ラーガの古典体系と中世

 [ターラ][カラジャ][ラーガ音楽]



ターラ

 旋律は必然的にリズムを含む。かくて、それぞれのラーガ(旋律型)は、ターラ(拍子韻律、リズムの単位)と関連する。一つのターラは、いくつか異なるラーガに用いられる。というのは、ターラの方が数が少ないから。およそ108知られているが、ほんの少しの数しか--南部では、主要な七つのターラ(それぞれ五つの型がある)--一般には使われていない。それぞれのターラには、一定数の拍(マトラ=matras)があって、他のターラと区別され分類される。これらの拍子の歩調、すなわち速さ(テンポ)は、その持続時間(ラヤ=laya)によって決められている。遅い(スロー)(ヴィランビタ=vilambita)、中くらい(マディヤ=madhya)、速い(クイック)(ドゥルタ=druta)であり、それぞれの速さは、普通先のものの二倍の速さである。もし、周期的に強調が付け加えられるなら(身体の動きの繰り返しのように)、その時は、これらの強調があるところ、また、全体のパターン(すなわち小節(bar))が繰り返されるまでに数えられたすべての拍(beat)の数に応じて、私たちはその音楽の拍子(time)を獲得する。その拍(beat)が複合的に有機的に組み合わさって、すなわち(言葉の音節と同じように)長短によって、韻律(metre)すなわちターラを生ずる。ターラは、比較的単純であるかも知れないが(共通する拍子(time)の4小節のフレーズのように)、普通、何か複雑なものであるかのように西洋人の耳には聞こえる。小節(bar)や韻律(metre)による拍(beat)の分類は、西洋古典音楽では、2か3か、すなわちかけ算による結合力を持つ傾向にあるが、一方、インドでは、2と3の足し算による結びつきになる傾向がある。このように、南インドのターラ・トリプタ・ティシュラ(tala triputa tisra)は、3+2+2である。拍(beat)の数学的な枠組み、歩調(テンポ)、拍子(time)(小節)、そして韻律(metre)は、音楽の流れの解剖学的構造を形作る。最後の要素(韻律)は、単に前方への時間の動きに過ぎなかったものの中に、明確な意味をもたらしているけれども。しかし、ターラでさえ、単なる出発と帰還との一点に過ぎない。拍(beat)が分割されると、アクセントは思いがけないところに来る。シンコペーションが起こる。また、フレーズも予期している境界を越えてしまうと、私たちはリズム--音楽の生き生きした流れ--を経験する。身体から生じた要素と言葉から生じた要素とを持っているが、リズムは、それが完全なものになるためには、感情の要素を必要とし、これがちょうど、描写された非対称な特徴の中にその表現を見いだしている。
 より長い周期のターラは、声と太鼓、ソロの楽器と太鼓とが互いに作用しあうための、より多くの領域を与えてくれる。そして、次の完全な周期の最初の一拍になることが要求されているので、それらが再び一緒になる前に、その二つの間の緊張をかなり高めることができる。周期は、しばしば16拍になることもあれば、それよりずっと長くなることもある。(例えば、ボラドシュクシ(boradoshkhushi)は56拍である。)ターラの多くは、ヴェーダのテキストや声の音楽に由来しているが、ラーガと同じように、いくつかは様々な時代の様々な地域で最もポピュラーであった音楽に始まるものである。
 ターラが周期的に繰り返されることは、より大きな演奏の形式の基盤となっている。しかし、歌は三つの主要な部分に区分される。先ず第一にアラパ(alapa)。自由だが遅いテンポの序奏で、太鼓のリズムも言葉もない。この序奏は、そのムードに至る道を感じさせ、ラーガの旋律の主な特徴を慎重に確立する。次に、その歌の主題と感情を告知するスタンザが来る。最後に、作品の主要部分が来る。この時点で太鼓が加わりターラが確立する。この部分は、中くらいのテンポ(時には速いテンポ)で、詩句と詩の連の規則に従う連続した構成の中でムードを展開する。きちんとしたリズム(韻律)のない序奏と作品主要部との比率が同じであることは稀である。南部では、アラパは短いだろう。北部では、後に続く部分より遙かに長いだろう。

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カラジャ(ドローン)

 時間と空間の中に、音の方向を与えている要素、ラーガとターラは、第三の要素によって完成される。カラジャ、すなわちドローン(持続低音)「ペダル」音(最低音の持続音)である。それは、音の中心を支え、楽曲を通して導き手の役割を演ずる。歌では、声に心地よい音高に調音される。ドローンは、民族音楽に起源を発する(一弦のエカタ(ekata)やチュンチナ(tuntina)で現れる。バッグパイプ参照)と信じられているが、タンブーラ(tambura)(フレットのない長い柄のリュート)で見いだされるように、古典音楽の四弦のドローンが、九世紀後しばらくして現れた。調弦は(弦をはじく順に左から右へ)、5度、8度、もう一度8度、基音(fundamental)である。或いは、いくつかのラーガでは、4度、8度、もう一度8度、基音である。
 これらの弦は、連続した周期で、拍子韻律の歩調とは、無関係な歩調で響かせる。音が重なり合うことで、連続した音の印象を与える。5度の(算術的)音程で、或いは4度の(調和的)音程で、オクターブの(幾何学的)音程を分割し、四つの弦は、ラーガとターラの芸術の調和の基準となる枠組みを形成する。それは、ラーガの様々な音と混ざり合う部分音(partials)の中に基盤となる豊かさを供給する。ラーガの構造の中には、微妙なハーモニーが既に内在している。これから、また高い程度の繊細さへ旋律とリズムが発展することから、更にハーモニーが加えられると、単に不必要であるばかりか、実際には、曖昧で事実上は、体系の優れた旋律ハーモニー的なバランスを破壊するように見られるかも知れない。更に、西洋の意味での音やリズムの変化(転調)(modulation)は、実際、どんな旋法とも対応していない。というのは、後者は、絶えざる変化にではなく、不動の主音の瞑想(contemplation)に基づいているから。演奏における、この音楽の効果は、完全で満足のいくものであり、最高レベルの旋律とリズムが混合した芸術の勝ち誇った姿である。

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ラーガ音楽

 三つの要素、主音、ラーガとターラは、演奏では様々に分割される。歌や様々なタイプの器楽曲では、ラーガは、声や楽器に属する。ターラは太鼓に--また、伝統的な体系であれば手拍子に属する--そして、主音の場は、タンブーラに属する。三つすべてが、旋律弦とドローン弦の両方あるヴィーナー(vina)のように結びつけられていることもある。
 これら三つの要素は、演奏家の注意を引きつける。相応しいラーガを(ターラとともに)選び、それに演奏家個人の創造力を従属させる。しかし、作曲家のイデアを表現する単なるチャンネルにすぎない西洋の音楽家より創造的であるに違いない。演奏は、演奏家自らのムードと、演奏家が一瞬一瞬親密な関係を保っている聴衆の反応によって影響される。作曲家-演奏家-聴衆の関係は、このように事実上西洋のものとは異なっている。もし、巨匠であれば、ラーガの「実現」をついには作曲の中に結晶させることができる。そして、弟子達のモデルとして役立ち、弟子達に学ばれる。その職業は、極めて世襲的なもので、こうした音楽は、演奏家の家族の人たちによって、幼い頃から聴かれる。
 伝統的なインドの音楽家は、少なくとも50のラーガを学ぶため、このように(少なくとも6年以上は)訓練され、与えられたどんな場合にも、自由に即興演奏をするに相応しい十分吟味されたムードを持ち、音楽的に豊饒な定型を蓄積している。そして、音楽家同士が会うと、たとえ初めてでも、お互いすぐに理解し合い、リハーサルなしに一緒に演奏することができる。このように、インドの音楽家達は、西洋のケルト系ブリテン(Celtic-Britain)にその伝統が最近にまで残っていたアーリア・ケルト(Aryan-Celt)のバード(bard)すなわち吟遊詩人と共通のものを多く持っている。
 曲は、何か決まった方法で始まったり終わったりしない。演奏の間、演奏時間も決めない。20分続くかも知れないし、もっとよくあることだが--一つのラーガを十分に展開し--一時間半続くかも知れない。また、演奏家は、それを彼らが創意工夫できる、あらゆる繊細さを吹き込むだろう。こうした演奏に、大きな外面的な対照や表現の激しさを探し求めたり、あるいは、それらをコンテキストから取り出して、西洋の音楽の基準で判断しようとするのは間違っている。
 反対に、それはインドの哲学的用語でしか理解されない。この思想は、本質的に瞑想的であり、芸術的また純粋に実用的性格を考慮に入れて、古典音楽大系を形成し、維持する上で決定的な役割を演じてきた。曲の前に始まり、ずっと続き、曲の後にもまだ聴かれる主音は、決して切り離された要素ではなく、常に現前する導き手である。音楽の言語において、それは時間を超越した永遠不変のすべてのものの--起源、維持、そして目標--背景を表現している。旋律型としてのラーガは、音の空間に多様性を与えている。下のテトラコードは感覚世界を反映しており、上のテトラコードは心・意識の世界を反映している。同様にターラは、音の時間に多様性を与える。そして、音の時間と音の空間のこの多様性は、西洋音楽のように、外側にではなく、常に主音の単一性の方、内側に向いている。第三の要因をめぐる二つの要因の相互作用は、一方で常に規則・法の感覚を保持しながら、事実上、音楽の表現に無限の可能性を与えている。こうして、マントラ(mantras)や聖なる定式信条文のようなラーガは、シャブダブラーフマン(shabdabraman)すなわち、音(シャブダ=shabda)として知覚された絶対者(Brahman=ブラーフマン)の様相として、またそれ故にそれへのアプローチと見なされている。

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