初期ルネサンスの最も重要な一つの革新は、疑いなく合唱ポリフォニーであっただろう。これは、後のすべての発展が由来する本質的な必要条件であった。中世においては、合唱はパート音楽を演奏するのに決して用いられなかった。これは、ソリストたちの領分であって、聖歌のソロの部分を一種同時にトロープス化することによって成長した。14世紀の終わりから、私たちは、王宮礼拝堂や豊かな大聖堂の聖歌隊の訓練された音楽家たちの数が着実に増加しているのに気づいている。1420年代から「コーラス(chorus)」という用語が、教会のポリフォニーの写本の中に次第に多く現れ始めている。今では、混ざり合うと同時にバランスのとれた声部のまとまりという考えは、中世の作曲家たちには、全く見知らぬものとなってしまい、新しい媒体(手段)が、過激に作曲技法を変えた。ゴシック後期のポリフォニーは、著しく対照的な音質の小さな室内楽グループによって演奏された。声部(パート)の書法は、これを反映し、その目的は、それぞれの声部をできるだけ隣の声部とは異なるものにすることであった。合唱の手段媒体の変化とともに、作曲家は、それと関連する2つの問題に直面した。今や、別の声部を、それを目立つようにするというより、混ぜ合わせなければならなかった。また、不協和音の扱いに、遙かに注意深くならなければならなくなった。 同じ音色の2つの声によって生み出される不協和音は、対照的な音質の2つの声によって生み出される同じ不協和音より遙かに耳障りに聞こえる。さらに、合唱(コーラス)のために書くときには、1420年代の作曲家たちは、先祖たちの神経質で装飾的な不協和音を捨て、快い響きの喜びへと向かった。私たちは、不協和音の全く含まれない音楽全体の広がりに遭遇する。特に、ダンスタブルやピヤマー(Pyamour)のようなイギリスの巨匠の作品において。しかし、明らかに混ぜもののない(純粋な)協和音は、退屈な(さえない)食事である。そこで、作曲家たちは、また、いかに不協和音をてなづけようかと考え始めた。彼らは、それを構造的に使い始めた。ゴシックの作曲家は、不協和音を楽しんだが、強い拍にある完全な協和音の間にある音楽の弱い拍で用いただけだった。一方、初期ルネサンスの対位法は、予備音と解決音との間で不協和音を活用した。今や、強い拍の力強いモチーフの力として現れることが可能になり、そのロジカルな弾みは、シェーンベルクとその楽派の時代まで、全音階の時代の対位法のハーモニーを推進した。 新しい媒体として確立された合唱(コーラス)とともに、また、解決された不協和音の問題とともに、ルネサンスの作曲家たちは、自由に他の中世の伝統とも同様に関係を絶った。例えば、彼らはグレゴリオ聖歌を定旋律(カントゥス・フィルムス cantus firmus)として使用するとしても、もはや長い音符でテノールに置かなければならないとは感じていなかった。聖歌は、今では、どの声部にあってもよく、一つのパートから別のパートに移ってもよかった。その輪郭は、明確な形をとるより、より柔軟なリズムに形作ることができたし、あるいは、あふれるばかりに贅沢な装飾の下でほとんど消えかかっていることもあった。私たちの時代の終わり頃には、作曲家たちは、歌を短いフレーズに切り、それらを音楽全体のテクスチュアを通して、テーマの胚種として用いた。定旋律を選ぶ時にも、彼らはもはや礼拝の妥当さ・ふさわしさに支配されてはいなかった。聖務のアンティフォン(交唱聖歌) - あるいは世俗の歌でさえ - ミサ曲のテノールにすることができただろう。作曲家は、祝典(祭典)のモテトゥスのために、それが礼拝に相応しい場所だからではなく、単旋律聖歌を連想する言葉が相応しいものとして彼の心を打ったからその歌を選ぶことになるだろう。世俗の歌では、同時にその態度は、次第に変化のないリフレインのある中世のシャンソンの定型を衰退させていくことになった。 ジョスカンの死の時までに、作曲家たちは、広く分類された新しい技法の武器庫から選ぶことができるようになっていただろう。スペクトラムの一方の端に、単純だが感受性に富んだフロットラのホモフォニーがあり、垂直の和声と朗読風リズムとを強調している。他方の端には、私たちはルネサンス音楽の主要な栄光の一つ、模倣対位法を見いだす。ここでは、「民主的な」声部書法の古典的テクスチュアがあり、すべての声部が音楽的素材の中で平等に共有する。音楽のどの部分も、フーガの主題の提示のように、一つの声部から別の声部へと移る短いテーマに基づいて構築されている。それは、今日まで作曲家たちを魅了してきたテクスチャーである。それを達成するためには、中世との最後の繋がりが断ち切られなければならない。というのは、ゴシックの音楽家たちは、音楽を、今日私たちがするように、小節ごとに作曲をしなかったから。一つのパートの作曲は、それはしばしば単旋律聖歌に由来するが、普通テノールから始めた。そして、その上に、二つ目の音楽のライン(旋律)を2声部のディスカントの単純な規則に従って書き加えた。その後、実際には、ある他の作曲家だが、第3のパート全体を付け加えていき、しかもテノールだけからそれを作ったので、この第3声部が第2声部と非常に耳障りな不協和音を生ずることもあった。ゴシックの建築のように、その音楽は決して完成せず、また、現代の意味でのフォーマルな統一は決してなかった。もちろん、それは、この方法を使う祝典を模倣して書くことはできたが、それぞれの続く声部が曲全体に付け加えられるにつれ、その機会は次第に減少していった。2つ以上のパート間の厳密な模倣であるカノンを書くためには、システムは捨て去らなければならなかった。作曲家は、同時にすべてのパートで仕事をしなければならない。音楽を小節ごとに一致させながら。ジョスカンの世代の作曲家たちが、初め、模倣の対位法を統合されたそれ自体で完全な音楽の構造へと作りあげたのだが、彼らは、また複雑なカノン書法もマスターしていたことは偶然ではない。 初期ルネサンスの最後の意義ある革新は、作曲家たちが、音楽に付けた言葉を扱うようになったときに持った新たな敬意に関わるものである。中世後期の作曲家は、テキストを付けたとき、人間の話のアクセントやイントネーションを再生しようとはしなかった。言葉には、自ら構築するルールに従う音楽に適するには、あまりに多くの音節(シラブル)があった。音楽の論理が要求されたなら、作曲家は、言葉の途中で確かなカデンツァでその部分を終えるだろう。あるいは、長い休符で一つの言葉を2つに分かつだろう。16世紀初めまでに、この態度は急速に変化していた。フマニスト(人文主義者)たちも革新者たちも言葉に非常に関心を抱いた。そして、新しいリアリズムが美術を支配するようになった。作曲家たちも、音楽に言葉を付けるのに、自然言語の韻律に従い始めた。私たちがジョスカンの時代の声の音楽に現れるのを聞くことができる「just accent(正しいアクセント)」は、それ以来非常に重要になった。 この言葉への新しい感覚は、韻律法を越えていった。それは、同様に、言葉の感情的内容に拡張していった。理論家のグラレアヌス(Glareanus) - 彼もまたフマニストで、エラスムスの友人、テレンティウスの編纂者で、皇帝マクシミリアン1世の桂冠詩人である - は、1547年、ジョスカンについてこう語っている。「誰も(彼以上に)音楽で魂の情熱を効果的に表現しえた者はいない。」 そして、実際に、私たちは、ジョスカンの音楽に、人間の感情と相応しい音楽の象徴とを一致させようとする最初のいくつかの試みを見いだす。この考え -「情緒(affect)の教義」- は、急速にイタリア・マドリガーレに広がり、ついにはルネサンス・ポリフォニーの滅亡に寄与することになった。それは、リヒャルト・シュトラウスの時代まで、西洋の音楽思想を支配した。 この短い(そして必然的に単純化しすぎた)初期ルネサンス音楽の新たな発展の解説は、私たちが、後に、その絵画の詳細のいくつかを満たすようになると、私たちに大いに役立つようになるだろう。恐らく、続く数世紀の音楽が、この非常に興奮を呼び起こす時代に、どれだけ多くのものを負うているかを示してくれるだろう。 もとに戻る |