グリボエードフ(Грибоедов)(1795-1829)

[伝記:幼少年時代と大学][ペテルブルク][東方での勤務]
[モスクワとペテルブルク][逮捕][再びカフカスで][ペルシアでの勤務と死]

[目次]


 「グリボエードフは、ロシア精神の最も力強い現れである。(Грибоедов принадлежит к cамым могучим проявлениям русского духа.)」とベリンスキーは語っている。深い知力、多方面の天賦の才、広い教養、知的好奇心、多様な興味関心が、グリボエードフの特徴である。そして、自らのすべての豊かな才能を、彼は祖国への奉仕に捧げた。彼の不朽の名作「知恵の悲しみ(горе от ума)」は、民衆への愛と、最もよき未来へのロシアの運動の道を遮るあらゆるものに対して宥めがたい憎悪を浸透させたものである。

伝記:幼少年時代と大学

 アレクサンドル・セルゲーヴィチ・グリボエードフ(Алекcандр Сергеевич Грибоедов)は、古い貴族の生まれであった。彼は、1795年1月4日にモスクワに生まれた。
 彼の家庭での養育と教育は、教養ある外国人家庭教師と大学教授が指導した。多くの注意が外国語の学習に向けられた。大いなる才能に恵まれ、グリボエードフは、早くからラテン語、ギリシア語、フランス語、ドイツ語と英語とを習得し、後に--さらに、イタリア語、ペルシア語、アラビア語を習得した。彼は、ピアノを上手に演奏した。最初の家庭での教育の後、グリボエードフは、先ず、モスクワ大学付属の貴族の子弟のための寄宿中等学校で、その後、そのモスクワ大学で学ぶ。そこへは、彼は、1806年に11才で入学した。大学で、グリボエードフは、続けて三つの学部で学ぶ。1808年、文学部を卒業し、1810年には、法学部を卒業し、そして自然科学の学部に入学した。しかし、この学部の終了は、戦争のために妨げられた。グリボエードフは、その当時の教育ある人々の一人であった。
 当時の大学付属貴族寄宿中等学校と大学には、将来のデカブリストたちが多く学んでいた。グリボエードフが属していた学生の若者の進歩的な者たちは、張りつめた知的生活を送っていた。18世紀終わりから、19世紀初めの進歩的作家たち(フォンヴィージン、ノヴィコフ)や禁止されていたラジーシチェフの書の読書は、進歩的若者たちの心の中に、国や社会制度への批判、あらゆる外国のものに対する貴族の追従への批判を育んだ。熱烈な愛国者であるグリボエードフとその友人たちは、ロシアの国の制度へのドイツ人の圧力に憤慨した。
 1812年、グリボエードフは、愛国的衝動にとらわれて、結成された軽騎兵隊に志願兵として入隊した。しかし、軍の活動に参加することは、グリボエードフには似つかわしいものではなかった。前線から遠い任務が彼にのしかかった。グリボエードフは退役し、1817年に外務省の勤務についた。

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ペテルブルク

 グリボエードフは、1818年9月までペテルブルクで過ごした。これらの年月は、彼にとって極めて重要な意味を持っている。正に、この時に、ペテルブルクに秘密の政治結社が生まれ、それから後になって(1823年)デカブリストたちの「北の結社(Северное общество)」が形作られたから。秘密の結社は、周囲に才能ある教養ある進歩的若者を集めた。
 これらの進歩的な人々の仲間の間で、グリボエードフの政治的観点は形成され、彼の自由を愛する心は強く発達し、熱烈に祖国に奉仕したいという願望が育まれた。彼の知人や親しい友人たちの中には、「救世同盟?(Союз спасение)」「軍の結社?(Военный общество)」「平和同盟?(Союз благоденствие)」などのメンバーであって、グリボエードフがペルシアに発った後に、秘密結社に入ったものもいる。彼らには、グリボエードフが自らの「愛する者、友、兄弟(душой, другом и братом)」と呼んでいた、С.Н.ベギチェフ(Вегичев)、П.Я.チャアダエフ(Чаадаев)、В.К.キュヘリベケル(Кюхельбекер)その他多くの人が属していた。1817年に、グリボエードフは、プーシキンと知り合いになった。当時の一人はこう書いている。「プーシキンは、グリボエードフとの最初の出会いで、明晰な知力と才能を正当に評価し、彼の性格を理解した。(Пушкин, с первой встречи с Грибоедовым, по достоинству оценил светлый ум и дарования, понял его характер.)」
 当時のロシアの進歩的人々を動揺させていた根本の問題は、専制と農奴法とであった。すべての未来のデカブリストたちは、彼らの祖国にのしかかるこの悪を否定することでは一致していた。しかし、話が専制を何で交替させるか(立憲君主制か共和制か)、また、如何にこれを実現させるか、どんな方法で農奴制を廃止するかという事になると、激しい論争が燃え上がった。貴族の革命家たちを民衆による革命が驚かせた。その頃、秘密結社のメンバーたちは、先ず、広く扇動を展開し、貴族の農奴擁護の気分のある社会と言葉で戦い、新しい進歩的な思想を展開し、社会の自覚を目覚めさせなければならないと考えていた。
 グリボエードフは、文学の問題と演劇の世界に生き生きとした関心を持っていた。彼は、しばしば、当時の有名な劇作家、А.シャホーフスキーの家にしばしば行き、多くの作家たちと知り合った。その頃に、グリボエードフの文学活動が始まった。そして、自分一人で、また、劇作家たちと共同で、彼はいくつかの喜劇「若夫婦(Молодый супруги)」「学生(Студент)」などを書いた。
 「知恵の悲しみ(Горе от ума)」の構想は、正に、この時にグリボエードフに生まれた。政治的芸術的発展にとって、特にペテルブルクで過ごしたことが、グリボエードフには重要であっただろう。しかし、正にその時に、彼は首都を捨てることを余儀なくされた。決闘が起こり、グリボエードフは、その一方の決闘者の介添人であった。決闘は厳しく禁じられていた。この決闘に参加したすべての者が罰せられた。グリボエードフは、ペルシアに送られた。1818年4月15日、グリボエードフは、С.Н.ベギチェフ(Вегичев)に書いている。--「人々が私をなんとか追放したいと考えていると想像してみたまえ。どこへと君は思ったか。ペルシアだ。そこで暮らすために。如何に私が拒んだとしても何の役にも立たないだろう。(Представь себе что меня непременно хотят послать, куда ты думал? - в Персию, и чтоб жил там. Какая ни отнекиваюсь, ничего не помогает.)」

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東方での勤務

 1819-1821年、グリボエードフは、ペルシアで過ごし、(初めはテヘラン、次にタヴリス(Тавриз)で)ペルシア語とアラビア語を学び、喜劇「知恵の悲しみ」に取りかかる。しかし、ロシアではそれは時間がかかった。1822年、グリボエードフは、カフカスの軍総司令官、将軍エルモロフのところ、外務秘書官としてチフリス(Тифлис)での勤務に異動することに成功する。チフリスで、グリボエードフは、広く教養ある人々と文学活動の社会を見出した。特に、グリボエードフは、ここで、デカブリストのキュヘリベケルと親しくなった。グリボエードフは、しばしば、そして久しく、文学の問題に関して彼と語り合い、彼に喜劇「知恵の悲しみ」の場面を読んで聞かせた。しかし、その喜劇を完成するためには、モスクワの生活を回想する必要があった。エルモロフ(Ермолов)の協力のお陰で、彼はモスクワとペテルブルクで4ヶ月の休暇を得ることができた。

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モスクワとペテルブルク

 グリボエードフは、1823年3月末にモスクワに到着した。その頃、彼は喜劇の初めの2幕を書いていた。モスクワで6月まで過ごして、グリボエードフは、戦後(1812年以降)のモスクワ貴族(階級)の生活を十分観察した。6月初めに、彼は友人のベギチェフの村に去り、そこで、自分の喜劇と取り組み、あらかた完成することができた。モスクワに帰り、彼はその原稿に取り組み続け、改良した。やがて、グリボエードフの新しい戯曲の知らせが広く、モスクワ中に広まった。グリボエードフは、「知恵の悲しみ」を多くの家で読んだ。大成功だった。
 グリボエードフの休暇は続いた。1824年頃、彼は、ペテルブルクに去った。ペテルブルクの友人・知人たちは、有頂天になって彼を歓迎した。グリボエードフは、作家や俳優たちの家で自らの戯曲を読み、大成功を収めた。グリボエードフは、喜劇の出版に関して奔走した。しかし、検閲は、その戯曲の出版も劇場の舞台での公演も許さなかった。ファムソフスカヤ(Фамусовская)・モスクワは、その戯曲をモスクワでは、誹毀文1と呼んでいるとペテルブルクに密告した。しかし、ペテルブルクの検閲官は、「知恵の悲しみ」の社会政治的思想を理解した。それで、グリボエードフの労力は報われなかった。しかし、それでも選集「ルースカヤ・タリヤ(Русская Талия)」2(1825年)に戯曲の一部(第一幕の四つの場面と第三幕すべて)を公刊することができた。

  1. 誹毀文(Пасквиль) - 侮辱したり中傷したりする性格の作品
  2. タリア(талия) - 古代ギリシア喜劇の女神

 しかし、全く出版されなかったわけではなかったので、グリボエードフの喜劇は、広く知られるようになり、多くの手書きの冊子でロシア中に広まった。デカブリストたちのサークルで、特に広く読まれた。
 このペテルブルクへの到着で、グリボエードフは、デカブリストたちの間に新しい知己を得た。彼は、К.Ф.ルィレーエフ(Рылеев)、А.А.ベストゥージェフ(Бестужев)その他の「北の結社(Соверный общество)」の活動家たちと知り合いになった。グリボエードフは、しばしば、彼らと会った。彼らは、彼にすっかり秘密打ち明け、当時の政治問題を研究する仲間に入れた。グリボエードフは、秘密結社の存在だけでなく、その蜂起の構想計画も知った。
 その間に、カフカスへ帰る時が来た。1825年春、グロボエードフは、ウクライナとクリムを通って、自らの勤務地へと出発した。キエフで、彼は、デカブリストたちの「南の結社(Южное общество)」のメンバー--ムラヴィヨフ(Муравьёв)、ベストゥージェフ・リュミン(Вестужев-Рюмин)などと出会った。彼らは、蜂起の計画を準備しながら、グリボエードフを通して、エルモロフと関係を結び、彼を自らの側へと説き伏せたかったのだ。しかし、グリボエードフは、そうした依頼を断り、デカブリストたちの事の正義を認めながら、専制を打倒するのに戦争による革命の道をたどる彼らの期待を共有していなかった。1825年9月末に、グリボエードフは、カフカスに到着した。
 エルモロフが、チェチェン(Чечню)遠征に出かけたとき、グリボエードフは、彼と共に赴き、1月末にグロズヌイの要塞に着いた。

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逮捕

 1825年12月14日、ペテルブルクでデカブリストたちが蜂起した。暴動の鎮圧後、デカブリストの事件について審議委員会が選定された。1826年1月22日、グロズヌイの要塞でグリボエードフは逮捕された。彼と親しい関係にあったエルモロフは、逮捕の用意がされていることを予め密かに彼に警告していたので、グリボエードフは若干の書類を焼却することができた。グリボエードフはペテルブルクに連行された。およそ4ヶ月の間、彼は拘留された。拷問でも、彼は自分がデカブリストに属していることを否認した。デカブリストたちもグリボエードフは秘密結社のメンバーでないと証言した。
 グリボエードフと友人のデカブリストたちの証言で、6月初め彼は釈放されることになった。グリボエードフは、デカブリストたちの政治的社会的観点をすっかり共有していた。たとえ広範な民衆大衆からかけ離れた彼らの運動の成功を信じていなかったとしても。

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再びカフカスで

 グリボエードフは、エルモロフの退役で免職されず、親戚のパスケヴィッチ(Паскевич)がカフカスの軍総司令官に任命された時に、チフリス(Тифлис)に帰った。
 この時、ロシアはペルシアと戦争をしていた。グリボエードフは陸軍にいた。1828年戦争が終わると、グリボエードフはパスケヴィッチの委任で和平交渉を行った。経験ある外交官であるグリボエードフは、ロシアに有利となる和平条約を作成するために多くのことをした。パスケヴィッチはグリボエードフの活動を評価し、彼をトゥルクマンチャエ(Туркманчае)で締結された和平条約の報告のためにペテルブルクへ派遣した。大使に任命されてグリボエードフは、再びペルシアへ行かなければならなかった。このことは、グリボエードフを祖国から遠ざけただけでなく、彼を自国に不利な条約を結ばせた張本人とみなすペルシア政府が彼に抱く憎悪のために、大きな危険にさらした。重い気分で彼は祖国を去った。

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ペルシアでの勤務と死

 ペルシアへの途上、グリボエードフはチフリスに留まり、そこで高い教養のある社会活動家で自由を愛する詩人、グルジイ・アレクサンドル・チャフチャヴァジェ(Грузии Александра Чавчавадзе)の娘、ニーナと結婚した。
 1828年9月初め、ロシア使節はペルシアに入った。2ヶ月後、グリボエードフはチフリスで過ごし、締結された条約条件の遂行についての交渉を行った。交渉は難航した。ペルシアの首都テヘランに行かなければならなくなった。タフリス(Тавризе)に妻を残し、グリボエードフはテヘランに出発し、新年にそこに到着した。
 和平条約の条項を正確に果たすようにとのグリボエードフの根気強い(執拗な)要求は、ペルシア政府の強い反発と不満とを呼び起こした。ペルシアでのロシアの影響を警戒していたイギリスの使節は、ロシア使節団に敵意ある態度を示していた。高官たちに煽動され、イスラム僧たちは、ロシア使節に報復するよう国民(民衆)に呼びかけるアピールを発した。急に暴れ出した群衆が、ロシア使節団のいる建物を破壊し始めた。グリボエードフを頭とする使節団のメンバーと警備にあたっていたコサック兵たちは、勇敢に抵抗したにもかかわらず、多勢の群衆に対して持ちこたえることはできず死んだ。みんなで37人が殺された。使節団の書記官だけが救われ、彼はグリボエードフの生涯の最後の一日の記録を残した。グリボエードフの悲劇的な死は、1829年1月30日のことだった。
 チフリスに運びもたらされたグリボエードフの遺骸をエルゼルム(Эрзерум)に来ていたプーシキンは見ている。「私は河を渡ってやってきた--とプーシキンは「アルズルムへの旅(Путешествии в Арзрум)」の中で語っている。--荷馬車に付けられた二頭の牛が、険しい坂道を登ってきた。数人のグルジア人が荷馬車に同行していた。「どこから来たのか?」--私は彼らに問うた。--「テヘランからです。」--「何を運んでいるのが?」--「グリボエードフを」--これは、チフリスへ運ばれている殺害されたグリボエードフの遺骸であった。
 グリボエードフは、詩人の遺言に従って、聖ダヴィデ修道院に埋葬された。墓に建てられた墓碑には、妻によって書かれた銘が刻まれている。「あなたの知と行為は、ロシア人の記憶の中に永遠に残るでしょう。でも、私のあなたへの愛は、なんの為に生きながらえたらいいのでしょう。(Ум и дела твои бессмертны в памяти русских, но для чего пережила тебя любовь моя.)」

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