Early Greek Philosophy

序論

John Burnet

I. 初期ギリシア哲学の宇宙論的特徴

 伝統的な世界観や人生の習慣的規範が壊れてしまうまで、ギリシア人たちは自然と行動の哲学が人々を満足させるよう探究する必要を感じていなかった。また、突然にそれらの必要が感じられたわけでもなかった。祖先から受け継いできた行動の規範は、古い自然観が過ぎ去るまで、真剣に問題とされなかった。そして、この理由から、最も初期の哲学者たちは、主に自分たちの周りにある世界について思索することに専念した。季節が巡り、論理学が新たに必要とされるようになった。宇宙論的探究は、科学(学問)と常識との大きな違いを光のもとに曝した。それ自体が解決を求められる問題であったし、さらに、やむを得ず、哲学者たちに、科学的(学問的)でない人たちの偏見に対して自分たちのパラドクスを守る方法を研究させることになった。さらに後になると、論理的な問題への広い関心は、知識の起源と有効性という問題を生じさせた。一方、ほぼ同じ頃に、伝統的な道徳の崩壊は、倫理学を生み出した。論理学と倫理学の発生に先立つ時代は、このように、それ自身特有の性格を持っており、相応しく別個に扱うことができる。

II. 伝統的世界観

 しかし、学問(科学)と哲学が始まったとき、世界はすでにとても古くなっていたことを覚えておかなければならない。特に、エーゲ海は、新石器時代からずっと高度な文明の、エジプトやバビロニアと同じくらい古代の文明の、重要なことほとんどにおいていずれの文明よりも優れた文明の中心であった。後の時代のギリシアの文明は、主として、この文明の復活であり、継続であったことが、日々明らかになってきている。疑いなく、しばらくの間発展のなかったそれほど文明化されていない北の人々から新しい重要な要素を受け入れたけれども。元々の地中海の人口は、数の上で侵入者より遙かに多かったに違いなく、自ら計画的にその過程を阻止したスパルタのような国家(ポリス)を除いて、彼らは数世代で彼らを同化し吸収してしまったに違いない。 いずれにしろ、私たちは、ギリシアの芸術とギリシアの学問は古い方の民族に負うている。私たちが、まさに学ぼうとしている著作を書いた人々の誰もが、アクラガスのエンペドクレスを除いて、皆イオニア人であったというのは、驚くべき事実である。そして、この例外というのも現実というより見かけ上のものであろう。アクラガスは、ゲラのロードス島の植民地によって設立された。そこの植民者たちは、かれら自身がロードス島の生まれであった。公式には、ドーリア人が初期エーゲ文明の中心であったけれども。私たちは、移住者たちは新しいドーリア人の貴族というよりむしろ主として古い住民であったとかなり推測することができる。ピュタゴラスは自らの教団をクロトンのアケイアの都市に設立したが、彼自身は、サモス生まれのイオニア人であった。

 こうした事から、私たちは、世界を初めて理解しようとした歴史時代のギリシア人たちが、それまで足を踏み入れたことのなかった小径に足を踏み入れた立場の人々では決してなかったということを見いだす心構えがなければならない。エーゲ文明の芸術の遺物は、かなり首尾一貫した世界観がすでに存在していたに違いないことを証明している。私たちは、記録が解読されるまで、それを詳細に復元できる希望はないのだけれど。 ハギア・トリアダのサクロファガスに代表される儀式は、死者の状態に関するある極めて明確な観点を含んでいる。そして、私たちは、エーゲ海の人々は、エジプト人やバビロニア人と同じくらい、理論的な思弁を発展させる能力があったと確信するだろう。私たちは、後の時代にこうしたものの痕跡を見いだすことを期待する。そして、シュロスのペレシュデスの断片のようなものは、こうしたなんらかの思弁の残存物として以外に説明できないと、すぐに言われるだろう。疑いなく、これらの初期の文明はすべてお互いに影響しあっていたのだけれど、これがエジプトから借用されたものであったと推測する根拠は全くない。クレタ人がエジプトから借用したというのと同じくらい、エジプト人がクレタ人から借用したのかも知れないと容易に考えられる。海の文明の中には、大河文明にともかく欠けていた生命の種があった。

 一方で、北からの侵入者は初期の時代の強力な君主政治を解体することによって、とりわけ、最後にはエジプトとバビロンを窒息させてしまうことになる迷信の成長を阻むことによってギリシアの天才の自由な発展を促したにちがいない。かつて、現実にこの危険があったことが、エーゲ文明の遺跡の中にあるある特徴によって示されている。一方で、アポロン神の礼拝は、アカイア人によって北方からもたらされたように思える。そして、事実、オリンポスの宗教と呼ばれるものは、私たちが見ることができる限り、主として、その(アカイア人による北方の)起源によるものであった。さらに、それが纏っている芸術的形態は、地中海の人々の刻印を帯びており、彼らの心を捉えたのは、主としてその形態であった。それは、古いエーゲ文明の宗教が恐らくなしただろうほどは強圧的なものではあり得なかっただろうが。 ギリシア人が決して聖職者(僧侶)階級を持たなかったのは、恐らく、アカイア人によるものであろう。そして、彼らの間で自由な学問の勃興があったことと何らかの関係があったとしても当然なことである。

III. ホメロス

 私たちは、ホメロスの中に、これらの影響がはっきりと働いているのを見る。彼自身は、疑いなく、古い民族に属していて、古い民族の言語用いたのだけれど、彼が歌ったのはアカイア人君主たちの宮廷のためであり、彼が褒め讃えた神々や英雄たちは、ほとんどがアカイア人であった。それ故に、私たちは、その叙事詩の中に伝統的な世界観の痕跡をほとんど見いだすことができない。神々は、率直なまでに人間的になっており、原始的なあらゆることが見えなくなっている。もちろん、初期の信仰や儀式(礼拝)の痕跡が残っているが、それらは例外的なものである。ホメロスが、原始的な殺人の浄化の習慣のことを、決して語らないことが、しばしば注目されている。死者は、古い民族の王がそうであったように埋葬(土葬)されるのではなく焼か(火葬)れている。幽霊はほとんど何の役割も果たさない。イーリアスにおいて、確かに、ホメロスの中に、人間の犠牲の孤独な例と近い関連で、パトロクロスの亡霊がある。また、オデュッセイアの第11書にはネキュイアもいる。しかし、そうしたものは稀であり、少なくとも、ある社会においては、ホメロスが歌ったアカイア人君主たちの社会においては、伝統的な世界観は比較的早い時代にすでに信用されなくなっていたと推論できるかも知れない。もちろん、ここかしこに姿を見せるのではあるが。

IV. ヘシオドス

 私たちが、ヘシオドス(の時代)に来ると、別の世界にいるように思える。私たちは、理性的でないだけでなく嫌らしい神々の物語を聞く。しかも、これらは極めて真面目に語られる。ヘシオドスは、ミューズたちにこう語らせる。「私たちは、偽りのことを真実であるかのように語ることを知っている。しかし、また、そうしようと思えば、真実であることを語ることもできる。これは、彼がホメロスの精神と彼自身の精神との違いを意識していたということである。その古いのんきさはなくなり、神々について真実を語ることが重要である。また、ヘシオドスは、彼がホメロスより後の悲しい時代に属していることも知っている。世界の時代を描くにあたって、彼は青銅の時代と鉄の時代の間に第五番目の時代を挿入している。それは、英雄の時代で、ホメロスの歌った時代である。それは、それ前に来る青銅の時代よりよかったし、それに続く時代、ヘシオドスが生きていた鉄の時代より遙かによかった。彼は、また、別の階級のために歌っていることも感じていた。彼が語りかけていたのは、古い民族の羊飼いたちと農夫であり、ホメロスが歌ったアカイア人の君主(王子)たちは、「歪められた運命」を与えられた遠い人になっていた。アカイア人の中央の時代のロマンスと輝きは、一般の人々には何の意味もなかった。原始的な世界観は、彼らの間では、本当は決して消滅したのではなかった。それで、彼らの最初の代弁者が、そ れを自らの詩の中に採り入れたとしても何ら不思議はなかった。 それ故に、私たちは、ヘシオドスの中に、ホメロスが軽視した、これらの古い野蛮な話を見いだすのである。

しかし、神統系譜学の中に古い迷信の単なる復活だけを見ることは間違っているだろう。ヘシオドスは、新しい精神に影響を受けないわけにはいかなかったし、彼は、それと知らず自ら先駆者となっていた。イオニアの科学と歴史の中に成長していったものの痕跡(基盤)が彼の詩の中に見いだせるし、彼は、本当は、彼が阻もうとしていた古い思想の衰退を速めるのに誰よりも多くのことをしたのだ。神統系譜学は、神々の物語すべてを一つの体系にまとめ上げようとする試みであり、体系というのは神話のような非常にむら気のものには致命的なものである。さらに、ヘシオドスが彼のテーマを扱う精神は古い民族の精神であるのだけれど、彼が歌う神々はほとんどアカイア人の神々である。このことは、最初から最後までその体系の中に矛盾の要素を招き入れる。ヘロドトスは、私たちにこう語っている。「ギリシア人のために神統系譜学を創ったのは、ホメロスとヘシオドスであった。彼らは、神々に名前を与え、彼らに役割と技術とを配分した」と。そして、それは完全に真実である。オリュンポスのパンテオンは、人々の心の中で、古い神々にとって代わった。そして、このことは、ホメロスと全く同じくらいヘシオドスのなしたことであった。一般の人は、あらゆる地方の社会から切り離され、詩が古い礼拝の対象にとって代わった人間化された(神々の)姿の中に、自らの神々を認めることはほとんどないだろう。そうした神々は、人々の必要を満足させることはできなかった。そして、それが、私たちが後で考察しなければならないだろう宗教の再興の秘密である。

V. 宇宙創造論

 ヘシオドスが自ら時代の子であることを示しているのはこのような仕方だけではない。 彼の神統系譜学は、同時に宇宙創造論でもある。ここでは、彼は彼自身の思想を述べていると言うよりはむしろ古い伝統に従っているようには思えるだろうが。 とにかく、彼は二つの大きな宇宙創造の人物、カオスとエロスのことを述べてい るだけであり、本当は、それらと彼の体系との関係には触れてはいない。 事実、それらは古い思弁の層に属しているように思える。カオスの概念は、事物の起源を描こうとする明らかな努力を表している。 それは、形のないものが混ざりあったものではなく、むしろその語源が示しているように、まだ何もない大きく口を開いた深い淵あるいは裂け目のことである。 私たちは、これは原初的ではないと確信するだろう。 原初の人間は、すべての物のまさに始まりという考えを形成するよう求められているとは感じない。初めに何かがあったということを当然のことと考えるから。 もう一人の人物、エロスは、疑いなく全体のプロセスを生じさせる生産(創造)への衝動を説明するよう意図されている。 これらは、明らかに思弁的な思想であるが、ヘシオドスにおいては、それらはぼんやりとしており混乱させられている。

  私たちは、紀元前6世紀全体を通して、宇宙論を生み出す偉大な活動の記録を持っており、エピメニデス、ペレキュデス、アクシラオスの体系のなにがしかを知っている。 もしヘシオドス以前にさえ、この種の思弁が存在するとするなら、私たちは、最も初期のオルフェウスの宇宙論もその世紀まで遡ると信じるのになんらため らう必要はないだろう。 これらすべての体系に共通の特徴は、そのギャップを回避し先ず第一にクロノスあるいはゼウスを置こうとする試みである。 それは、アリストテレスが半ば神学者であり半ば哲学者であって、初めに最良のものをおいた人と「神学者」とを区別するときに心に留めていたものである。 しかし、この過程は科学的であることとはまさに反対のことであることは明らかであり、漠然となされただろう。 それで、私たちはその宇宙論者がよりまじめな研究の経過に影響を及ぼしたことが示され得ない限り、私たちの現在の探究においてその宇宙論者たちとは何の関係もない。

VI. ギリシアの宇宙論の全般的特徴

  私たちが文献から見ることができるように、イオニア人たちは、事物の移ろい易さはかなさによって深く印象づけられた。 事実、なんら明確な宗教的確信のない過度に文明化した時代には当然のように、彼らの人生観には根本的なペシミズムがある。 私たちは、老年が来ることを悲しみ嘆いたクロポンのミムネルモスを見いだすし、一方、後の時代には、人間の世代が森の木の葉のように落ちていくというシモニデスの嘆きが、ホメロスがすでに打った琴線に触れる。 今や、この感情は常に季節の移ろい変化の中に最もよい例証を見いだす。そして、成長と衰退のサイクルは北方に於いてよりエーゲ海の島々に於いて遙かに特徴的な現象であり、さらに、暑さと寒さ、湿りと乾燥といった反対のものの闘争という形態を一層明らかに取っている。 それ故に、初期の宇宙論者たちが世界を見ていたのは、そうした観点からである。 昼と夜、夏と冬との対立は、眠りと目覚め、誕生と死とを暗示的に類推して、彼らが世界を見たときの世界の著しい特徴である。

 季節の移り変わりは、単に相対するものの一方の対、寒さと湿りが、他方の対、暑さと乾燥を浸食することによってもたらされ、暑さと乾燥も、順番がくれば、他方の対を浸食する。 この過程は、当然、人間社会から借りられた言葉で描写された。なぜなら、初期の時代においては、人間の生活の秩序と不変性とは自然の均一性より遙かに明確に理解されていたから。 人間は、社会規範と習慣によって呪縛された社会の中に生きているが、人間を取り巻く世界は、先ず第一に規範が無いように思われたから。それ故に、ある反対のものが別のものを浸食するというのは、不正なもの(アディキア)として語られ、それらの間のバランスを相応しく遵守することが正義(ディケー)であると語られたから。 後のコスモスという言葉もこの概念に基づいている。 それは、元来は、軍隊の訓練を意味し、次に、国家の秩序付けられた政体を意味するようになった。

  しかしながら、それで十分ではなかった。初期の宇宙論者たちは、対立するものの絶えざる抗争のような世界観には満足することはできなかった。 彼らは、これらには、ともかく、そこから発生し再びそこへと戻らなければならない共通の基盤があるに違いないと感じていた。 彼らは、対立するものより原初的な何か、あらゆる変化を通して永続しある形が存在しなくなっても別の形で再び現れるに過ぎない何かを探し求めていた。 これが、実際には、彼らが探究して入っていった精神であったと言うことが、彼らがこの何かのことを「不老の」また「不死の」と語っている事実に示されている。 もし、時折主張されるように、彼らの真の関心が成長と生成の過程にあったとしたなら、彼らはそれほどの詩的情感と連想とで満たされた形容辞を、変化と衰退の世界の中で唯一永続的であるものに適用することはほとんどなかっただろう。 それが、イオニア人の「一元論」の真の意味である。

VII. ピュシス

  さて、イオニアの学問は、エウリピデスが生まれた時代頃にアナクサゴラスによってアテネに伝えられた。そして、それが彼(エウリピデス)に影響を及ぼした十分な痕跡がある。 それ故に、学問的研究(ヒストリア)に捧げた人生の至福を描いた断片の中で、彼がアナクシマンドロスが一つの原初的な本質に適用した「不老不死の」というまさにその形容辞を用い、それらをピュシスという言葉と関連づけていることは、意義深い。 その一節は私たちの現在の目的のために、極めて重要なので、私はそれを全文引用しよう。

olbios hostis tês historias
esche mathêsiv mête politôn
epi pêmosunas mêt' eis adikous
praxeis hormôn,
all' athanatou kathorôn phuseôs
kosmon agêrô, tis te sunestê
kai hopêi kai hopôs
tois toioutois oudepot' aischrôn
ergôn meletêma prosizei.
  この断片は、BC15世紀にピュシスという言葉が、世界がそれで創られている永遠のものに名付けられた明らかな証拠である。 それは、私たちが理解できる限りにおいて、その言葉の歴史に全く一致している。 その本来の意味は、いかなるものもそれで創られている「要素」であるように思われる。その「組成」、全般的な性格や構成の要素に容易に変化するという意味で。 「不死不老」の何かを捜し求めていたそれら初期の宇宙論者は、当然、すべての物には「一つのピュシス」があると言うことで、その考えを表現しただろう。 そうした意味で使われなくなっても、エレア学派の影響の下、その古い言葉は、まだ使われた。 エンペドクレスは、そうした原初的な要素が4つあり、それぞれが独自のピュシスを持っていると考えた。一方、原始論者は(そうした要素は)無限にあると信じ、彼らもまたその言葉を適用した。

  アルケーという言葉は、しばしば、私たちの権威ある文献に使用されているものであるが、この意味では純粋にアリストテレスの用語である。 それがテオプラストスや後の著述家たちによって採用されたのは極めて自然なことである。なぜなら、彼らは、すべてよく知られた自然科学の一節から始めているから。その中で、アリストテレスは彼に先立つ人々を彼らが一つかあるいはそれ以上のアルケーを仮定しているかによって分類している。 しかし、プラトンはこうした関連では決してその言葉を使っていない。そして、初期の哲学者の真の断片には一度として現れない。それは、かれらがその言葉を使用したと仮定したのでは、極めて奇妙なことであろう。

 さて、そうだとするなら、私たちは、なぜイオニア人たちが学問(科学)をペリプセオースヒストリエー(ピュシス(自然)に関する学問)と呼んだのかすぐに理解することができる。 私たちは、次に続くどの学派の代表者を通しても跡づけることのできる思想の成長は、常に、原初の物質に関するものであること、一方、天文学やその他の理論は、主として、個人の思想家に特異なものであることを見るだろう。 すべての者にとって第一の関心は、万物の流転のなかに宿る(不変)ものの探究である。

VIII. 運動と静止

 アリストテレスとその弟子たちによれば、初期の宇宙論者は、また「永遠の運動(アイディオス・キネーシス)の存在も信じていたが、それは、恐らく彼ら自身のものの提示の仕方であるだろう。それは、イオニア人たちが彼らの著作の中で運動の永遠性について語ったこととは全く似ていない。初期の時代、説明されなければならないのは運動ではなくて静止であった。そして、その可能性が否定されるようになるまでは運動の起源について議論されなかったようには思える。私たちが見るように、それはパルメニデスによってなされた。そして、それ故、彼の後継者たちは運動の事実を受け入れ、それがどのような起源によるものかを示さなければならなくなった。それで、私は、初期の思想家たちは運動の起源を探る必要は感じなかったというだけの意味に、アリストテレスの所説を理解している。運動の永遠性は、一つの推論であり、それは本質的に正しいが、それがまだ定式化されていない教義を慎重に拒絶しているよう示唆している限りにおいて誤解を導くものである。

  一層重要な問題は、この運動の性質である。それが世界の始まり以前から存在していたに違いないことは明らかである。なぜなら、それが世界を存在させたものであるから。それ故に、多くの著述家たちによっているように天が一日周期で変化することや、あるいは何か他の純粋に宇宙的な運動と同一視することはできない。プラトンのティマイオスで説明されているように、ピュタゴラスの教義では、原初の運動は不規則で無秩序であり、私たちは、原子論者たちがその種の運動を原子(アトム)によるものとしたと信ずるに足る理由を見いだすだろう。それで、この段階では初期の宇宙論者たちの原初の物質に、何らかの規則的で十分定義された運動があったとは考えない方が無難である。

IX. イオニア学問(科学)の世俗的特徴

  これらすべてにおいて、神学的思弁があった痕跡は全くない。私たちは、初期のエーゲ文明の宗教とは完全に断絶し、オリンポスの多神教が、イオニア人の心をしっかりと捉えたことは決してないことを見てきた。それ故に、イオニア学問(科学)の起源を何か神話的思想に捜し求めることは、全く間違っている。疑いなく、ギリシアのそれらの地域には、北から来た者たちの支配の下では現れてこなかった、より古い信仰や実践の痕跡が多くあっただろう。そして、私たちは、彼らがオルペウス教やその他の神秘(教団)へ(の繋がりを)如何に自ら主張してきたかを、やがて見ることになるだろう。しかし、イオニアの場合は異なっていた。ギリシア人が小アジア沿岸に定住できるようになったのは、アカイア人がやって来るようになってからのことに過ぎない。そこは、(それまで)ヒッタイト人によって彼らには閉ざされていて、そこには(ギリシアにとって)伝統的な背景は全くなかった。エーゲ海諸島ではそうではなかったが、イオニア本土は過去のない国であった。それは、最も初期のイオニア哲学の世俗的特徴を説明している。

 私たちは、私たち(現代)にまで伝わっている遺物の中のテオス(神)という言葉の使用によって誤解を導いてはならない。イオニア人たちがその言葉を「原初の実体」、そして世界あるいは諸世界に適用したことは、全く真実ではあるが、それは、私たちがすでに述べた「不老」や「不死」といった神を形容する形容辞としての使用以上のものも以下のものも意味してはいない。その宗教的な意味において、「神」という言葉は、常に先ず第一に、崇拝の対象を意味したが、すでにホメロスにおいて、その唯一の語義を持たなくなっていた。ヘシオドスの神統系譜学は、その変化の最もよい証拠である。そこで述べられた神々の多くは、誰によっても決して崇拝されたわけでもなく、そのいくつかは自然現象の、あるいは人間の情念の単なる擬人化に過ぎないことは明らかである。この「神」という言葉の非宗教的な使用が、私たちが扱っている時代すべてにおいて特徴的なことであり、それを理解することが、先ず第一に重要なことである。そう考えれば、神話から学問(科学)が派生したなどと考える誤りに誰も陥ることはないだろう。

 私たちは、とりわけ、原初の宗教は天体や天そのものを神的なものと、それ故にこの地上のいかなるものとも全く異なる性質のものであるとみなしている一方で、イオニア人たちは、人々の信仰からそうしたことをよく知っていたに違いないのだけれど、最初からそうした差異からは顔をそらしているという事実からこのことを知る。アリストテレスは、後の時代のその違いを復活させたが、ギリシアの学問(科学)は、それを拒絶することから始まったのだ。

X. 真偽の疑わしい哲学の東方起源

  私たちは、また、いわゆるギリシア精神に及ぼした東方の知恵による影響の質と程度の問題に直面しなければならない。ギリシア人たちは、何らかの仕方で、彼らの哲学をエジプトとバビロニアから導き出したというのは、今日でも一般的な考えであり、それ故に、私たちは、そうした言辞が真に何を意味するのか、できる限り明確に理解しようとしなければならない。先ず初めに、私たちは、アカイア人の文明が非常に古くからあるということを知っているので、その問題は非常に異なる様相をまとっていることを観察しなければならない。東方のものとみなされていた多くのことが、単なるギリシアに固有のものであったかも知れないからである。後の影響に関しては、私たちは、ギリシアの哲学が繁栄した時期のどの著述家も、東方から来たものを何も知らなかったと主張しなければならない。ヘロドトスは、彼がそうしたことを聞いていたならば、そのことを言わないでおくはずはなかっただろう。なぜなら、ギリシアの宗教と文明がエジプト起源であるとの彼自身の信念を確認しただろうから。プラトンは、他の根拠からエジプト人を非常に尊敬していたが、彼らを哲学的な人々というよりむしろ、実務的な人々として分類している。アリストテレスは、数学の起源がエジプトにあると言うことだけしか語っていない(私たちが、後で触れる点である)。もし、彼がエジプトの哲学のことを知っていたなら、それに言及するのが、彼の議論をよりよいものにしただろう。エジプトの神官たちやアレクサンドリアのユダヤ人たちが、彼ら自らの過去にギリシア哲学の起源を見出そうと互いに競い始めた後の時代になるまで、私たちは、フェニキアやエジプトからの影響についての明確な言及は持っていない。しかも、いわゆるエジプトの哲学は、原始的な神話を寓話に変える一つの過程として達成されるだけである。私たちは、まだ自らで、フィロンの旧約聖書の解釈を判断することができるし、エジプトの寓意解釈者は、それより遙かに独断的であったと確かに思うかも知れない。というのは、彼らには、将来研究に値する資料が遙かに少なかったから。例えば、イシスとオシリスの神話は、後期ギリシア哲学の思想によって初めて解釈され、それからその哲学の起源であると宣言されている。

  この解釈法は、新ピュタゴラス主義者のヌメニオスで頂点に達し、彼からキリスト教護教家たちに伝えられた。「モーゼではなく、プラトンはアッティカ(アテネ)人に何を話しているのか」と問うたのはヌメニオスであり、クレメンスとエウセビオスは、さらに広く適用した言葉を残している。ルネサンスには、このごた混ぜ寄せ集めは、他の諸々のものとともに復活し、福音の覚悟から派生したある思想は、長い間、受け入れられた見解を彩り続けた。カドワースは、古代のターレスやピュタゴラスによって教えられた「モーゼの哲学」のことを語る。このギリシア人の独創性に反対する偏見の真の起源を理解することは重要である。それは、古代の人々の信仰の現代の研究者たちから来るものではない。なぜなら、これらは、フェニキアやエジプトの哲学の証拠を通しては、何も明らかにされないからである。それは、寓話へのアレクサンドリアの情熱の単なる残滓に過ぎない。

  勿論、今日、誰もクレメンスやエウセビオスの証拠に基づいてギリシア哲学の東方起源を求めるような論拠に留まったりはしないだろう。最近最も好まれる議論は、芸術からの類推である。私たちは、だんだん多くのことを知ってきている。ギリシア人は、彼らの芸術は東方に起源があると言われている。あらゆる可能性において同じ意図が哲学についても真実であることを証明するよう主張されている。それはもっともらしい議論であるが、まったく結論には導いてくれない。それは、これらのものが人から人へと伝えられる仕方の違いを無視しているから。物質文明と芸術は、彼らが共通の言語を使用していなくても、容易にある民族から他の民族へと伝わるかも知れない。しかし、哲学は、抽象的な言語でのみ表現することができ、教育のある人によって、書物や口伝の教えでのみ伝えることができるものである。今では、私たちは、私たちの扱っている時代のエジプトの書物を読んだり、エジプトの神官たちの議論を聞くことのできるギリシア人を全く知らず、ギリシア語で書いたり読んだしたオリエントの教師たちのことを後の時代まで決して耳にさえしない。ギリシアのエジプトへの旅行者は、疑いなく、エジプト語のわずかの言葉を取り上げ、神官たちは、ギリシア人によって理解され得たと当然のように思うだろう。しかし、かれらは通訳を利用したに違いない。そして、教育のない通訳を通してコミューニケイトされた哲学的思想を理解することは不可能である。

  しかし、本当は、哲学的な思想の伝達があったかどうか尋ねることは、これらの民族のいずれかが伝達すべき哲学を有していたという何らかの証拠が生じるまで意味はない。そのような証拠は、まだ全く発見されていないし、私たちが知る限り、その名(哲学)に値する何かをこれまで持っていた古代の民族は、ギリシア人の他には、インド人だけであった。今では、誰も、ギリシアの哲学はインドから来たというような人はいないだ ろうし、実際には、あらゆることが、インドの哲学はギリシアの影響の下に生じたという結論に向いている。サンスクリット文学の年代学は、極めて難しいテーマであるが、私たちが知ることができる限り、偉大なインドの体系は、非常に類似性のあるギリシア哲学より年代的に後のものである。勿論、ウパニシャッドや仏教の神秘主義はインド固有に成長したものであった。しかし、これらは、厳密な意味では深く哲学に影響を与えたのだけれども、それらは、ヘシオドスやオルフェウスがギリシアの科学(学問)的思想と関係しているのとちょうど同じ程度の関係に過ぎなかった。

XI. エジプトの数学

 しかし、ギリシアの哲学はオリエントの影響からは全く独立した起源を持っていたということは、別のことだろう。ギリシア人自らが彼らの数学という学問は、エジプト起源であると信じていたし、また、彼らは、バビロニアの天文学をかなり知っていたに違いない。哲学がこれら二つの国との交流が最も容易であったちょうどその時代にその起源を持つということ、またエジプトから幾何学を伝えたと言われる正にその人が、また最初の哲学者とみなされていることは、偶然なことであるはずがない。こうして、私たちにとっては、エジプトの数学が意味するものを発見することが重要になる。私たちは、ここでも、ギリシア人が真に独創的であることを見るだろう。

 大英博物館のリンド・パピルスは、エジプト人たちがナイルのほとりで理解していた算術と幾何学とをちらりと見せてくれる。それは、アーメスという人の著作である。そして、算術的や幾何学的な両方の特徴をもつ計算の規則を含んでいる。算術の問題は、ほとんど穀物と果実の計量に関するもので、特に、一定の人 数での量の分割、ある量が生み出す塊やビール壺の数、労働者がある仕事をするさいの賃金のような問題を扱っている。事実、それは、正確にプラトンが「法律」の中で私たちに語っているエジプトの算術の描写に一致している。そこで、プラトンは、子供たちは、文字と並んで、多くの人々や少ない人々にリンゴや花輪を分配したり、ボクサーやレスラーの対戦の組み合わせなどのような問題を解くことを学んだと私たちに語っている。これは、明らかにギリシア人がロギスケーと呼んだ技術の起源であり、恐らく、彼らはエジプトからそれを借用したのだろう。エジプトでは、そうしたことが高度に発達していた。しかし、ギリシア人がアリスメーティケーと呼んだ もの、数の学問的研究の痕跡は全くない。

 リンド・パピルスの幾何学は、同様の性格のものであり、ヘロドトスは、エジプトの幾何学は洪水後の土地を新たに測量する必要から生じたと語っていて、明らかにアリストテレスが神官階級によって享受された余暇から成長したと語っているのより、はるかにその記録(リンド・パピルス)に近い。面積を計算するための規則は、矩形の場合だけ正確である。耕作地は、普通おおよそ矩形であるので、実用的な目的のためには、これで十分だろう。直角三角形は正三角形でもあり得るとさえ考えられている。しかし、ピラミッドのいわゆるセクトを見出す規則は、私たちが予想するようにかなり高いレベルに達している。それは、このようになっている。「足の底を横切る長さ」すなわち底面の対角線とピレムスすなわち「リッジ(頂点と底面の角との長さ)」の長さが与えられたら、それらの比を表す数を見いだせ。これは、底面の対角線を「リッジ」で割ることで得られるが、そうした方法は経験的に発見されたものだろうと明らかに考えられる。このような規則との関連で初等三角法のことを語るのはアナクロニズムのように思われるし、エジプト人がそれ以上のことを考えていたことを示すものは 何もない。ギリシア人たちが彼らから相当のものを学んだことは、かなり可能性の高いことである。私たちは、また、まさにその初めから、ギリシア人たちが、海上にある船のような近づくことのできない物体との距離を測るのにそれを利用しようと一般化したことも知るだろうが。幾何学という学問の理念を示唆するのは、恐らくこの一般化だっただろう。それは真にピュタゴラス派の人々の創造であった。また、私たちは、デモクリトスのものとされる言葉からギリシア人たちがすぐに彼らの師をいかに遙かに凌いでいたかを見ることができる。それは、こう語っている。(断片299);「私は多くの学識ある人々の話に耳を傾けた。しかし、論証を伴う直線でできた図形の作図においてまだ誰も私を凌駕したものはいない。自らをそう呼ぶエジプトのアルペドナプトでさえそうである。ところで、アルペドナプテースという単語は、エジプト語ではなくギリシア語である。それは「綱を張る人」の意味で、最も古いインドの幾何学の論文がシュルバスートラすなわち「綱の規則」と呼ばれていることと著しい一致を見せている。これらのことは、各辺が 3, 4, 5,で常に直角の三角形を使用したいたことを指摘している。私たちは、これが初期の時代から中国人やヒンドゥーの人々の間で使用されたことを知っており、疑いなく、彼らはそれをバビロンから学んだ。そして、タレースは、その使用法をエジプトで恐らく学んだだろうことを私たちはる。これらの人々の誰かが苦労をしてその性質の理論的な証明をしたと考える理由はない。しかし、デモクリトスは確かに証明することができたのだろう。しかし、私たちが(後に)見るように、タレースがリンド・パピルスを超えた何かの数学的知識を持っていたという明らかな証拠は全くない。それで、私たちは、厳密な意味での数学はタレース以後のギリシアで生じたと結論付けなければならない。すべての数学用語は、その起源が純粋にギリシア語であるということは、この関連から意義深い。

XII. バビロニアの天文学

 イオニア人たちが彼らの学問(科学)の起源であると考えられた他のソースは、バビロニアの天文学である。もちろん、バビロニア人たちが初期の時代から天を観察してきたことは確かなことである。彼らは、恒星を、特に星座のなかに12宮の星を作り上げた。それは観察天文学の目的には有益であるが、それ自体はむしろ神話や伝承に属するものである。彼らは惑星を区別し名前を付け、その見かけの動きに注目した。彼らは、惑星の静止と逆行の動きに十分気づいていたし、(夏・冬)至点も(春・秋)分点もよく知っていた。彼らは、また(日・月)食が起こることにも気づいていた。占いの目的でそれを予言するために。しかし、私たちは、これらの観察の古さや正確さを誇張してはならない。バビロニア人が満足のいく暦を持つまでには長い時間がかかったし、一年を正確に保つためには、好ましい時に13番目の月を閏月として挿入しなければならなかったから。それでは、信頼に値する年代記を書くことは不可能であった。それだから、いわゆるネボナザル(747 B.C.)の時代以前には、天文学の目的に有効な年代はなかったしあり得なかった。1907年にまで光の届いている真に学問的な性格の最も古い天文学的記録は、カンビセスの統治下である 523 B.C.に年代付けられる。その時、ピュタゴラスはすでにクロトンに彼の学派を創設していた。さらに、バビロニアの観察天文学の黄金時代は、今では、アレクサンドロス大王以後の時代、バビロンがヘレニズム世界の都市であった時代だとされている。その時でさえ、観察によって非常な正確さが達成され、アレクサンドリアの天文学者たちに役立ったデータが蓄積されていたのだが、バビロニアの天文学が経験的な(天文学)の段階を超えていたという証拠は全くない。

  私たちは、タレースは恐らくバビロニア人たちが(日・月)食を予言しようとした方法でその周期を知っていただろうということを見ることになるだろう(§ 3)。しかし、ギリシア学問(科学)の先駆者たちがバビロニアの観察で得られた詳細な知識のいくらかを得ていたと仮定することは間違いであろう。バビロニアの惑星の名は、プラトンの古い時代の書き物以前には出てこない。私たちは、事実、最も初期の宇宙論者は惑星には全く注意を払わなかったことを見出すだろう。それで、彼らが恒星について考えていたことをいうのは困難だ。それは、それ自体、彼らは彼ら自らで始め、バビロニアの観察とは全く独立したものであったことを示している。また、記録された観察は、アレクサンドロスの時代になってやっと十分に利用できるようになった。しかし、たとえイオニア人がそれらを知っていたとしても、彼らの独創性は失われないだろう。天文学の目的のためにバビロニア人たちが記録した天体の現象は、なんら学問的関心からなされたものではなかったから。彼らが何らかの最も粗雑な仕方でさえ彼らが見たものを説明しようとした証拠は全くない。一方、ギリシア人たちは、二三世代の間に少なくとも三つの極めて重要な発見をした。先ず第一に、地球は球形でいかなるものの上にもないことを発見した。第二に、月食と日食との真の理論を発見し、それと緊密な関係にあるが、第三に、地球は私たちの体系の中心にあるのではなく、惑星のように中心を回っていると考えるようになった。あるギリシア人たちが、仮説的ではあるとしても、地球と惑星が回っている中心が太陽であるという最後の一歩をも踏み出している。これらの発見は、相応しい場所で議論されるであろうから、ここでは、ギリシアの天文学とそれに先立つあらゆるもの(天文学)との間に横たわる深淵を示すだけにする。一方、ギリシア人は占星術を拒絶した。ギリシア人の間にそれが伝えられるのは、紀元前3世紀になってからである。私たちは、これらすべてのことから、まとめとして、ギリシア人は彼らの哲学も科学もいずれも東方からは借用しなかったと言うかもしれない。しかし、彼らはエジプトから測量に関するある規則を学んだ。それを一般化したとき、幾何学が生まれた。一方、バビロンからは、天上の現象は循環することを学んだ。こうした知識が、疑いなく、学問(科学)の誕生と非常な関係があっただろう。というのは、そのことは、ギリシア人にとっては、バビロニア人の誰も夢にさえ思わなかったようなさらなる問題を示唆していたからである。

XIII. 初期ギリシア宇宙創造論の学問(科学)的特徴

 私たちが、まさに学ぼうとしている哲学の学問(科学)的特徴を力説する必要がある。私たちは、東方の人々が事実の蓄積においてギリシア人よりもかなり豊かであったことを見てきたが、これらの事実は、何ら学問(科学)的目的のために観察されたものではなかった。そして、原始的な世界観の改定を示唆するもの でもなかった。しかし、ギリシア人はその中に説明するのが可能になる何かを見ていた。そして、彼らは、「誰でも、それを見出すところではどこでもその恩恵を受ける。」という格言をなかなか行動に移さない人々のようで決してなかった。いかにそれが非歴史的であろうとも、ヘロドトスの描くクロイソスへのソロンの訪問は、この精神のよい理念を私たちに与えている。クロイソスはソロンにこう語る。「私は「あなたの知恵と放浪」の多くの話 を聞いている。知への愛(ピロソペオーン)から、見ることのできること(テオーリエース・ヘイネケン)を見る目的でどのように多くの土地を旅したかを聞いている。」テオーリエーとピロソピエー、ヒストリエーという言葉は、実際、当時の標語のようなものである。疑いなく、後にアテネで意味するようになった意味とは幾分異なった意味ではあったけれども。それらの下に横たわる理念は、恐らく、すべて英語では「好奇心」という言葉に変えられるだろう。イオニア人たちが野蛮人(バルバロイ)たちの間で手に入れることのできたそうした知識の断片を拾い上げ、自ら自身使用することができたのは、まさにこの好奇心という贈り物と見ることのできるすべての驚異的な物--ピラミッド、洪水氾濫--を見たいという欲求とであった。イオニアの哲学者は、5・6の幾何学の命題を学び、天体の現象は周期的に起こるということを聞くとすぐに、自然の至る所に法則を見出し、ほとんど傲慢とも思える大胆さで、宇宙のシステムを構築しようと着手した。こうした努力が示す子供じみた幻想と科学的な洞察力とのごた混ぜに私たちは微笑みを浮かべるかもしれない。そして、時々、大胆な当時の人々に「人間の状況に相応しい思想を考えろ(アントローピナ・プロネイン)」と警告する当時の賢人たちに同情したい気持ちになることもあるだろう。しかし、現在でも、それは科学的発展を可能にする大胆な先取の経験であり、これらの探究者のほとんどすべての人が、あらゆる分野で新しい世界観を開くだけでなく、積極的に知識に何らかの永久的な付与をしたことを、十分覚えておくべきだろう。

 また、ギリシアの学問(科学)は、観察と実験によってではなく、何らかの幸運な当て推量でできあがったものだという考えを正当化するものはなにもない。私たちの伝統の質は、ほとんどはプラチタ--すなわち、私たちが「結果」と呼ぶもの--で成り立っており、疑いなく、この印象を生み出す傾向にある。私たちは、滅多に初期の哲学者の誰も彼がなした見解をなぜ持つようになったのか語られることはないし、「意見」の糸が現れることは独断主義を示唆している。しかし、伝統の一般的な特徴にはある例外がある。私たちは、後のギリシア人がその問題に関心があったなら、もっと多くの人がいただろうと思うのは道理に叶っている。私たちは、アナクシマンドロスが19世紀の研究者たちが確認したような海洋生物学でのいくつかの著しい発見をしたことを見るだろう。また、クセノパネスでさえ、マルタやパロス、シラクサのような広く離れた場所での化石や石化作用に言及することで彼の理論の一つを支持している。このことは、地球はもともとは湿った状態にあったという初期の哲学者たちのによって一般に保持されていた理論は、純粋に神話的な起源によるのではなく、生物学的、古生物学的観察に基づくものであったことを示すに十分である。確かに、こうした観察をした人たちが、記憶が失われた他の多くのことをする好奇心や能力を持っていなかったと想像することはばかげているだろう。実際、ギリシア人は観察者ではなかったという考えは、訓練された観察の習慣があることの証拠である彼らの彫像の解剖学的正確さによって証明されているように、滑稽な間違いである。一方、ヒッポクラテスのコルプス(身体)には、科学的な観察の最も優れた模範(モデル)が含まれている。それで、私たちは、ギリシア人たちは観察をするのが巧みであったことを知っているし、彼らが世界について好奇心を持っていたことを知っている。彼らは、彼らの観察力をその好奇心を満たすために使わなかったと考えられるだろうか。彼らが、私たちが持っているような精度の器具は持っていなかったことは本当であるが、非常に簡単な装置の助けを借りて多くのことが発見された。アナクシマンドロスが、グノモン(ノーモン)を創り出したのは、スパルタ人が季節を知っるためだけだと考えるべきではない。

 また、ギリシア人が実験を全く利用しなかったと言うのも本当ではない。実験方法の起源は医学学校が哲学に影響を及ぼし始めた時代に年代付けられ、それ故に、私たちは、現代のタイプの最初の記録された実験は、クレプシュドラ(水時計)を用いて行ったエンペドクレスの実験であることを見出す。このことについては彼自身の説明を有しており(断片 100)、私たちは、如何にして彼がハーヴィやトリチェッリに先んじてそうした実験をするようになったのか知ることができる。好奇心の強い民族がそれを他の問題に広げることなく一つの場合でだけ実験的方法を用いたとは想像できない。

 勿論、私たちにとって非常に困難なことは、学問(科学)がそこから始まることが避けられない地球中心の仮説である。それは驚くべき短期間に成長していくのだが。地球が世界の中心であると考える限り、後のその言葉の意味では、気象学は必然的に天文学と同じになる。私たちにとって、この観点に安住することは難しい。事実、私たちはギリシア人たちが最初にウラノスと呼んだものを表現する適切な言葉を持っていない。それに「世界」という用語を用いることは便利であるが、それでも、私たちは、その言葉は地球という意味だけでなく、あるいは主としてその意味を表すのではなく、天体をも含んだ意味であることを覚えておかなければならない。

 それ故に、6世紀の学問(科学)は、主として、「空中」(メテオーラ)の世界のことに関心があった。そして、それらは天体だけでなく雲や虹、稲光のようなものも含んでいる。それで、後者(稲光)は、発火した雲として時折説明されるようになった。私たちには驚くべきことのように思える考えだが。しかし、それでさえ、太陽や月や星を地球とは異なる性質を持つと考えることよりましであり、学問(科学)は最も明確な仮説からはじめることは避けられないことであり正しいことである。また、それが不適当であることを示すことができるのは、これをやり遂げることによってだけである。ギリシア人たちがそれを超えて行くことができたのは、彼らが地球中心の仮説を真剣に考えた最初の民族でまさにあったからである。勿論、ギリシア思想のパイオニアたちは、学問科学)的仮説の性質についての明確な考えは全く持っていず、自らを究極の真実を扱っていると思っていたが、確かな直観で、彼らは正しい方法を導き、私たちは、初めから本当に影響を及ぼしていたのは「外見的現象を蓄える」努力であったことを知ることができる。その対象として究極的に全世界の中に取るべきだという正確な学問(科学)の概念を、私たちは彼らに負うている。彼らは、この学問(科学)をすぐに達成できるとの幻想を抱いていた。私たちは、時々、今日でも同じような誤りを犯し、すべての学問(科学)的進歩は、適切な仮説が少しからより多くなっていくその前進の中にあることを忘れている。ギリシア人たちは、この方法に従った最初の民族であった。そして、それが、学問(科学)の創始者とみなされる彼らの勲章なのである。

XIV. 哲学の学派

 ギリシアの哲学の歴史を初めて体系的に取り扱った著述家であるテオプラストスは、師と弟子との関係をお互いに守る、組織だった社会の構成員としての初期の宇宙論者を代表していた。これは、ずっとアナクロニズムとみなされ、哲学の「学派」の存在を全く否定する人もいた。しかし、そうしたテーマについてのテオプラストスの陳述は、軽々しく脇に置かれるべきではない。この点は非常に重要であるので、私たちが話を先に進める前に、それをはっきりとさせておく必要があるだろう。

 人生のほとんどどの分野においても、初めは、組織体(集団)がすべてであり個人は何もないものである。東方の民族は、ほとんどこの段階を超えることはなく、そうした彼らの学問(科学)は、無名の人たちのカーストやギルドで受け継がれてきた財産であり、いくつかの場合において、私たちはそれがギリシア人の間でも同じであったことを明らかに見る。例えば、医学は、元々はアスクレピアデスの「神秘(秘蹟)」であった。ギリシア人を他の民族と区別するのは、初期の時代に、これらの技術が著しく優れた個人の影響の下に置かれるようになり、彼らが新鮮な方向付けと新しい刺激を与えたことである。しかし、このことは技術の集団的な性格を破壊するものではなく、むしろそれを強めた。ギルドはいわゆる「学派」となり、弟子たちが徒弟たちに取って代わった。それは、極めて重大な変化である。公の長以外には何もない閉じられたギルドは、本質的に保守的なものである一方、彼らが崇める師に属する弟子の一団は、世界が知る限り最も偉大な進歩への力である。

 後のアテネの学派が合法的に認められた組織集団であって、その最も古いものがアカデメイアで、およそ400年間そうしたものとして存在し続けたことは確かであり、私たちが解決しなければならない唯一の問題は、これが BC4世紀になされた革新なのか、それともむしろ古い伝統の継続なのかという問題である。現在、私たちは、学派で伝えられた初期の主要な体系のことを話すのにプラトンの権威を持っている。彼はソクラテスに、彼の時代、強大な集団組織を形成した「エペソスの人たち」、ヘラクレイトス派の人々のことを語らせ、ソフィストであり政治家であるその異国人は、彼の学派はまだエレアに存在していると語っている。また、私たちは、「アナクサゴラス派の人々」のことも聞く。勿論、誰もピュタゴラス派の人々が組織集団であったことを疑うことはできない。事実、ミレトスの学派を除けば、最も強力な種の外部の証拠のない学派はほとんど何もない。そうみなしても、私たちには、テオプラストスが後の時代の哲学者のことを「アナクシメネスの哲学の仲間たち」であったと語る意義深い事実を持っている。ミレトス学派に有利な内部の証拠が実際非常に有力だということも、私たちは、また、最初の章で見るだろう。それで、今、私たちがギリシアの学問(科学)を創造した人々を考えようとしているのはこうした観点からである。

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