イーゴリ軍記(слово о полку Игореве)

[「イーゴリ軍記」発見の歴史][「イーゴリ軍記」の中に反映された歴史的時代]
[「イーゴリ軍記」の本質的な価値][「イーゴリ軍記」の根本的な思想]
[「イーゴリ軍記」の作者の深い愛国主義][「イーゴリ軍記」の構成]
[「イーゴリ軍記」の詩の特徴][「イーゴリ軍記」の意義]

[目次]


 古代ルーシの詩的芸術の頂点は「イーゴリ軍記」である。ベリンスキーの言葉によれば、「イーゴリ軍記」は、この上なくすばらしい芳香を放つ、注目、記憶、尊敬に値するスラブ民族の詩の華である。「イーゴリ軍記」は、12世紀終わりに書かれたが、600年後、正に18世紀も終わりになってやっと私たちに知られるようになった。

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「イーゴリ軍記」発見の歴史

 18世紀の90年代初め、有名な古代写本の愛好家で収集家でもある公爵ムーシン・プーシキンに、ヤロスラヴリから古代ロシアの作品の選集がもたらされた。一つの作品を除けば、他のものはこれまでに知られていた。その時まで知られていなかった作品が、「イーゴリ軍記」であった。このすばらしい発見のニュースは、急速に国内及び国外に広まった。「イーゴリ軍記」は、書き写され、その写しはエカテリーナ2世に送られた。
 「イーゴリ軍記」の印刷本は、1800年に出版された。ノブゴロドあるいはプスコフ地方でこの選集が書写された時、恐らく16世紀に関連するだろう写本のテキストの解読の困難さから、印刷本には多くの間違いが紛れ込み、いくつかの場所は、確かに、曖昧で理解不能のままであった。後に、それらを訂正することは更に困難になった。なぜなら、1812年のモスクワの大火の時に、ムーシン・プーシキンの邸宅が焼失してしまったから。すべての蔵書が焼失した。その中に、ヤロスラヴリで発見された選集も含まれていた。「イーゴリ軍記」の最初の印刷本とエカテリーナ2世に送られたあの筆写された一部だけが残された。

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「イーゴリ軍記」の中に反映された歴史的時代

 「イーゴリ軍記」の書かれた11世紀から始まって12世紀の終わりまで、ルーシは、二つの大きな災難で苦しんでいた。その一つは諸公間の内乱であり、もう一つは、ポロヴェツ人の侵入であった。それ故に、ロシアの大地を憂える国のよき人々たちは、あくことなく、自分たちの祖国の地を守るべく、ポロヴェツ人に対して、一致団結して対抗するように呼びかけていた。「もし」--例えば、ウラジミール・モノマフは、諸公にこう呼びかけた。「私たちが内乱をやめなければ、ロシアの大地は滅び、我らが敵、ポロヴェツ人がロシアの大地を奪い取るだろう。」
 大草原でポロヴェツ人と戦う最も有効な手段は、遊牧民に対するロシア諸公の遠征であった。1183年、キエフ公、スヴァトスラフ・ヴォセヴォロドヴィッチは、何人かの諸公の頭として、ポロヴェツ人に対して遠征を行うことに成功し、彼らを撃破した。遠征の準備をしながら、彼は、諸公たちに、力を合わせて遠征を行うために、彼の旗の下に集まるよう呼びかけた。
 スヴァトスラフに援助を約束した諸公の一人が、ノブゴロド・セヴェルスキーの公、イーゴリであった。この公は、自らの武勇とポロヴェツ人との戦いでの勝利で世に知られていた。しかし、彼は遠征への参加を受け入れることはできなかった。少し後、1185年の春、イーゴリは、突然スヴァトスラフのために、最も近い近親の諸公とともに、ポロヴェツに対して進軍を始めた。しかし、彼は激しく打ち負かされ、遠征に参加したすべての諸公とともに捕虜となった。これほどまでひどい敗北を、ロシアの人々は、これまで知らなかった。イーゴリに対する勝利に勢いづいて、ポロヴェツ人のハン(汗)、グザ(Гза)とコンチャク(Кончак)は、ロシアの大地の境界内に侵入し、ロシアの大地を荒らし回った。
 このように、イーゴリの遠征の失敗は、ルーシにとって二重の苦しみであった。第一に、イーゴリ自らの軍が完全に崩壊したため。第二に、ロシア人に対する勝利が、スヴァトスラフの遠征以後、静まっていたポロヴェツ人を勇気づけ、ルーシへの侵入を招いたから。
 イーゴリの遠征の失敗は、当時の作家たちの注意を引きつけ、三つの作品の主題(テーマ)となった。年代記の中に記された二つの物語と「イーゴリ軍記」の。

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「イーゴリ軍記」の本質的な価値

 「イーゴリ軍記」の本質的な価値は、マルクスの言葉によれば、「モンゴルの大軍を正に前にして、ロシア諸公への統一の呼びかけ」であった。「イーゴリ軍記」の作者は、自らの課題として、ロシアの大地統一への戦いのために団結を諸公や民衆に呼びかけ、諸公たちの内乱に対して、民衆の意思を届け、諸公の名誉追求や個人の利益志向を非難することであった。
 この真に愛国的な思想は、当時、非常に緊迫した意味を有していた。その思想は、次に続く時代--タタール・モンゴルとの戦いの時期--その価値を保持し続けた。祖国への深い愛情に貫かれ、作者は「イーゴリ軍記」全編にわたって、この思想を浸透させている。それは、「イーゴリ軍記」に描き出された英雄の姿の中に、事件の描写の中に、そして、風景の中にしみ出している。この思想が、作品の構成と言語とを決定づけている。
 しかし、この本質的な思想だけで、「イーゴリ軍記」の内容が満たされているわけではない。その内容はもっと広い。「軍記」の中には、平和な労働、収穫や職人たちの仕事などの描写がある。これらの絵画と内乱やポロヴェツ人の侵入を対照させながら描くことで、「軍記」の作者は、平和を擁護する側に立ち、平和な労働を守るという理想を実現するよう力説している。

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「イーゴリ軍記」の根本的な思想

 遠征への鼓舞(奨励)者、指導者、イーゴリ公は、まさしく初めからすでにロシアの大地の擁護者として、私たちの前に姿を現す。彼は「ロシアの大地のために、勇ましい軍を引き連れて、ポロヴェツの地へと攻め入った。(навёл свои храбрые полки на землю Половецкую за землю Русскую)」イーゴリは勇敢な戦士である。彼は、強い意志と勇敢な心を持っている。彼の戦いへの情熱は、好ましくない前兆--日食--にも冷めることはない。国を守るのだという使命感が、イーゴリの思想と行動を導いた。遠征に出る前に、自らの軍を前にして、イーゴリはこう語る。「兄弟、仲間の兵士たちよ!敵の捕虜となるくらいなら殺された方がよい・・・ロシアの子たちよ、私は、おまえたちと共に、ポロヴェツの草原の果てに槍を折ろうと思う。自らの頭を曝すか、ドンの水を兜に汲んで飲み干したい。(Братия и дружина! Лучше быть убитыми, чем полонёнными... Хочу поломать копье o конец поля половецкого, с вами, русские, хочу свою голову положить либо напиться шлемом из Дона)」戦において、イーゴリは、兄弟フセヴォロトを助けんがために突進する。イーゴリの個人的資質が、諸公や軍、「軍記」の作者たちの共感を四方から呼び寄せる。
 しかし、自らの遠征で、イーゴリは自らの軍を恐るべき敗北へと導き、ポロヴェツ人たちにルーシへの侵攻の道を開いてしまう。正に、このために、イーゴリはルーシに多くの不幸をもたらすことになり、多くの人々の不幸の原因となった。イーゴリ公は、ロシア全土の利益を軽視していた。これが、ロシアの民衆に重くのしかかった。このため、「軍記」の作者は、キエフ公、スヴァストラフの口を通して、イーゴリを叱りつけている。
 イーゴリの兄弟フセヴォロトは、多くの点で、イーゴリの特徴に類似する。剛毅、勇猛、勇気、軍人としての栄誉は、フセヴォロトの方がイーゴリよりはるかに勝っている。
 フセヴォロトの戦いでの行為は、「軍記」の中では、ブィリーナ的なトーンで描かれている。「汝が、黄金の兜を輝かせながら行くところ、至る所汚らわしいポロヴェツの首が転がっている。(Куда ты тур, поскачешь, посвечивая своим золотым шлемом, там лежат поганые половецкие головы)」フセヴォロトは、何よりも先ず、戦士である。彼は、ためらわず、即座に兄弟の呼びかけに応じる。「自らの駿馬に鞍を置け、兄弟よ。私の馬には、クルスカのほとりにて、すでに鞍を置き準備万端整っている。(Седлай, брат, своих борзых коней, а мой yже готовы, oседланы впереди у Курска)」戦いに夢中になり、フセヴォロトはすべてのことを忘れる。自らの傷のことも、チェルニゴフの町のことも、父の王位のことも、妻、后のことも。フセヴォロトは、戦の精神に包まれ、親兵となるべく育てられ、親兵たちの中で生涯一つの目的の下に生きた真の軍の勇者である。彼は語る。「我がクルスクの者どもは、精鋭の兵士たち。ラッパの鳴り響く下で襁褓をかえられ、兜の下に愛育され、槍の穂先で育てあげられた。彼らにとって知らぬ道、知らぬ峡谷などなく、弓を引き絞り、矢筒を開き、鋭く磨かれたサーベルを持つ。あたかも野を駆ける灰色の狼のように疾駆し、己の名誉と公の誉れを追い求める。(А мои куряне, опытные воины: под трубами пеленаны, под шлемами взлелеяны, с конца копья вскормлены, дороги им известны, овраги знакомы, луки у них натянуты, колчаны открыты, сабли заострёны, сами скачут, словно серые волки в поле, иша себе чести, а князю--славы.)」
 優しく愛情込めて、この厳格な勇士は兄弟に言う。「そして荒れ牛、フセヴォロトは、イーゴリに告げる。「(汝は私の)ただ一人の兄弟、唯一の光、愛しき汝、イーゴリよ!我らはともにスヴャトスラフの血を受けし者。(И сказал ему (Игорю) буй-тур Всеволод: 《Один (ты y меня) брат, один свет, светлый ты, Игорь! Оба мы с тобой Святославичи》)」同じ愛をこめて、イーゴリも彼に答える。戦場の炎の中で、「イーゴリは軍を率いる。まことに、愛しき兄弟フセヴォロトを見殺しにするに忍びなかった。(Игорь заворачивает полки: ведь жаль ему милого брата Всеволода)」
 ロシア女性の輝かしい描写が、「軍記」に描かれたヤロスラヴナの姿の中にある。ヤロスラヴナの「哀歌(Плач)」は、民衆の口承詩の息吹で伝えられている。この手法を用いることで、作者は、ヤロスラヴナへの親近感を民衆に強く伝え、彼女を、戦いで非業の死を遂げたり、捕虜となった兵士の妻たち、ロシア女性の代表として描いている。彼女の唇からは、公の妻としてではなく、熱烈に夫を愛し、夫との別離を悲しみ、夫が傷つき捕虜となったことを憂い嘆く、単なるロシアの女性として語られる。彼女の憂い嘆きと悲哀は、カッコウにたとえられ強調される。(これは、民衆口承詩から取られた形式である。)
 しかし、ヤロスラヴナは、単に自然に吐露される愛の力で捕虜の身から逃亡するイーゴリを守る愛情あふれる妻というだけではなく、同時に愛国主義者であり、夫とともに遠征に参加し、苛酷な苦しみを受ける兵士たちの魂をも憂えている。ヤロスラブナにとって、ロシアの敗北は、彼女自身の不幸であった。

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