Д.И.フォンヴィージン(1745-1792)

[修練の日々][喜劇「旅団長」][フォンヴィージンの社会政治評論][晩年]

[目次]


 18世紀後期の優れた地位を占めている作家たちの中に、デニス・イヴァノヴィッチ・フォンヴィージンがいる。教養ある自由主義の人、フォンヴィージンは全生涯、独裁専制の敵、ツァーリのお気に入りの宮廷貴人たちの敵であった。プーシキンは、彼を「諷刺の大胆な君主(сатиры смелым властелином)」また「自由の友(другом свободы)」(エヴゲーニィ・オネーギン)と呼んでいる。フォンヴィージンは、このように広くまた正しく自らの作品の中に、彼と同時代のロシアの生活を描写することができたので、ベリンスキーは彼の作品をその時代の「生きた年代記(живой летописью)」と呼んだ。

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修練の日々

 モスクワのラジュジェストボ通り(クリスマス通り)(Рождественский бульвар)に沿った15番住居に記念版がかけられていて、それには、この家でデニス・イヴァノヴィッチ・フォンヴィージンが生まれ、1745年から 1765年まで暮らしたと書かれている。フォンヴィージンの父は貴族地主であって、モスクワで官吏をしていた。フォンヴィージンの言葉によれば、父親は公正さと買収されぬ誠実さがその気質であった。子供たちの養育と教育を配慮して、彼は 1755年、モスクワ大学に付属する中等学校が開かれたばかりであってので、自らの二人の息子--デニースとパーヴェルをそこに預けた。Д.フォンヴィージンは、優れた成績を収め、そのために 1757年初め、ペテルスブルクに住んでいた大学の監督官に中等学校の優れた生徒を十人推挙するよう定められたとき、その生徒の中にフォンヴィージンも含まれていた。
 ペテルブルクは少年に強い印象を与えた。彼は、ロモノーソフ、優れた演劇活動家で俳優でもあったФ.Г.ボルコフ、そしてИ.А.ドミートリエフスキーと知り合いになった。特に、演劇は彼の心を打った。彼は書いている。--「ペテルブルクでは、演劇ほど私を魅了したものはない。それを私は生まれて初めて見たのだが...演劇によって私の中に引き起こされた感情は、ほとんど描写することができないほどだ。(Ничто в Петербурге так меня не восхишало, как театр, который я увидел первый раз отроду...Действия, произведенного во мне театром, почти описать невозможно...)
 1760年、中等学校を終えると、フォンヴィージンはモスクワ大学に入学する。学生時代、フォンヴィージンは一連の風刺的作品、メッセージ(посланий)、寓話(басен)、寸鉄詩(эпиграмм)を書いている。大学を卒業後、フォンヴィージンは外務省に勤めたが、彼は文学と演劇とに興味を持ち続けている。

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喜劇「旅団長」

 1766年(あるいは 1769年)に、フォンヴィージンは喜劇「旅団長(Бригадир)」を書いている。劇場で上演されるまで、フォンヴィージンは自分の喜劇を文学サークルや貴人の家で読んだ。その喜劇そのもの、また彼の優れた朗読は「旅団長」とその著者に多くの人々の注意を引きつけた。人々はその喜劇について語り初めた。当時、ロシア外交を指導していたН.И.パーニンが著者に関心を抱いた。フォンヴィージンは彼のきわめて近い補佐役となった。
 喜劇「旅団長」の根本的なテーマの一つは、貴族階級の西洋への、特にフランスのあらゆるものへの模倣・追従の暴露である。
 劇の中心に旅団長の息子--イヴァーヌシュキ(Иванушки)の姿がある。彼は御者であるフランス人の所有する寄宿学校で教育を受ける。この後、彼はしばらくの間パリで過ごした。そして、そのことが彼の貧しい思考の頭を完全に夢中にさせてしまった。それで、彼は流行の様式でも、ロシアのものをすべて軽蔑し、まったくのフランス風になってしまった。彼は、ある意味不明なフランス語のようなロシア語を話し、様々にロシアの習慣や風俗、母国語への横柄で軽蔑的な態度を強めていく。
 しかし、この喜劇では、このテーマだけが提出されるのではない。ここでは、人生の様々な側面や貴族地主階級の風俗にも触れられている。粗野で無学で横暴な軍人のタイプが旅団長の人物像として与えられている。文官はペテン師で収賄者で賄賂で財産を築き、うわべだけの偽善者である。特に、旅団長夫人アクリーナ・チモフェーヴナの形象は、人生の真実を語り表現豊かである。彼女はケチで視野の狭い虐げられた女性であるが、善良さを失わず、不平も言わずに夫につくし、自らの無学故にばか息子たちを溺愛する女性である。
 フォンヴィージンは、ロシアの作家の中で初めて真のロシア演劇を創造するのに成功した。その中では、やさしい口語体の言葉を話し、真実の描かれた生活環境の中で行動する生き生きとした人々がいる。

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フォンヴィージンの社会政治的評論

 1782年、フォンヴィージンは退職する。公務から解放され、彼は文学活動に全く専念するようになる。雑誌「ロシアの言葉を愛する者たちの対談(Собеседник любителей российского слова)」の中に、フォンヴィージンは自ら「質問状(Вопросы)」を掲載する。エカテリーナは、その雑誌に参加しこれらの「質問」に答えた。この答えからは、エカテリーナがその「質問」の著者の大胆さと自由主義的な思想に腹を立てている様子がみてとれる。例えば、フォンヴィージンは女帝の立法権における政治について質問している。「何故に長い間立法に携わる誰一人としてこの分野で優れた業績を収めようと思わないのか。」(Отчего в век законодательный никто в сей части не помышляет отличиться?)」エカテリーナは怒鳴りつける。「それがすべてではないから。(Оттого, что сие не есть дело всякого)」フォンヴィージンは問う。「昔は、茶坊主道化には官位は授けられなかったのに、何故に、今日極めて高い官位が与えられるのか。(Отчего в прежние времена шуты, шпыни и балагуры чинов не имели, а нынче имеют и весьма большие?)」エカテリーナは答える。「私たちの祖先は皆読み書きができなかった。この問題は、私たちの祖先にはなかった自由という異教から生じている。(Предки наши не все грамоте умели. Сей вопрос подился от свободоязычия. которого предки наши не имели.)」
 「対談(Собеседника)」の別の号には、「ロシアの作家たちからのロシアのミネルヴァへの訴状(Челобитная Российской Минерве от российских писателей)」というフォンヴィージンの論文が載っている。「訴状(Челобитная)」は、ロシアの作家からエカテリーナII世への、文学者及び文学への迫害と「生まれながらの知性ではなく、下賜された知性の(умы не родовые, а жалованные)」貴人たちへの不満を述べた訴状である。この論文以後、フォンヴィージンは刊行物にものを書くことは閉ざされた。彼が次に準備していた論文--「全宮廷文法(Всеобщая придворная грамматика)」は、出版は許されなかったがすでに手書きの状態で広まっていた。
 この論文は、政府、貴族高官、宮廷の追従者に対して向けられたものであった。次のは、この論文の一部を抜粋したものである。

 「問い:宮廷文法とは何か?
  答え:宮廷文法とは、言葉やペンを使って巧みにおべっかを言うこと。
  問い:巧みにおべっかを使うとはどういうことか?
  答え:高貴な人の耳には快く、追従者たちにとっては利益となるような嘘を話したり書いたりすることである。
  問い:宮廷格とは何か?
  答え:宮廷格とは、力あるものは厚かましく、力無いものは卑劣な格である。しかし、大貴族の一部は、彼らの前ではすべて対格であると考えている。彼らは普通与格で好意と引き立てとを得ている。」

 (Вопрос. Что есть придворная грамматика?
  Ответ. Придворная грамматика есть наука хитро льстить языком и пером.
  Вопрос. Что значит -- хитро льстить?
  Ответ. Значит говорить и писать такую ложь, которая была бы знатным приятна, а льстецу полезна.
  Вопрос. Что есть придворный падеж?   Ответ. Придворный падеж есть наклонение сильных к наглости, а бессильных к подлости. Впрочем, часть бояр думает, что все находятся перед ними в винительном падеже; снискивают же их расположение и покровительнство обыкновенно падежом дательным.)

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晩年

 1788年、フォンヴィージンは「正しい人々の友」あるいは「スタロドゥーム(古風を重んじる人)」(Друг честный людей, или Стародум)と名付けるはずであった雑誌の出版を始めようとするが、その雑誌の出版許可は下りなかった。
 フォンヴィージンは、回想録「私の事や考えの公正な告白(Чистосердечное признание в делах моих и помышлениях)」を書き始めたが、完成することはなかった。死がそれを中断した。フォンヴィージンは、1792年12月1日に逝った。

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