの顔を分けてあげるよ」と,自分の頭をちぎって食べさせる。――――とまあこんな具合だ。
おお心和むうるわしき光景と思うだろう。普通に見れば。しかし,ある程度カンの鋭い方ならば,私が「悪影響について・・・」と言った時点で気付いていることがあるだろう。
そう,「頭をちぎって食べさせる」。これだ。ある視点から見ると非常に残酷な描写である。しかも子供は「おいしい」と喜んで食べている。
実は,書いている私自身,幼いころは,このシーンを平気で受け入れていた。残酷だなんてちっとも思わなかった。このシーンの恐ろしさに気づいたのは,10代になってからの話。なまじ無邪気なアニメなだけに,残酷さなど気にもとめず,受け手の子供もまた素直なだけに,すんなりと受け止めてしまう。ここに恐怖がある。
それだけではない。まず,「ぼくの顔を分けてあげるよ」と言う言葉。この言葉は,なにか恩着せがましく,偽善者っぽく聞こえる。「よいことをしているんだ」と言う,おごりとでも言うのだろうか。先にも述べた通り,これが,非常によくないのだ。
さらにもうひとつ。何故アンパンマンは,こう惜しげもなく自分の頭をちぎれるのか。理由は簡単である。「新しい顔を焼いてもらえるから」。
最近,コンピュータゲームは情操教育によくない,と言う人が多い。どこが悪いのか,というといわゆる「リセット」「コンティニュー」と言う概念,つまり死んでも(ゲームオーバーしても)ボタンひとつで生き返る(やり直しが聞く)というあれだ。生命の大事さを無視している,ということで。しかし,アンパンマンも実はコレと同じである。ゲームの悪影響,そのまえに,こどもたちは,こういったもので「リセット」を知っている。
このシーンの問題は,さらにもうひとつある。これは動物の子供からの視点なのだが,泣いていれば助けが来る,というところだ。「棚からぼた餅」ならぬ「棚からアンパン」。これも子供の「甘え」を引き出している。わがままを言ったり,思いどおりにならないとすぐ泣く子供達の心の奥には,「泣いていれば,誰かが何かしてくれる」と言う心理がはたらいている。そしてアンパンマンのこのシーンは,まさにそれなのだ。
B 「いいことをした後は気持ちいい」(例@)
コレが大体,人助けをした後のせりふだ。・・・作者のやなせ氏は「人を助けるためには,自分は傷つかなければならない」(例A)ということを教えるため,氏は,あの問題の「あたまをわけてあげる」シーンを作ったのだという。
さて,人を助ける=いい事である。・・・と言うわけで,この理論は,はじめから矛盾しているのだ。そしてさらに。
仮に子供達が,かたほうの理論のみを受けとったとしてみよう。そうしても,受け取り方によっては,いろいろな問題が出てくる。
仮に子供が,例@の考えを受け取ったとしてみよう。はたから見てみると危険性のない考えだが,・・・・よいことをしている自分(=ヒーローか去れた自分)に酔う,という危険性がある。前段でも述べた通り,この「ヒーローと自分との同一視」というところにアンパンマン最大の危険が秘められている。
では例Aはどうかと言うと,コレでは,自分が傷つくのを恐れて人を助けることに拒否を感じてしまう可能性がある。つまり今問題にされている,「他人への無関心」。
というわけで,どっちにとってもいい意味にはならないと思うのだが。