ロモノーソフ
[М.В.ロモノーソフ][言語と文学の分野のロモノーソフの著作][作詩法の改革][ロモノーソフの詩的活動] [頌詩「女帝エリザベータの即位の日によせて」][文学史におけるロモノーソフの意味]
[目次]
М.В.ロモノーソフ
新しいロシアの芸術文学の初めに、学問・文学・社会活動の巨人、ロモノーソフが聳えている。彼の学問的関心の広さ、深さ、多様さは、驚くべきものであった。文字通りロシアの新しい学問・文化の父であった。機械学(力学)、物理学、化学、冶金学、天文学、地理学、言語学、詩学--これらが、ロモノーソフの関わった主要な分野である。そして、どの分野でも、自らの言葉で語り、多くの発見をした。ロモノーソフは、自らの祖国を熱烈に愛したロシア人民の天才的息子であった。彼において、ロシア人民に生来備わっている最も優れた特徴が形造られた。非凡なエネルギーと勤勉さ、鉄のような意志力、多分野にわたる創造の才、人民への献身的な奉仕など。 文化の面でのロモノーソフの活動は多彩であった。彼において、学問的・社会的活動家と詩人との一体化が特に際立っている。 ロモノーソフの学問的活動においては、常に、学問を人類への奉仕、自らの祖国への奉仕を第一のものとし、学問を社会の財産にしようと努めている。例えば、彼は、ロシアで初めて、物理学について公開の講演を行い始めた。 しかし、ロモノーソフの根本的な関心は、教育のための戦いに向けられていた。教育は、すべての階級のものに開かれるよう要求した。その数の中には農民も含まれている。彼は、ロシア人民の創造力とその能力を信じていた。ロモノーソフの考えに沿って、1775年に、ソビエト時代の現在、その偉大な創設者の名を掲げた、モスクワ大学が創立された。
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言語と文学の分野のロモノーソフの著作
言語と詩の理論の分野におけるロモノーソフの学問的著作は、きわめて重要な意味を持っている。これらの著作で、ロモノーソフは、ロシア文学言語の分野で本質的な改革を行い、18・19世紀においては、基本的なものとなり、私たちの時代(現代)に至るまで続いている作詩法の体系を確立した。 ロモノーソフは、当時のロシア語は、外国の言葉や古臭くなった廃れた教会スラブ語の言葉や表現でひどく汚されていると考えた。ロモノーソフは、ロシア語を清め、その豊かさを明らかにし、人民の基盤に基づいたロシア文学の言語を発達させることを自らの課題とした。自らの著作の中で、ロモノーソフは、(教会)スラブ語とロシアの民衆の言葉との中に見いだした、価値ある融合への道をとった。 ロモノーソフは、論文「ロシア語における教会の書物の効用について(О пользе книг церковных в российский)」の中で、「三つの文体(три штили)」についての学説を述べている。ここで、彼は、「ロシアの(российский)」言語には、三種の「言葉(речений)」すなわち、三種類の語(слово)がある。第一のものは、(教会)スラブ語にもロシア語にも共通して現れる語、例えば、слава(名誉)、рука(手)、ныне(現在)、почитаю(私は尊ぶ)。第二のものは、特に会話の言葉として使われるのはまれだけれども、学問ある人には理解できるような(教会)スラブ語の語が属する。例えば、отверзаю(私は開く)、господень(主の、神の)、насаждённый(普及した)、взываю(私は懇願する)。「完全に忘れ去られて使用されなくなったものはここから除外する。例えば、обаваю(очаровываю= 私は魅する)、рясны(ожерелье= 首飾り)、овогда(иногда= 時々)、свене(кроме= 〜を除いて)」。第三のものには、教会スラブ語の書物の中に入っていない語、例えば、говою(私は話す)、ручей(小川)、который(何番目の)、пока(〜の間)、лишь(ただ)、すなわち、純粋にロシア語の語。これら3つのグループの語を様々に組み合わせて、3つの「文体(штиля)」--「高い(высокий)文体」「中位の(средный)文体」(ロモノーソフは、それを普通の(посредственным)と呼んでいる)そして、「低い(низкий)文体」ができあがる。 「高い文体(Высокий штиль)」は、第一と第二のグループの語から成り立っている。この文体は、荘厳で荘重で威厳がある。英雄叙事詩、頌歌は、この文体で書かなければならない。一方、散文では--「威厳のある内容の」雄弁家の演説。「中位の文体(Средний штиль)」は、特に、ロシア語の語、すなわち第一と第三のグループの語で成り立っていなければならない。スラブ語の語、第二のグループの語を付け加えてもよいが、それは極めて慎重でなければならない。「文体が大げさに思われないように(чтобы слог не казался надутым)」悲劇、韻文で書かれた友愛の書簡、哀歌(挽歌)、風刺文は、この文体で書かなければならない。一方、散文は、歴史的内容のもの。「低い文体(Низкий штиль)」は、スラブ語の中にはないロシアの語だけで成り立つ。喜劇、警句(エピグラム)、叙情詩は、この文体で書かなければならない。散文では、「日常のことなどを書き綴った(описания обыкновенных дел)手紙」。 国民のロシア語の強化のために、ロモノーソフの、すべて外国起源の言葉を使わないようにしようとする戦いには、大きな意味があった。天才的な学者、多くの言葉に著しく通じた人として、彼は、学問的概念を表現するためのロシアの言葉を見いだすことができ、こうして、ロシアの学問・技術の語彙の基盤を築きあげた。彼によって創られた学問的表現の非常に多くが、しっかりとロシア語に定着し用いられるようになり、現代に至るまで使用されている。例えば、земная ось(地軸)、удельный вес(比重)、равновесие тел(物体の平衡?)、кислота(酸)、квасцы(塩化物)、воздушный насос(空気ポンプ)、магнитная стрелка(磁針)など。ロモノーソフは、ロシア語に移すのが困難であったり、古くから使われていてロシア語の語彙の中に余りにも深く浸透している学術的技術的表現や語は、翻訳をすることなくそのまま残した。しかし、彼は、それらを正しいロシア語に適用させようと努めた。例えば、彼の時代まで用いられ、彼の時代でも用いられていた、квадратуумという言葉の代わりにквадрат(四角、平方)と、оризонтの代わりにгоризонт(地平線、水平線)と、препорцияの代わりにпропорция(比例)と、彼は書いた。
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作詩法の改革
ロシア文学に対してロモノーソフの行った偉大な功績は、トレジャコフスキーに続いて行ったロシア作詩法の改革である。 18世紀に現れたヴィールシという(виршевая)音節詩は、18世紀に廃れた。しかし、1735年、学者であり詩人である В.К.トレジャコフスキー(1703-1769)は、「ロシア詩の簡潔で新しい作詩法(Краткий и новый способ сложеия стихов Российских)」という著作を公表した。この書の中で、彼は、初めて高い目標を掲げた。ロシア語の構造に合致した詩を創造すること、音節詩を拒否すること。トレジャコフスキーは、「私たち一般の国民の詩が」私を次のような考えに導いたと語る。ロシア語に本来備わっているのは、行の音節の数に基づく音節詩ではなく、それぞれの詩の中にある力点の数が同じで、力点のある音節と力点のない音節の交替を根拠とする音節数と力点の位置による作詩法である。これは、とても重要で正しい考えであった。 ロモノーソフは、ロシア語は、本来、音節数と力点の位置による作詩法が相応しいという、トレジャコフスキーの根本の考えを評価した。しかも、ロモノーソフは、この考えを発展させ、ロシア詩の改革を最後までやり遂げた。1739年、当時ドイツで学んでいたロモノーソフは、「ロシア作詩法の規則についての書簡(Письмо о правилах Российского стихотворства)」を書いた。その中で、彼は、(理論的にも、自らの詩の作品の断片からも)ロシア語は、トレジャコフスキーの主張するような強弱格や弱強格だけでなく、弱弱強格や、弱強格を弱弱強格と結びつけたり、強弱格を強弱弱格と結びつけたりする可能性をあげている。それは、男性や女性の韻や強弱弱格を応用し、それらを交互に用いることができる。ロモノーソフは、音節数と力点の位置による作詩法は、トレジャコフスキーが行ったような11音節や13音節の詩作においてだけでなく、あらゆる長さの詩--8音節の詩や6音節の詩、4音節の詩にまで広げるべきであると考えた。
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ロモノーソフの詩的活動
ロモノーソフは、偉大な学者であっただけでなく、当時の最も優れた詩人でもあった。愛国的市民であるロモノーソフは、芸術は、社会・国民の利益に役立つと評価していた。 彼は、内容の豊かさと文学の思想性のために戦った。自らの詩の活動において、ロモノーソフは、彼が文学と詩に提示した要求を自ら実践した。 ロモノーソフは、早い時期から詩を書き始めていた。しかし、彼の詩の作品は、外国に派遣された後、帰国してから展開し、開花した。彼は、非常に様々なジャンルの作品を書いた。頌詩、悲劇、抒情詩、そして風刺詩、寓話詩、寸鉄詩。彼の好みのジャンルは頌詩であった。 自らの頌詩で、ロモノーソフは、戦争での敵へのロシアの勝利を賛美したり(1739年、トルコの要塞ホーチン占領に捧げられた「ホーチン占領を讃えて(Ода на взятия Хотина)」、様々な荘重な祝典の日の式辞を述べたりしている。ロモノーソフは、信仰や学問をテーマにした頌歌も書いている。例えば、そうしたものとして、二つの頌歌「黙想(Размышления)」すなわち「神の偉大さへの朝の黙想(Утреннее размышление о божием величестве)」と「偉大なるオーロラに際しての神の偉大さへの夕べの黙想(Вечернее размышление о божием величестве при случае великого северного сияния)」がある。これら「黙想(Размышления)」は、学問学術的詩の模範を自ら提示している。その中で、彼は、彼以降今日に至るまで誰もなしえなかった学問と詩とを一つの目的に敢えて結びつけている。写実的な詩の形で、ロモノーソフは、「朝の黙想(Утреннем размышлении)」の中に、太陽の物理学的構造を学問的に描写し、「夕べの黙想(Вечернем размышлении)」の中に--オーロラの起源について自らの理論を述べている。 自らの性格の正にその性格と、自らの見解に沿って、ロモノーソフは、詩人・市民であった。ロモノーソフは、自らと詩との関わり、詩人としての責務についての見解を、詩作品「アナクレオンとの対話(Разговор с Анакреонем)」の中で示している。 ロモノーソフは、こう言明する。
せめて心からの優しさは
愛の中で、私は失わないが
英雄たちの永遠の誉れに
私は一層魅了される
Хоть нежности сердечной
В любви я не лишён,
Героев славой вечной
Я больше восхищён,
恋愛詩人アナクレオンに、自らを英雄詩人として対比させながら。
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頌詩「エリザベータの即位の日によせて(На день восшествия на престол императрицы Елизаветы)」
この頌詩(1747年)は、ロモノーソフの最も優れたものに属する。それは女帝エリザベータに捧げられ、彼女の即位の式典の日(11月25日)にむけて書かれた。 1747年、エリザベータは、科学アカデミーに関する新しい法令と新しい規定とを承認し、それによってアカデミーが使える予算金額が二倍に増額された。この年、ロシア政府は、当時フランスとゲルマン国家に対して戦っていたオーストリア、イギリス、オランダ側にたって戦争に参加しようとしていた。こうした状況が、ロモノーソフの頌詩の内容を規定している。彼は、エリザベータに啓蒙にいかに熱心な(学問の)擁護者であるか讃辞を述べ、学問(科学)の発展の担保としての平和と安寧とを称賛している。自らの根本的な思想を、ロモノーソフは厳格で均整のとれた形で展開する。頌詩は、国家の隆盛と国民の安寧を促す平安、すなわち平和な時代の賛美を含む序で始まる。更に、エリザベータに向け、ロモノーソフは、王位につくやスウェーデン人との戦争を中止した平和の擁護者として彼女を誉め讃えている。 続いて、彼は抒情的な内容へと移り、政府に戦争への介入に注意を呼びかけている。こうして、彼は新しいテーマ--ロシアの創始者としてのピョートルの賛美--へと移っていく。ロモノーソフは、ピョートルを彼の時代までロシアが置かれていた後進性と戦った戦士として称賛し、強大な陸軍・海軍を創設したこと、学問・科学を普及させたことで賛美している。 エカテリーナ I世の治世について手短に述べたあと、ロモノーソフは再びエリザベータの方に向く。そこで、彼は、偉大な父の尊敬すべき娘を、同じ学問と芸術の擁護者とみようとした。更に、女帝に「訓示(наказ)」をしながら、彼女の国の巨大な空間を描き出し、海や川、森や極めて豊かな奥地の大地などロシアの地理的に詳細な絵画を描いてみせる。これらの巨大な国の富を得て、国家や民衆の利益に供する必要がある。それができるのは学問科学者である。このように頌詩に新しいテーマ--学問、ロシアの民衆の中から学者を養成するというテーマを--を導入する。ロシアの民衆への深い信頼と堅い信念が、ロモノーソフの詩才によるそれについての言葉で響きわたる。
自らのプラトンと
俊敏な理性を持つニュートンとを
ロシアの大地に生み出すことができる。
(Что может собственных Платонов
И быстрых разумом Невтонов
Российская земля рождать.)
(古代ギリシアの哲学者と偉大なイギリスの数学者ニュートンの名を、真の学者の名として引用している。) 未来の学者を有益な活動へと呼びかけながら、ロモノーソフは、続く節の中で学問を熱狂的に賛美している。 頌詩の最後の節は、最初の節と呼応している。詩人は、再び平和とエリザベータとを称え、警戒感をもってロシアの敵に目を向ける。 祖国、その無限の広がり、その尽きぬ自然の富、その力と支配力、未来の偉大なる栄光--これらがロモノーソフの根本的なテーマである。それをロシア民衆のテーマでより正確に補足する。ロモノーソフは、偉大なロシアの民衆の天賦の才と強力な軍隊の勇気とロシアの海軍とを称える。彼は、ロシアの大地は、自らの偉大な学者、自らの「ロシアのコロンブス(российских Kолумбов)」、偉大な文化の活動家を生み出すことができると固く信じていた。 ロモノーソフの頌詩は、詩文の響き音楽性によって、言葉の快適さわかりやすさにおいて、当時、例外的なものであった。ロシアの書物に書かれた詩で、初めて、内容と形式との一致した真の芸術作品が現れたと、十分な正当性をもっていうことができる。
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文学史におけるロモノーソフの意義
ロシア文学史、また、ロシア文学言語史におけるロモノーソフの意義は非常に大きい。 1.ロモノーソフは、民衆の言語に基づくロシア文学言語の発展において、巨大な偉業を成し遂げ、トレジャコフスキーによって始められたロシア作詩法の改革を最後までやり遂げ、それを自らの詩作品で裏付けた。 2.ロモノーソフは、当時、進歩的傾向であったロシア古典主義の創造を促し、彼以降、18世紀から19世紀初めにかけて、ロシア文学史において人気のあるジャンルとなった荘重な頌詩の父となった。 3.深く観念的で愛国的、民衆的傾向のあるロモノーソフの詩は、ロシア文学の急速な成功に向けて発展を促した。学者として、詩人として、ロモノーソフは自らのすべての学識と能力を民衆と祖国の奉仕のために捧げた。彼の全生涯は疲れを知らぬ創造への探求、啓蒙の分野での彼の改革的活動を妨げる敵との英雄的な戦いで満ちていた。死の直前のメモに、ロモノーソフは、様々な事柄に混じってこう書いている。「ロシアの民を教育するために、自らの優れた素質を示すために、(偉大な)ピョートル大帝の偉業を守り抜こうして私が苦しむことに、私は耐える。・・・私は死を嘆かない。私は生き耐えてきた。私は、祖国の子供たちが私のことを哀惜してくれることを知っているから。(За то терплю, что стараюсь защитить труд Петра Bеликого, чтобы выучились россияне, чтобы показали своё достоинство... Я не тужу о смерти: пожил, по терпел и знаю, что обо мне дети отечества пожалеют.)」 ソビエトの祖国の自由な市民たちは、自らの偉大な先人、真の祖国の息子に魅了され、(彼のことを)誇りに思っている。
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