2. 古代エジプト

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[古・中王国(BC3000年期-2000年期半ば)][東洋の影響と新王国(BC16-11世紀)]
[国家としての性格の喪失とギリシアへの遺産]

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 歴史の揺籃期(BC4000年紀)、メソポタミアと同じように、高度な文明がエジプトにもやって来た。音楽的に言えば、多くの要因、土着のものも外国のものもともに、その形成に入り込んだ。ナイル渓谷のハム系民族(Hamitic)は、最初の頃からずっと農耕の民であり、彼らの楽器のいくつかは、実用の目的が起源であった。例えば、彼らの拍子木(clappers)(互いに叩く二本の棒)は、作物から害虫を追い払うため、古代同様今日でもよく用いられているが、これが、同じ作物の豊作を確かなものとしようとする踊りの伴奏をするようになった。また、そのリズミカルな拍子で、ブドウ園で働く者たちの仕事を和ませるようにもなった。
 紀元前4000年期、エジプトは、新しい影響をずっと受け続けていたように思える。BC2700年頃まで、メソポタミアとの接触が、恐らくあっただろう。この二つの地域には、共通する楽器が非常に多くあったから。この土着と外国の二つの流れが出会ってから、新しい文化が育ち、BC3000年紀の初めには、すでに発達を遂げ、ついにはエジプトは統一され、いわゆる古王国の下の数多くの王朝が興亡する初期の時代に入っていた。

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古・中王国(BC3000年期-2000年期半ば)

 ナイル渓谷に住んでいた人々は、偉容な神殿を建造し、その神殿で荘厳な儀式が日々執り行われていた。神官たちは、数多くの神々を讃え祈り歌を歌った。人の声は、目に見えない世界の力に触れる、最も強力な道具であると見なされていた。その声の使用に関するする知識は、秘儀を行う神官たちの話し方の中にあった。これらの儀式で用いられた多くの言葉が、今日でもまだ残存している。例えば、五日間通して続く儀式である「イシスとネフトュスの歌(Songs of Isis and Nephthys)」など。しかし、歌は口伝されたので、記譜されて私たちに伝わっている音楽はない。それでも、儀式の詩は、その音楽は、二人の巫女のデュエットとイシス女神を表す巫女のソロとが交互に歌うという形式であり、儀式の真ん中には、男の神官の先詠者によって歌われるオシリス神への賛歌があることを示している。
 歌は、しばしば楽器で伴奏された。無数の壁画やレリーフが残されていて、宗教儀式における楽器の重要性を示している。熊手の柄のようなものにU字型の枠が付いていて、その横木に円い金属の板の付いたガラガラを持った巫女がよく描かれている。私たちは、この楽器のことを、ラテン語の名称、シストルム(sistrum)として知っているが、この名称はギリシア語のセイストロン(σειστρον=振られるもの)から来ている。それを振ると、板が銀の倍音に満ちたようなジャラジャラという音を立てる。エジプト人は、sehem(力)と呼んでいた。すなわち、神聖な力の象徴であった。歌は拍子木で伴奏されることもあれば、大きなタンバリン(ser)でされることもあった。
 古代エジプトのすべての楽器の中で、一番評価されたのは、ハープ(ben,cf.メソポタミアでは ban)であった。BC26世紀、有名なギザのピラミッドの時代だが、その下方に共鳴室のあるハープは、BC25世紀に、ウルの王墓で発掘されたメソポタミアの楽器よりも、ずっと古い形である。--すなわち、その祖先、狩猟民の弓により近い。
 送風楽器には、垂直フルート(縦笛)(?seba')、その形は、今日でもコプトの sebeの中に残っているが、それにダブル・クラリネット(ma',met)が含まれていた。後者は、(植物の)茎でできた楽器で、平行に並んだ二本のリード・パイプでできていた。これはユニゾンで演奏された。奏者は、鼻から息をしていたので、音は途切れることなく鳴り続けた(今日のアラビアの zamr参照)。エジプトのファラオは、王であり神官でもあったので、当然、彼らの宮廷音楽は、神殿の伝統と結びついていた。宮廷の音楽家たちは、初期の時代から特権ある地位について、男性の音楽家が、歌い楽器を演奏し踊りを踊った。神殿儀式と同じように、ハープ(琴)、フルート(横笛)、リード・パイプが発見されている。しかし、世俗音楽では、声を伴奏するとき、より大きなアンサンブルになったように思われた。こうしたアンサンブルは、多かれ少なかれ、恐らく、声とともにユニゾンで演奏されただろう。それぞれが独自の仕方で旋律を扱いながら。もし、あり得ることだと思うが、ハープが、時折、オクターブや五度や四度の音程で演奏されたとしても、それは、私たちが知っているハーモニーのためではなくて、後の時代のアラビア音楽に時折見られる音程と比較されうる装飾的な工夫のためであっただろう。
 音楽の場面を描いた壁画やレリーフは、宗教的なものであれ世俗的なものであれ、音楽と踊りに何か荘厳な印象をなんとなく伝えている。同様の静的な印象は、初期エジプトの神殿建築の中にも見いだされている。また、ナイル渓谷の平和な確立された生活の方法も反映しているように思える。長い期間を越えて、ほとんど変化がないということは、チグリス・ユーフラテス川のメソポタミアの平原と、ある対照をなしていた。メソポタミアでは、運任せの天気の状況が、文化生活にとても異なった背景を与えていた。
 この時代も終わりになると、中央アジアからの近東全体への侵入に続いて、遊牧民(ヒクソス)がエジプトに入った。彼らは、新しい音楽と楽器をもたらし、その中に、太鼓やカスタネットが含まれていた。また、BC1890年頃から、セム系民族(恐らくヘブライ人)の一団が、エジプトにリラをもたらしたように描かれている。しかし、遊牧民の侵入の結果は、事実上、中王国(BC1989年頃からBC1570年頃)の文明の崩壊であった。

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東方の影響と新王国(BC16世紀からBC11世紀)

 この後(BC1500年頃)すぐ、好戦的なファラオの軍隊が東方へ移動し、エジプトとメソポタミアとが直接接触するという結果をもたらした。しかし、メソポタミアの文化に影響を及ぼすと言うには程遠く、エジプトの音楽が影響を受けた。踊り子の娘たちが、シリアやその他セム系の土地に住む隷属した君主たちから、送られてきて、これらの娘たちはハーレムの一部となった。というのは、時代が東方の世俗の性格を持つ全く新しい様式の音楽を生み出したから。人間の情感の広がりが、彼女たちの歌う歌の表現の中に見いだされた。その音楽は、不幸なことに、私たちには伝わっていないのだけれど、当時までエジプトで知られていた音楽より感覚的であったと信ずるいくつかの理由がある。
 後に、神殿は女性音楽家たちを採用し、彼女たちが、新王国(BC1570-BC1090)の宗教的儀礼に姿を現し始めた。恐らく、東方の様式にインスピレーションを得て、踊りは、古王国や中王国の下であったものより活発で動きの速いものであったように思える。しかし、東方の影響は、何世紀にもわたってエジプトに流れ込んできた数多くのアジアの楽器において、最も顕著である。
 これらの中で、端が結びつけられた二本の茎のあるダブル・オーボエが重要であった。右手の茎は旋律を奏で、左手の茎は絶えず低い音を響かせ伴奏をした。この音階が用いられ、その基音としての持続低音(drone)の採用は、旋法(modal system)が存在していたことを示唆しているように思える。古いエジプトの笛やダブル・クラリネットは、全く姿を消したわけではないが、それらは広く新しい楽器にとって代わられた。直管型トランペット(sneb)は、軍務の式典や行列で用いられるようになった。二つのトランペット、一つは銅のものでもう一つは銀のものが、最近、ファラオのツタンカーメン(Tut-ankh-amen)(BC1400年頃)の墓から発掘されたが、輝かしい特徴的な音のすることが分かった。
 上に共鳴室のある角張ったハープが、この頃初めてエジプトに現れ始めた。BC1250年までに、エジプトのハープは堂々たる楽器になった。高さは6フィート以上にも達し、豊かな彫刻の施された枠に、十弦あるいは十二弦が様々に張られていた。長いリュート、すなわちパンドーレ(pandore)の起源は、それほど確かではないが、この楽器は、北西アフリカ(スーダンのgunbri)にずっと進化した形で残っている。そこでは、まだ、二、三弦である。
 こうした楽器が、新王国の間中ずっとエジプトに入り続けた。そして、ヌビア人が支配をしていた間(BC1090-BC664)に、すでに、そのほとんどがエジプト固有のものとして採用されるようになった。

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国家としての性格の喪失とギリシアへの遺産

 この頃になると、近東の様々な国の文化は、それぞれの国の性格を失い始め、全地域がよりコスモポリタンな性格をとるようになった。この局面は、サイス王女の時代(Saites)(BC664)から、エジプトがギリシア人(BC332年から)及びローマ人(BC30年から)に続けて占領された時代まで、千年以上にも及んでいる。
 ギリシア支配の時代にエジプトにシンバルが持ち込まれたが、この二カ国間の音楽への影響のほとんどは、反対方向であったように思える。エジプトの音楽理論についての著作は、実際には何も残っていないけれども、その多くがギリシアのピタゴラスの音楽理論の中に入ったものと、ギリシアの著述家たちから推論できるだろう。なぜなら、前の章で、ピタゴラスのバビロニアの研究について、私たちが触れたように、ピタゴラスはエジプトの神殿で、同様の研究に従事していたと信じられているから。(BC6世紀)重要な数学者で「ギリシアの」音楽理論家のクラウディウス・プトレマイオス(Claudius Ptolemy)(fl.AD127-51)は、エジプト人であった。彼の時代は、エジプト文化の終焉と際だって対応しており、すでに、エジプト、シリアとギリシアの間には、共通したものが多くあったのだが、少なくとも、メソポタミアの人同様、エジプト人も、オクターヴ、五度、四度の音程を知っていた。私たちが使う言葉の意味でのハーモニーを知って使っていたということではないけれども。彼らのハープは、五音音階(長三度+半音型)で、リラは、異なった五音音階(短三度+全音型)で調音されていたかもしれない。一方、数字7の象徴主義や音楽の演奏に結びついた絵画その他での7への言及は、エジプト人が七音音階も知っていた可能性があることを示している。
 普通、ギリシア人も認めていることであるが、いわゆる「水圧オルガン(ヒュドラウリス=hydraulis)」は、エジプト人、アレクサンドリアのクテシビウス(fl.BC246-221)によって発明された。
 古代エジプト文化のあるものは、クレタを通してギリシアに伝わったとしても、また、コプト教会に伝わったもの(コプト教会のミサで用いられるエジプト神殿に由来する小さなベルのようなもの)も、より新しい時代のアラビアやイスラムの文明と混じり合って新しい形となったものもあることを、私たちは知っている。更に、私たちが見てきたように、あるタイプの楽器は、北アフリカの様々な地域に見られる。また、ナイル渓谷その他の民衆の音楽や踊り、特に祭りと結びついたものの中には、古代の形態を脈々と伝えてきたものが、まだあるかも知れない。

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