古代ロシア文学(11−12世紀の文学)
[文字と教化][ロシア文学の出現][年代記の愛国主義]
[目次]
人類社会の歴史から、私たちは、詩はすでに遠い昔から古代の人々の間にあったことを知っている。かつて、文学が出現するまで、詩は口伝だけで生まれ伝えられていた。私たちの国もそうであった。ロシアでは、何世紀もの間、口承の民族詩だけが存在した。ロシアの文字による文学は、著しく遅れて生まれた。現代にまで伝わっている文学文献の中で最も古いものは、11世紀に関するものである。
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文学と教化
ロシアには、文字は、10世紀まで、ロシアがキリスト教を受容するまで、まだ現れていなかった。(988年)文字の出現は、先ず第一に、国家の必要性からひきおこされた。ギリシア人との契約の締結、全般に、ロシアと他の国家との関係が文字の存在を要求した。文字は、大きな交易(容器の銘)、手工業の発達(手工品の親方の名の銘)、また、富裕な人々の生活(文書で書かれた遺言書、所有を証明する文書)に応じて用いられた。白樺の樹皮(白樺の表皮)を紙のように使用して、若干の民衆が文字を用いた。白樺の樹皮の書物さえあった。 10世紀終わり、ロシアにより完全なアルファベット、まだ9世紀のの間に、二人のスラブ人の兄弟、キリールとメトディオスというソルニャ(г. Солня)生まれの人によって作られたスラブ字母が、が伝来した。 当時の書物は、現代のものとは似ていない。第一に、それらは手書きであった。ロシアでの書物の印刷は、16世紀中頃から始まった。その時までは、書物は書写された。第二に、当時(15世紀まで)紙はなかった。書物は、皮の紙、すなわち丹念に仕上げられ漂白された皮、子牛や山羊、豚の皮に書かれた。テキストは黒いインクで書かれた。が、最初の一字寄せて(行の初めの空白)書かれる文字は、赤い顔料で書かれた。(そこから「赤い行」と表現される。)文字は、太い直線と正確な角と楕円でできていた。こうした書体は、楷書体(устав)と呼ばれた。書くのは、骨の折れる仕事であった。それぞれの文字を入念に描かなければならなかった。書くためには優れた技術が必要であった。ましてや、写字生が、書物を美しい見栄えにしようと、章の初めの一番前に、ザスターフカ(заставка)と呼ばれる装飾を描こうとすれば。章の最初の文字は、普通、大きく複雑に美しく様々な色彩で描かれた。時々、書物には図柄が入れられた。最もよく描かれたのは、小さな絵柄--微細画(ミニアチュア)であった。書物は製本された。製本は、革やビロードや金襴で縁取りされた薄い小さな板でなされた。製本において、金や銀の装飾が付けられるのはまれではなかった。
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ロシア文学の出現
ルーシ文学の世俗(教会ではない)分野で、最も古いものの一つは年代記である。最初の年代記の文書は、11世紀初め、ノヴゴロドに現れる。初期の年代記に書かれたノヴゴロド文書には(古代ロシア語では、「лета」という単語が「год(年)」を意味していたので、そこから「летопись(年代記)」と呼ばれる)、ノヴゴロドの生活上で何か特別の出来事、大戦争や火災、飢饉や自然災害など、について、短い記述がなされている。これらの文書の言葉は、素朴な口語に近いものであった。例えば、1157年の文書は、次のようなものである。「その年の秋には、とても恐ろしい出来事があった。11月7日夕方5時に、雷鳴が轟き、稲妻が光り、りんごより大きな雹が降った。(На ту же осень зело (очень) страшно бысть: гром и молния, град же яко яблоков боле, месяца ноябля в 7 день в 5 час нощи.)キエフの年代記は、11世紀の30年代に、ヤロスラーフ・ムードリ(賢公)の治世に現れた。 年代記編纂の呼びかけは、何よりもルーシの政治的独立のための戦いによって引き起こされた。 12世紀初めの、ネストルという幅広い教養の持ち主で、文学的才能のある年代記作家によって、初めて、原初の年代記の作品に基づいて年代記が編纂された。その年代記の本当の表題は、次の通りである。「ロシアの大地はどこから来たのか、誰が、キエフで最初の公となったのか、ロシアの大地はどのようにして起こったのか、その過ぎし年月の物語(Се повести временных лет, откуда есть пошла Русская земля, кто в Киеве нача первее княжити и откуда Руссая земля стала есть.)」普通一般には、短く「過ぎし年月の物語(повести временных лет)」と呼ばれる。 年代記には、十分はっきりと、古代ロシア文学独特の特徴が反映されている。その中に、ロシアの民衆が、自らの歴史へ関心を増大させていくのがみられる。--深い愛国主義、文字で書かれた文学と口承の民衆の作品との関係、そして資料を叙述する様々な手段など。 年代記の中に含まれる民衆の伝承は、大きな価値を有している。例えば、992年に、年代記作者によって書き留められた伝承--なめし職人の若者とペチェネク人の勇士との一騎打ち--がそうである。 この伝承には、思想や主題において、ブィリーナと類似の特徴が見いだせる。つまり、その伝承には、職業軍人よりも、平和を好む職業の人たちの方が優れているという民衆の思想が導入されている。手工業者、なめし職人が偉業を果たすのであって、諸公の軍の誰かではない。ミクーラ・セリャニノーヴィッチ(Микула Селянинович)のような人物がより強い軍人として提示される。 偉大な公、ヴラジーミル公が、ここで、キエフの諸公の代表として現れる。ブィリーナでと同じように、ヴラジーミル公は、すぐにその一騎打ちを認めることはできない。「彼は嘆く。」敵の外見は、またブィリーナの特徴で描かれている。ロシアの若者は「中位の背丈」であった。一方、ペネチェク人は「極めて大きく、恐ろし」かった。ペネチェク人は、みすぼらしい外見の敵を嘲り笑う。一騎打ちは、ロシアの若者の勝利に終わった。ヴラジーミル公は、勝利者に褒美を与え、彼を「偉大なる勇士」と呼んだ。 年代記は、戦について物語るだけではない。称賛を込めて、諸公や民衆の平和な日常の出来事についても語る。例えば、ヤロスラーフ賢公が、キエフにソフィア大聖堂と黄金の門を建立したこと、また多くの写字生や通訳者を集めたことも語られている。
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年代記の愛国主義
年代記作家の政治的見解や受け取り方は様々である。が、すべての年代記は、一つの思想で貫かれている。--ロシアの大地の統一への主張である。熱烈な愛国主義者である年代記作家は、倦むことなく、諸公やロシアの民衆に、全ロシアの国家統一と独立を守るよう呼びかけている。年代記作家のもとでは、祖国への愛と全ロシア民族の統一とを創り出そうとする感情が強く育まれ、全ロシアの利益を地方の諸公の利益よりも高いものとしている。それ故に、各地方(国々)の統一を乱し、外的の侵入を容易にする諸公の内乱のことを嘆いている。年代記は、ロシアの大地のために「よき殉教者(добрый страдалец)」となった公については、大いなる称賛をこめて評価している。古代ロシアの年代記は、私たちの国家の黎明期の歴史の内実を明らかにすると共に、同時に、大いなる思想的芸術的価値を持つ文学的記念碑である。その中に、多くの民族の詩の物語や伝統が集められ、格言やことわざ、民衆の哀歌や歌謡を引用している。その中には、古代ロシアの文書文献の作品ジャンルとして、様々なものが含まれている。軍記物、教会物語、諸公の相互関係の話など。 「過ぎし年月の物語」は、続くロシアの年代記では、普通、その年代記の初めに挿入された。それは、年代記を集成し、編集する上での手本とするためであった。内容の豊かさと多様性は、古代ルーシ文学作品の集大成のごときものとして、初めての年代記として、自らの創作の主題をそこに見いだすために、詩人たちの注目を引いてきたし、現在でも注目を集めている。
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