3.その後

 

 私は文学者ではないので、これらの詩が優れたものであるのかどうかは分からない。しかし、彼という人物を知っているだけに、その詩は私の心を強く打つのである。やがて、彼からこんな手紙が届いた。
 「深い意識の中で、私はただひたすら何かを求めていました。それが何であるか、私にも分からなかったのです。ただ、世界が夜の闇に沈んでいくように、私の意識も深い闇の中に沈んでいったのです。神という名は知っていました。だから、その求めるものを神と名付けてもよかったのです。しかし、神と言えても、具体的には、イエスともマリアとも、お釈迦様とも呼ぶことはできませんでした。聖書を読んでいたこともあって、イエスの言葉を信ずるままに生きてみたいとは思っていました。けれど、イエスという言葉は、私の意識の中で、真に光とはならなかったのです。神を信ずることはイエスを信ずることだ、というのなら、イエスを信じてみようと思ったに過ぎないのです。ところが、ある日、私は光を見たのです。私の意識の中で、疑うべくもない光、光そのものでした。ただ光のみ。そうです。その瞬間、私は無限の彼方へ投げ出され、自らの存在が無になってしまったのです。無限大は零に等しい。そのように、光りがすべてを撥無し、ただ光りのみの存在。闇はことごとく消滅させられました。
 私は理由の分からない孤独の中で、生きることが辛くなっていました。ある日、殺風景な暗い下宿に帰り着くと、言い様のない孤独に襲われ、何を思ったのか無意識のままガスの元栓を捻っていたのです。シューシューというガスの漏れる音に、言い知れぬ心地よさすら感じていました。永遠の安らぎ、そんな思いが私の心を占めていたのかもしれません。時間にして、どれくらいの時が過ぎ去ったのでしょう。突然、私の意識の中で光りが閃いたのです。それとともに、私の意識の暗い闇が、存在とともに消え失せてしまったのです。それは瞬時のことでありました。我に返ると、ガスの漏れているのに気づき、慌ててガスと止めました。その後、私は深い眠りについたのです。
 翌朝、目覚めると、窓から朝日が差し込んでいました。窓を開け、朝の清々しい空気を部屋に入れると、その窓から見える家々が、何かしら輝いて見えました。澄んだ青空、立ち並ぶ家々、すべて昨日までとは何一つ変わらぬ景色でしたが、すべてが神の祝福を受けているように思えました。お湯を沸かしパンを焼き始めました。やかんから吹き出す湯気、お湯の沸騰する音、パンを焼く香ばしい匂い。これらすべても、これまでと何一つ変わらないながら、すべてが異なっていました。この世は、すべて、神の創り給い祝福された世界なのだ。すべてが。そんな思いでした。」
 こうして、彼は「神を見た。」と断言していた。
 彼の「愛すること」の神の実体は、こういうことであったのであろう。それがどのような心理状態であったのか、私は、心理学者ではないので判断は下せないが、極めて実存的な状況であったようには推測できる。何時になっても彼のことが、頭の片隅から離れなくなった理由は、そんなところにもあった。
 その後も彼は時折手紙をよこした。大阪で働いていたようだ。どこのどんな会社に勤めていたのかは書いていなかったが、何でも小中学生相手の進学塾であったようだ。私は知らなかったが、当時は乱塾時代といわれる時代で、塾が急成長を遂げた時代であった。彼は、彼なりに人生を送り始めていたのかも知れない。
 この頃から、彼の手紙には山や海の美しさを描写したものが増えてきた。瀬戸内海や紀伊水道を船で渡るとき、雲間から洩れる光りの筋。私も思わず感動したこともある。しかし、全体から見れば、漢字の間違いがあったり妙に不自然な言葉遣いがあったりして、彼を知っているのでなければ、強いて読むだけの価値があったとは思われない。文学者でなくても、それぐらいのことは分かる。
 ただ、彼の書いてくる詩には興味があった。文学的価値については分からないが、昨今の難解なわけの分からない詩よりはずっと好きである。


			今泣いている
			秋の虫たちのように
			短いその生命を
			ただ歌うことに費やすのです
			悲しければ悲しいと
			楽しければ楽しいと
			ただ歌って生きていくのです
			それがこの世に生まれた
			詩人の宿命なのです


			お前の心に
			常に宿っている
			この優しさは何だ
			燃えるような
			情熱に苦しんだときに
			静かに見守っていてくれた
			この優しさは
			私はお前に口づけしよう
			我々の大地にひれ伏し
			故郷の山に
			永遠を誓って
			お前のその優しさに
			口づけしよう
			お前はいつも
			私の故郷であるのだから


			ことばを
			しんじつにちかづけるために
			うたびとはうたをつくるのです
			つくられた
			いつわりのうたには
			しんじつへのこころがかけておるゆえ
			よんでもすこしもこちらのこころには
			しのびこんではこぬのです
			ことばは
			つねにいきていて
			ひとのこころのなかに
			しのびこんでゆかねばなりません
			うたびとは
			ただしんじつを
			かたればよいのです

			かなしみをたべたひ
			ひとりでかわのながれとはなししていた


			語ろうとしても
			語りえず
			どうすることもできず
			天上の闇に向かうとき
			でもいいのだと
			慰められる気持ちになって
			悲しみを私の胸に畳んでおいた


			こころからうまれるものが
			ひとのこころをひびかせて
			それがうたになるのです
			とわにひとのこころをひびかせて


 彼は、自分の詩について「八木重吉さんの模倣です。」と常々語っていた。私は、八木重吉なる詩人について、その時まで全く知らなかった。彼は、必ず「八木重吉さん」とさん付けでその親しみを表していた。その影響で、私も八木重吉の詩を読んでみたのだが、確かに彼が傾倒するだけの詩人だとは思った。詩人としての評価について、私はとやかく言う資格はないが、その信仰心から吐露される言葉は、それだけで詩になっているように思われた。彼の詩は幾分違うようにも思えるが、どこか似たような雰囲気も漂わせていた。
 私は、八木重吉のお墓を訪ねたことがある。東京への出張の折り、暇を見つけて訪ねてみたのである。中央線で八王子まで行く。そこで横浜線に乗り換えて相原駅で下車。そこからお墓のある大戸までバスがあったのだが、まだ若かったこともあって歩いてみた。歩くと結構道のりがあった。道すがら、彼のことと詩人のことが妙に重ね合わされていた。その頃には、もう八木重吉という詩人について、かなりの知識を得ていたからだ。旧制中学の教師をしていたというその詩人は、敬虔なクリスチャンであり、美しい妻と愛児二人に恵まれながら、神への満たされぬ思いからであろうか、詩を書き綴っていた。詩人は真剣な眼差しで「神を見た。」と知人に語ったことがあったそうだ。
 彼は、自らクリスチャンではないという。いくつか教会を訪ねたが、信仰を得ることはできなかったという。しかし、神は存在してほしいと。「神を見た。」という彼の宣言は「愛することの神」を見たという宣言に他ならない。根底に、聖書やキリスト教の教えを持ちながら、もっと普遍的な神を見ていたのではないか。卒論での空の思想。彼の詩に現れる「こころ」という言葉。キリスト教の神をも、空をも、日本人の感性をも超えた、普遍的な「愛」を求めていたのではないか。元来は、一人の乙女への愛情であったかも知れない。しかし、何らかの事情で、それはすべての垣根の取り払われた普遍の愛に昇華していったのではないか。そう思えてならなかった。
 この辺りは、東京都に属するとはいえ全くの田舎である。今は知らないが、当時はそうであった。大戸に着くと、付近の農家にお墓の在処を尋ねた。女の人が出てきて、「重吉さんのお墓を訪ねて来てくださったのですか。どうぞ、その道路の向こう側にあります。そこです。」と親切に教えてくれた。その上、「わざわざ訪ねてきてくださったのですから、お茶でもどうぞ。時々訪ねてこられる方があるんですよ。」と言って、お茶まで出してもてなしてくれた。その時、分かったことだが、その農家は八木重吉の実家だそうだ。こんなもてなしを受けると、八木重吉という詩人が、一層輝きを増すから不思議だ。普通と変わらぬお墓には十字架が刻んであった。私は黙って頭を垂れた。

 

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