6. チベット

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[固有の伝統][インドの影響とラマ教の礼拝][モンゴルと中国の影響(13世紀-17世紀)そして神秘劇][民衆の形態]

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固有の伝統

 チベット人は、中国人よりもモンゴル人やビルマ人に近く、ほとんど同族といってよいモンゴロイド系の民族である。古代世界の交易ルートとは離れ、海抜平均3マイル(4800m)の国に住んでいたので、彼らは、文明世界の中でもユニークな音楽文化を発達させてきた。チベット人は、元来、牧畜の民であると見なす伝統は、すべての楽器の中でも最も牧畜と関係のある楽器、ホイッスル・フルート(glin-bu)を好むことからも裏切られていない。
 チベット人の古代の宗教は、ボン教(Bon)として知られるシャーマニズム(精霊崇拝)の一形態であった。今日でも、東チベットには、ボン・ポ(bon-po)と呼ばれる多くの信者がいる。その祭司たちは、現在、単なる妖術家で悪魔払いや豊穣の儀式を行い、単純な呪文と歌とを採用していると見なされている。彼らは、人間の大腿骨でできたラッパを吹いて、ものすごく不気味な音を出したり、砂時計のようなくびれた形に二つの頭蓋骨の半分で作ったハンド・ドラム(rna-ch'un)をたたく。チベット語の dunは「ラッパ」と「骨」との両方の意味が等しくある。これらの楽器は、事実上、アジアの他の地域では知られていないので、恐らく、それらは固有のものであろう。チベットの枠太鼓(lag-na)は、その類縁関係が、インドやシベリア、北極圏(グリーンランド)のシャーマンの間にも見いだされているので、疑いなく、その起源は、チベットの先史時代にまでさかのぼることができるだろう。

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インドの影響とラマ教の礼拝(7世紀-13世紀)

 チベットの歴史は、ソンツェン・ガンポ王(Srongtsam Gampo)(613-50)の時代から明らかになっている。彼は、二人の王女、一人は中国の、もう一人はネパールの王女と結婚した。二人とも、仏教徒であったが、チベットの現在の宗教、ラマ教とは、主としてインド起源の仏教から発達し、ボン教(bon)を自由に同化したものであった。(仏教との)接触は、先ず、ネパールを通してであり、恐らく、古代のコータン(khotan)を通してであっただろう。コータンには、小さなインドのシンバルが洞窟に刻まれているが、それは、また、今日でもチベットで用いられているシンバル(rolmo)の一つであっただろう。8世紀から13世紀まで、インドの直接の影響で、チベットに別のくびれた砂時計の形の太鼓(damaru)--今回は、木で様々に作られた--、知恵の象徴としてラマ僧が左手に持つハンド・ベル(dril-bu;インドのガンタ(ghanta))、儀式の合図として用いられたホラ貝(dun-dkar)、そして悪魔払いの儀式の雄羊の角などがもたらされた。
 一方、修道院のオーボエ、あるいは、カラムス(rgyaglin)は、僧院の外では、スルナ(surna)と呼ばれているが、その名はペルシアと関連があり、七音音階で演奏する。その形と12フィートから16フィートの長さの僧院のラッパ(rag-dun)の装飾的なスタイルは、13世紀のアラビアやペルシアの写本の中で発見されたものと比較されうる。イランの影響は、確かに、近隣のムスリムの要素を通じて、また(恐らく11世紀から)インドを通してチベットに達した。
 ラマ教の礼拝が発達するある段階で、これらすべての楽器(固有の、インドの、イランの、そして恐らく東アジアの)が統合された。そして、恐らく、インドの仏教の歌の要素で、僧院での礼拝にふさわしい音楽が創造された。今日、この音楽は、祈りと教典、速い音節のレシタチヴォとゆっくりと保持された韻律的な歌で、様々に歌われる賛歌と詩編でできている。歌は、ユニゾンで、深い声で--人が普通予想するより十分に、一オクターブ低く--歌われた。また、時に、コーラスでドローン(持続低音)によって(あるビザンティウムの歌のように)支えられている。疑いなく、インド起源の理念に基づいている。歌は、合奏の伴奏や間奏によって支えられたり、変奏されたりしている。
 中国の儀礼音楽とは対照的に、合奏には、全く弦楽器はなく、送風(管)楽器と打楽器だけである。二つの長いラッパは、交互に吹かれ、永遠に荘厳にオルガン・ペダルのようにドローンを保持する。オーボエは、時が進行するにつれて、出来事をパノラマのように表現し豊かに旋律を奏でる。一方、打楽器は、その音に荘重な韻律を添える。それに加えて、より小さなラッパ、大腿骨のラッパやホラ貝が突然鳴り響き、その結果、音楽にユニークな音色を与える。僧たちは、身振りで腕を動かし、バターの灯りの光の下で、非常に儀式の雰囲気が呼び覚まされる。その音は、感覚的には魅力と言うにはほど遠い。反対に、7つか8つの種類の楽器は、ヨガ行者が瞑想して、内面で聞く異界の音を表現していると言われ、合わさって演奏されると勤行の助けになると言われる。チベットの死者の書のチベット語の呼称、バルドゥ・トェドル(Bardo Thodol)は、文字通りの意味は「死後の世界(Plane)での聴聞による大解脱」であり、チベットの音楽科学(rol-mo rig-pa)について、詳細はほんのわずかしか知られていないことは、残念なことである。
 死者の書(あるいはむしろ死にゆく乗り物)は、本質的な部分は8世紀にさかのぼるが、古典の僧院の音楽が、ラマ教の音の表現として現れた正確な時期は言うことはできない。しかし、その記譜法は、ネウマの高度な装飾の体系であり、12世紀頃、サキヤ(Sakya)(恐らくインドから)で最初に導入された可能性が最も高い。

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モンゴルと中国の影響(13世紀-17世紀)そして神秘劇

 1270年、中国史上初のモンゴルの皇帝、クビライ・カンは、帝国を統一する手段としてラマ教を採用した。やがて、チベットの音楽の記譜法は、モンゴルその他の地域に広まっていった。僧院の院長によって用いられた大きなシンバル(sil-snyan;文字通りの意味は「快い音楽」)が、東アジアから伝わり、今でもまだ、チベットに中国から輸入されている。
 続く数世紀の間に、広く「悪魔の踊り(devil dances)」と誤って呼ばれた神秘的な劇(疑いなく、踊り手によってかぶられた仮面のため)が、毎年、僧院の庭で僧たちによって演じられ始めた。これらの印象的な見せ物は、数はおよそ9人で、娯楽としてではなく、ヨーロッパ中世の神秘劇(典礼劇?)のように、ラマ教を広め、仏教以前の宗教であるボン教の「悪霊」を払い除くことを描くことで宗教的な教えを説くためであった。これらの音楽劇は三日間続き、多くの形態の声楽音楽や器楽演奏、舞踊を含んでいる。最近では、恐らく例外的な数であろうが、非常に多くの演者がチンゲ(Tin-ge)で見られた。六対の大腿骨でできたラッパの奏者、五人の香炉を振る人、二対の長いラッパの奏者、多くの頭蓋骨に酒を注ぐ人、仮面をかぶって小さな太鼓を持つ100人の人、仮面をかぶったシンバルを持つ人、仮面をかぶって大きな太鼓を持った100人の人、その後に、一般の僧たちが叫び手を鳴らしながら続く。そして、銃その他の武器で武装した一般の世俗の人々が、延々1マイルの長さの行列をなして進む。
 ここには、恐らく、古代中国の皇帝の宮廷の大きな楽団が、こだましているのであろう。中国の影響は、疑いなく、中国の劇が、モンゴルの下(14世紀後半に終わる元朝)で頂点に達した後、より活力に満ち、歴史的には、インド人のある人物によって着用された衣装に跡づけられられる。これらの劇の起源として、最も可能性の高い時代は、ラマ教を改革しようとしたツォンカパ(Tsongkapa)(黄帽派(Yellow Hat sect)の創始者)の努力によって従われた時であろう。ラマ教は、その頃までには、魔術と妖術の方向に退化していた。トルキメクンダム(Trchimekundam)、これらの劇の中で最も有名なものであり、来るべきブッダに関するものだが、これは、天賦の才ある詩人、第6世ダライ・ラマ(17世紀後半)に帰せられている。その他の話は、インドやチベット起源など様々である。
 チベットに対する、広く政治的市民生活的な中国の影響は、現代まで、断続的に続いている。音楽的に言えば、それ故に、中国との類似性は、宗教の領域よりも世俗の領域での方が、いっそう目立っている。小さな俗人の旅の一座は、雨風や炎暑を避けた庭や柳の木立の中で、舞台劇を演じ、役者たちは、かつて中国でそうであったように、すべて男性、あるいは、時に、(カム(kham)の一座のように)すべて女性であった。彼らの上演には、諸王の生涯(rnam-t'ar「伝記」)に関する歴史的活劇や、舞踏劇(achhe Ihamo)を含んでいる。これらは神秘劇より人気があるが、それにも関わらず、劇の主題、その意図は宗教的である。交互になされる対話と歌(ソロあるいは合唱)は、普通、中国の劇を思い起こさせる様式である太鼓とシンバルで伴奏されている。「二人の女性の歌(「真珠の王」のような)では、一人の男が交互にもう一人と応答するが、全く同じフレーズというわけではなく、特別に、かさつではあるが妙に刺激的な声の音調を用いている。時折、一人がドローン(持続低音)を保持し、また時折、フレーズがオーバーラップし、華麗なオープンハーモニーと突然の印象的なユニゾン(「月のライオン」でのように)とが交代する。舞踏劇は、著しい中国の影響を示しており、最も中国的な生き物、龍に基づく舞踊のように、直接借用さえしている。

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民衆(の音楽)の形態

 チベットでは、家庭の行事(祭り)は、音楽を要求し、専門の音楽家の一座がそれにしばしば答える。歓迎や幸福への祈り、また愛の歌などは、表現力に富み、活発な性格のものであり、この民族の陽気な心を十分に反映している。伴奏したり、単独で演奏したりする小さな楽団は、太鼓の他に、僧院の合奏団とは完全な対照を見せ、笛や弦楽器(フィドルやリュート)を含んでいる。典型的なものは、旋律が弦(リュート)がかき鳴らされて輪郭を描き、それぞれ独自の仕方で笛やフィドルによって精巧に仕上げられ、刺繍がほどこされている。これは、一種の多彩なユニゾン(「ヘテロフォニー」)を創り出しており、また、アラブの音楽など東方の広い地域で実際に見いだされる。チベットのリュート(pi-wan,pi-ban)は、中国のリュート(pi-p'a)や日本のリュート(biwa)のように、その名は、アラブ世界と繋がっている。チベットの4弦のフィドルは、モンゴルに現在も流布している伝説と結びつけられた馬の頭の彫刻がなされているのだけれど。恐らく、モンゴルから中国を経て伝わったものだろう。
 歌舞は、チベットの暦年の祭りを活気づけており、そこの隊商の人々の間に見いだされる。民衆の音楽は、至る所で盛んに行われている。草刈り人夫、クーリー、木材運搬人、籾殻をふるい分ける人や畑仕事をする人々は、皆、自分たちの歌を持っており、ソロ(リーダー)と合唱(コーラス)の構成が彼らの間に見いだせるのも、まれではない。制限された音域の短いフレーズの旋律は、(果てしなく形を変え)、それぞれ固有の繰り返しのパターンで、何度も何度も繰り返される。それは、最後の音に向かうのではなく、不可避的に最初の音に戻っていき、労働者たちを、長い疲労の時の広がりから解放するのに役立っている。
 宗教音楽がオーボエの七音音階(インドあるいはイランの)を好む一方で、世俗の民族音楽は、様々な旋法の五音音階(中国の型)を好む。実際に、モンゴルや中国に起源をたどることのできる古い調べもいくつかあるだろう。
 西洋のタイプのラッパ、イギリス陸軍の軍楽隊から受け継いだものだが、それも固有のラッパ(Mag-dun(dmag「軍隊」と dun「ラッパ」から来ている)と共に、チベットに見られる。チベットの音楽は、これまで東洋のほとんどの音楽が受けたほどには、西洋の音楽の影響を受けてこなかった。
 高い孤立状態で、ラマ教の導きのもと、チベットは、イスラムや近東諸国、中国や極東諸国、インド亜大陸やチベットの固有の民の伝統から、多くの要素を融合してきた。そして、そうすることで、世界に特色ある貢献をしてきた。

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