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二つの川、チグリスとユーフラテスの間の、かつて肥沃であった平原、現在、イラクにあたるところは、人類の最も古い文明の知られた故郷である。一つは、そこに長い間住んでいたセム系民族、特に北部(アッカド)のため、また一つには、もっと東からやって来て、南部(シュメール)を占領したセム系とは異なる民族、シュメール人のため、古代メソポタミア文明は、六千年前にすでにかなり発達を遂げていた。これらの民族は、宇宙を国家と解釈し、彼らの都市のそれぞれには、階段状の塔のある記念碑的な神殿が聳えていた。ここで、言葉と音楽を用いて神々を崇拝した。これらの初期の農耕民は、アニミストであり、彼らにとって、自然はすべて生けるものであった。彼らの雷神ラムマン(Ramman)は、嵐をおこし収穫を台無しにし、深淵の支配者エア(Ea)は、彼らの土地を洪水で水浸しにした。しかし、これらの神々は、人間の声と楽器を相応しく用いて崇めることでなだめることができた。リード・パイプ(halhallatu)(1)の音は、ラムマンの息にたとえられたし、くびれた太鼓(balag)には、エアの名が刻まれた。こうした考えは、恐らく、更に以前の先史時代から来ているのであろうが、まさしく、彼らの神殿での儀式の心臓部であった。
注1:この章、あるいは他の章でも必要なアクセント記号は省略されている。 もとに
BC4000年紀の間、それぞれの儀式では、だた一つの賛歌あるいは詩歌が、一つの神あるいは一つ以上の神々を讃えて歌われた。祈祷書は非常にしばしば哀歌であり、多くの言葉が残存していて、高度に形式化され密度の濃い詩の形式を示している。歌の形式は、疑いなくそれらに密接に基づいていただろう。BC21世紀あるいはそれ以前に、神殿の歌の技術は、レスポンソリウム(応唱=祭司と合唱隊が交互に歌う形式)やアンティフォナ(交唱=合唱隊と合唱隊が交互に歌う形式)を含んでいた。それぞれの詩には、それに固有の節(シュメールの sir)がついていて、こうした歌を歌うことで、特別のエトス、特定の神との交歓(コムーニオン)が得られる、あるいは、ある決まった魔力の効果を引き起こす特質を持つと考えられていた。
声すなわち合唱の曲を表すのに用いられた言葉(ersemma)は、文字通り、リード・パイプ(sem)に作曲された詩歌や賛歌という意味であり、他に用いられた楽器には、垂直の(すなわち片方の端から吹く)笛(tig,tigi);太鼓(bakag);ケトルドラム(lilis)とタンバリン(adapa)が含まれていた。歌を歌う人と楽器を演奏する人が、どれほど別れていたかは、今日言うことは難しいが、朗唱(斉唱)(kalutu)は、先詠者(シュメール語 gala、アッカド語 kalu)によって行われたのは明らかなように思われる。その先詠者は、むしろ中世ヨーロッパの聖歌助手(vicars-choral)に似ていて、神殿に付属している学寮に住んでいた。その他に、ザンメル(zammeru)と言う楽器奏者がいた。彼らは楽器に合わせて歌も歌ったようである。また、ナル(naru)と言う音楽家たちもいて、彼らは、合唱もすれば楽器の演奏もしたようである。
BC3000年紀、紀元前28世紀に始まる第一王朝から、私たちのメソポタミアの楽器の知識は、ウルの王墓(BC21世紀)の発掘やその他の資料で、増大する。打楽器に加えて、私たちはリラ(algar)や大まかに二つのタイプのハープ;共鳴室が下方にあるもの(zagsa)と上方にあるもの(zaggal)を見いだしている。前者(共鳴室が下にあるタイプ)のその起源は、兵士の弓に弦を張り付けたものであった。これらの楽器の調音法については確かな理論は全くないし、その音楽がどのような音を響かせていたのか私たちは知らない。後の時代のシュメールの賛歌の楽譜であると信じられてきているものを解読しようとこれまでなされてきた試みは、不幸なことに、私たちにほとんど何も教えてくれない。
BC1830年頃、シュメール文化の栄えた2000年以上後、メソポタミア北部(アッカド)のセム系民族が高い文化水準に達した。バビロニア人が支配者となり、三つの王朝が、およそ540年間(1830年頃-1270年頃)ずっと続いた。ただ一つの賛歌あるいは詩からなっていた神殿の儀式は、すでにそうした詩や賛歌をいくつか(5つから27)組合せ、楽器の間奏を入れた、完全な礼拝形式に取って替わられていた。用いられた詩の多くはシュメールの時代にまで遡る。それぞれの歌の形式は、特別な旋律(節)を持っており、「『汝は我を見捨てない。(Thou wilt not cast me down)』の旋律のための歌」のような書き込みは、ずっと後のユダヤの伝統の中にも、更に、初期イギリスの詩編集の中にも残っていて、営々と受け継がれているように思える。この1000年の間に、神殿は、男性に女性の歌い手を受け入れ、また全体のアンサンブルに行列の動きを取り入れるなど、宗教音楽の全体の趣向は、これまでより洗練されたように思える。
これら長い時代を通じ、神殿の音楽と並んで、人々の労働や生活を反映した音楽があったに違いない。しかし、神殿の祭司たちだけが、記録し保存したと言う事実は、私たちの情報のほとんどが、宗教の礼拝儀式と関わっていると言うことを意味している。しかし、アッシリアが支配した時代は、世俗の音楽がより優勢になっている。それは、様々な祭りで重要であった。音楽家たちは王の一族に付随していた。宮廷の音楽家たちは、高い敬意が表されていたし、音楽家たちは、宴会やその他の祭典で王族のためだけに演奏したばかりでなく、公の演奏もし、それを人々は十分に聞くことができた。また、軍隊のためにも演奏した。こうした演奏が、疑いなく、より民衆的な音楽の形式に影響を与えたであろう。
音楽生活は、カルデアの時代(626-538BC)を通じて続き、ネブカドネザル王(604-562BC)の楽団の描写は、およそ4世紀後、ダニエル書に記録されているが、それはこの時代のことであった。その有名な一節は、恐らく次のように訳されるだろう。「あなた方は、ホルン(qarna)、パイプ(masroqita)、リラ(qatros)、下に共鳴室のあるハープ(sabbeka)、上に共鳴箱のあるハープ(psantrin)、その合奏(sumfonyah)、また、すべての種類の楽器の音を聞くと、すぐに、あなた方はひれ伏し、ネブカドネザル王の立てた像を礼拝しなければならない。(角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などのもろもろの楽器の音を聞く時は、ひれ伏してネブカドネザル王の立てた金の像を拝まなければならない。(1955年改訳版))」楽器が先ず一つ一つ紹介され、それから一斉に合奏することが示唆されている。ここでは、アンサンブルの前に、一つ一つの楽器に焦点が当てられた。taqsim,すなわち、今日にまで伝わるアラビア古典音楽の前奏曲のように。
初期シュメールの時代(BC4000年紀)から、神殿は学問の中心で、そこでは神官や祭司、数学者や天文学者たちが、一緒になって働いていた。カルデアの時代、そのおよそ3000年後であるが、天文学の伝統は一層明らかになり、音楽の理論は、すでに天文学や数学と密接に関わり合っていたことを、私たちは知っている。星の運行を研究し、それが人間の運命に影響を及ぼすと信じていた人々は、宇宙全体に完全な調和が存在していると考えていた。宇宙(すなわち大宇宙=マクロコスモス)と人間(小宇宙=ミクロコスモス)は、相互に密接に関連しているので、人は、その原理に基づいて完全な調和を反映する音楽を作ることができ、そうすることで、その原理と同調(調和)することができた。数学的思弁や象徴主義は、これらの研究の中で、おぼろげながら大きく姿を現し、張られた弦の分割によってハーモニーが証明されたように、多くの宇宙との一体化へと導いた。こうして、弦の長さの分割から先ず、四つの音程が与えられた。数学の比で、次のように表されるものである。1:1(ユニゾン)、1:2(オクターブ)、2:3(五度)、3:4(四度)。これらを、彼らは四つの季節(春夏秋冬)に相関させていた。特別な数字の持つ意味も重要であった。特に4と7の意味には。--後者(7)は、古代カルデアの音階の中で、最も可能性を秘めた数であった。
私たちが、これらのことを知っているのは、様々な古典の著述家(ユダヤのフィロンやプルタルコス)からだけだが、彼らはカルデア人に言及しているので、哲学者のピタゴラスが、エジプトは言うまでもなく、メソポタミアの学問学派の長い研究の後、ハーモニクスの科学と音階の原理をギリシアにもたらしたと信ずるに足る理由がある。ギリシアで、ピタゴラスまた彼の弟子たちが、天球の調和に関する教義、そのエトス(旋法の魔術的な効力)、また数字の効力などを定型化し、それらは、後にヨーロッパに伝えられることになった。このように、私たちの音階の起源、私たちの音楽理論の多くは、その始まりがソポタミアにあるかも知れない。長い伝達の過程で、多くの変化はあっただろうけれども。
538年から、バビロニアはペルシア帝国の一部となり、セレウコス朝(BC312-62)の終わりまで続いた。この時期、より民衆的で感覚的な音楽の形式が流行になったように思える。宮殿では、アラビアの生活で盛んに行われるようになった qainatのような歌を歌う少女たちがいた。古い音楽の伝統は、その起源を持つ国の中では広く失われてしまったように思える。
しかし、知られた人類最初の文明の音楽の遺産は、非常に広大で、その形態は、これから後に述べるほとんどどの章でも語られるだろう。というのは、その中に、エジプトに伝わったものもあればインドに伝わったものもあるし、また、パレスチナ、ギリシア、イスラムにそれぞれ伝わったものもあったから。中国でさえ、それに、あるいはそれと共通の文化的源泉によって触発されたかも知れない。