13−17世紀の文学

[13−15世紀の文学][不幸物語][シシェチニコフの息子、ヨルシュ・エルショーヴィチの物語]

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13−15世紀の文学

 この時期の文学は、ルーシのすべての重要な出来事と生き生きと関連している。
 芸術文学の主要な場所は、タタール・モンゴル人との戦いに捧げられたロシア民衆の物語が占めている。これらの物語の中で、13世紀最も有名なものは、1237年、ハン(汗)、バトゥーのリャザンの地への侵攻について語られているものである。
 その根本的テーマは、祖国を襲った外敵とのロシア人の戦いである。「イーゴリ軍記」以降、これは古代ルーシの最も優れた軍記物語である。その中では、命を惜しまず、祖国の大地を守ろうとするロシア人の努力を力を込めて力説している。物語は、外敵との戦いへの呼びかけ、献身的な勇気、軍の勇敢さ、エフパチイ・コロヴラト(Евпатии Коловрат)とその親兵、諸公や町の住民たちの英雄の如き功績を賛美している。
 「イーゴリ軍記」同様、物語は、古代ルーシの日常生活の真の姿を描いている。また、物語は、ロシアの大地と、団結して共同で外敵と戦わず、独立して戦う方を選ぶ諸公間の不和の詳細についても語っている。さらに、「軍記」の中でのように、諸公たちとその親兵たちとの関係も語っている。諸公は、自らの親兵を愛し、心遣いをし、戦いで非業の死を遂げた者たちを嘆き悲しんでいる。親兵たちは、自らの公とともに死の杯を飲み干すことを願っている。親兵たちについて、物語は、大いなる愛情を込めて優しく「向こう見ずで腕白な、リャザンの宝石、リャザンで生まれ育った者たち(удальцами и резвецами, узорочьем (драгоценностью) и воспитанием (питомцами, воспитанниками) рязанским)」と呼びかけながら語る。
 ロシア文学が存在した最初の世紀から現在に至るまで、「ロシアの大地の・・・についての物語(Слово о...Русской земле)」は、激烈な愛国主義的感情が最も著しい。
 その物語の中では、自然や物質的な豊かさが数え上げられている。タタールの侵入まで、それらで、「明るく透き通った美しく彩られたロシアの大地」は、満たされていた。無数の湖、河川、土地土地で崇められていた井戸(泉)、険しい山々、高い丘、美しい森、霊妙な草原、修道院の庭園、教会の建物。当時、ロシアには厳格な諸公、尊き大貴族、多くの貴人たちがいた。広大な領域とそこに住む人たちは、偉大な公ヴセヴォロト、彼の父キエフ公ユーリ、彼の叔父ヴラジミール・モノマフに従順であった。ポロヴェツ人は、揺りかごの中の幼児を、彼の名で脅し、彼の治世には、リトアニア人は、彼らの沼沢の中から光の中に姿を現さなかったし、ハンガリー人は、彼が自らのところに侵入して来ないよう、自分たちの石の都市を鉄の門で固めた。ドイツ人は、青い海の彼方、遠くに住むことで満足していた。近隣の様々な民族が、ヴラジミールに、年貢を蜂蜜で支払っていた。ビザンツの皇帝、マヌエル(Мануил)は、ヴラジミールがコンスタンチノープル(ツァーリグラード)を占領するのではないかと恐れ、莫大な貢ぎ物を送った。
 このように、この優れた古代文献(記念碑的著作)の内容は、深い愛国主義、過去のロシアの大地の栄光誇りが隅々まで浸透したものであった。
 同様の祖国の高揚した描写に、私たちは、レールモントフの中でも出会う。特に、愛すべき祖国に魅了されて書かれたものには。

		ロシアの草原は、寒々と静まり返り
		ロシアの森は、際限のないざわめき
		ロシアの河は、海の如くに増大する
		(Её степей холодное молчанье
		 Её лесов безбрежных колыханье,
		 Разливы рек её, подобные морям...)
 また、В.レベジェフ・クマチ(В.Лебедев Кумач)のすばらしい抒情詩の中にも。

		広大な我が祖国の大地
			そこには、数知れず、森や草原や河川が・・・
		(Широка страна моя родная
			Много в ней лесов, полей и рек...)
  クリコヴォ草原(Куликовом поле)での輝かしし勝利(1380年)は、人々の愛国的気分を盛り上げ、祖国に捧げられた多くの作品、口承詩、年代記、そして物語を生じさせた。これらの作品の中で最も優れたものは、「ザドンシチナ(Задонщина)」である。この詩の物語は、その大会戦が「ドンの彼方(за Доном)」で起こったためにそう呼ばれる。
 この物語は、リャザンの人、ソフォニヤ(Софония)によって書かれた。ソフォニヤは、恐らく、学識ある文学的教養のある人物であっただろう。勝利と祖国の創始者--ドミートリ・ノヴァノヴィッチとヴラジーミル・アンドレヴィッチ・セルプホフスキー公を讃え、「ロシアの大地を歓喜させること」を自らの課題とし、ソフォニヤは、「イーゴリ軍記」と口承民衆詩とを英雄詩の最も優れた手本としていた。外敵から祖国を守るのに、どのようにロシアの人々の力のすべてを結集したか、それがどんな立派なよい結果をもたらしたかを示そうという願いが、彼を「イーゴリ軍記」の方へ向けさせた。それ故、「ザドンシチナ」では、ロシアの勝利が称賛され、物語は勇壮なトーンを特色としている。そこには、「イーゴリ軍記」に見られる(悲)劇的要素はない。
 「ザドンシチナ」は、「イーゴリ軍記」とは別の時代に創造された。第一に、14世紀末は、全ロシアの国家が形成されていく中心として、モスクワの役割が非常に明らかになってきている。第二に、この時代、国内において、教会の影響力が強まり増大した。それ故に、ロシアの大地統一の理念は、「ザドンシチナ」の中では、タタール・モンゴルとの戦いの中で、指導的役割を果たした、すなわち、モスクワ公の賛美と結びつけられている。モスクワ公が勝利の立て役者として現れている。また、ここでは、教会の信仰の影が至る所に明らかに感じられる。それは、「イーゴリ軍記」にはなかったものである。ロシア人たちは、「ザドンシチナ」の中では、「ロシアの大地のため、キリスト教信仰のために」戦っている。

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不幸物語(Повесть о Горе-Злочастии)

 17世紀半ばから、芸術的想像力を駆使し当時の社会生活を反映させた作家たちの作品の量が、以前よりも多くなる。
 そうした作品の中で最も有名なものの一つが、「不幸物語(Повесть о Горе-Злочастии)」である。この物語は、旧来の生活を守ろうとする親たちと、自らの意思で生きていこうとする子供たちについての、当時としては差し迫ったテーマを提示している。
 物語はブィリーナに近い韻文で書かれている。その言葉は、民衆口承詩の特徴が著しく見られる。
 (民衆詩と)似た物語の中にも、新しいテーマが示されている。人生において、自らの道を探し求める社会の中間層の人々の運命の描写。その意味は、それらがその時代の矛盾を明らかにし、ロシアの生活を描いていることにある。特定の社会条件の中で、人の性格がいかに形成されていくかを示そうとする試みが見られる。登場する人物の一人一人に、その人だけに独特の特徴的性格が与えられている。
 世俗(教会ものでない)物語の中で、風刺作品が特別の地位を占めている。これらの作品は、民主的な人々に間で創作されたもので、金持ちや僧侶、不公平な裁判に対して書かれた。彼らは、作品の内容に描かれた人々の生活を暴露するばかりでなく、当時の支配階級の文学的文体や、制度にのった事務的な言葉をも嘲笑している。これらの作品には、広く、民衆詩のモチーフやジャンル、洒落やことわざ、慣用句、動物の寓話形式などが用いられている。こうした特質を持つことで、17世紀の風刺作品は、文学の発展史の中で大きな一歩を踏み出している。

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シチェチニコフの息子、エルシェ・エルショヴィチの物語

 この物語は、支配階級の手にあった不公平な裁判に向けられた風刺作品の一つと見なされている。物語の中で、大貴族の裁判が嘲笑されている。裁判は、17世紀の初めごく普通に見られた、他人の土地を強制的に奪ったことに関する事件が扱われている。
 物語の登場するのは、魚たち--様々な社会階層や行政役人を代表する者たち--である。「領主の魚(рыбы-господа)」チョウザメ( )、ベルーガ(Белуга=チョウザメの一種)、白魚が裁判官を演ずる。原告は、「大貴族のバカ息子(сынишко боярский)」うぐいであり、被告は、「財産を持たぬ貧しい」者、きんめだいである。
 物語は、モスクワ・ルーシの裁判制度を絵画の如く描いている。うぐいは、彼の領地--オストフスキー・オーゼロ--を不法に奪ったとして、きんめだいを裁判所に訴える。
 裁判所の描写は、皮肉たっぷりに描かれる。「大貴族である地方長官」の愚鈍でだまされやすいちょうざめは、機知に富んだ笑いで存分に笑いとばされる。これは、一度ならず、きんめだいに嘲りの理由を与えている。警察署長のすずきは、賄賂を受け取っている。
 表現豊かに、裁判の階級的性格を強調する。うぐいも、彼の証人たちも、そして裁判官もまた、--すべて、裕福で高貴な人々を擬人化したものである。一方、きんめだいは、貧しい者であり、作家はきんめだいの側に共感を示している。
 魚たちの形象の中に、作者は、彼らの階級の本質を暴き出し、その人間の性格を鮮やかに描き出すことができた。特に、地方長官のちょうざめ、成金の金持ち、メーニ(Мень=かわめんたい)がそうである。
 物語の文体には、訴状のような裁判文書の文言が再現されており、当時の裁判実務でよく用いられた言葉が多く見られる。それとともに、作者は、物語の主人公を的確に特徴づける。生きた口語の言葉を敢えて用いている。
 この物語は、17世紀だけでなく、民衆によってお話に書き換えられ、18世紀においても、民主的な人々の間に広く広まっていた。
 この物語と、物語「シェミャーカの裁判(Шемякин суд)」について言えば、ベリンスキーが民話(民衆のお話)についてすでに教示しているように、「それらの物語の中に、民衆の思想、民衆の物事への視線、民衆の生活習慣が鮮やかに反映されている。結局のところ、それらは最も価値のある歴史文書と見なすことができる。

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