イ タリアでのアルス・ノヴァ

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[マドリガーレと カッチャ][バッラーダ]
[ミサとモテトゥス][器楽音楽][音楽の実践]

 フランスと同時に、明らかに十分発達したイタリアのア ルス・ノヴァが突如として現れたことを説明するのは容易ではない。音楽資料は、状況を十分説明する だけのものを提供していないことは明らかである。その世紀前半に年代付けられる写本は、ただ一つであり、それもまったく短いものである。大聖堂の若い聖職 者たちによって、宗教劇が行われる聖日に演奏されることが意図された行列聖歌の作品には、トレチェントの世俗音楽と共通のものはほとんどなく、1300年 頃に年代付けられる。そのポリフォニーは、最も単純なものであった。一音対一音の様式で、初期イタリアのマドリガーレに影響を及ぼしたかも知れないが。い ずれにしても、イタリアの記譜法は、パドヴァのマルケットゥスによる両方の方法(記譜法)の描写のおかげで、フランスの記譜法と同じくらい早く十分に発達 していたことが分かっている。フィリップ・ド・ヴィトリは、アルス・ノヴァで、ある程度革新者としての役割を演じたが、マルケットゥスは、明らかにイタリ ア記譜の伝統的な体系を描写している。実は、彼は、フランスの体系のある部分を好んでいる。例えば、6/8拍子の初めに長い音を配置することなど。一方、 イタリア人は、フランスとは異なる種類の拍子を用い、曲の途中で一度ならずテンポを変えたものだった。彼らの記譜法は、また、コロラトゥーラ様式の短い音 のつながりを示すのにとても適していた。しばしば休止があり、シンコペーションで乱されたジャーキーな(気まぐれな)ダンスのリズムのフランスの書法に反 対するかのように。しかし、それは、普通、今日私たちが言うたて線(bar-line)にあたるものを超えることはできなかったという事実から分かるよう に制限されていた。そのことから判断して、イタリア人たちは、ペトルス・デ・クルーケの記譜法を発展させたように思える。彼は、グループのそれぞれの終り に付点で短いグループを形成している一まとまりのセミブレヴィスに制限していた。必要だったのは、手順を体系化し、6/8拍子の小節には6つのセミブレ ヴィスのまとまりを、9/8拍子には、9つのセミブレヴィス、4/4拍子の小節には、8つのセミブレヴィスを持つようにすることだけだった。音価を定義す るのに、ある音の上下に尾を付けるのは、フランスからの借用だっただろう。その場合、フランスのアルス・ノヴァの影響は明らかに認められるが、根本的なも のではなかっただろう。

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マドリガー レとカッチャ

 この二つの形式が、最も初期のトレチェントの曲のなか でとりわけよく作曲された。そして、実は、カッチャは、マドリガーレ形式に基づくものと考えられている。しかし、実際には、14世紀と16世紀のマドリ ガーレの間には繋がりはまったくない。最初の方の形式は、2声のためで、比較的定まった詩的構造を持っていた。(Fenice fu by Jacopo da Bologna) これは、多くの短いスタンツァ、たいていは、2・3行のストロフィで、リトルネッロとして知られる。1・2行の結末行がついているものでできていた。リト ルネッロは、普通、二重小節線によって、またしばしばテンポの変化で、明確に曲の他の部分と区別されている。ジョバンニ・ダ・カシア(Giovanni da Cascia)のような作曲家の作品(Nascoso el visoや Nel mezo a sei paon参照)では、それぞれの行(ライン)がオープニングと結末のコロラトゥーラのパッセージを持っていて、3行あるスタンツァが大変長いこともある。 この理由から、それぞれのストロフィでは、同じ音楽で歌うことが通例になっている。ランディーニは、3声のマドリガーレでは、それぞれのスタンヅァの初め と終りにだけヴォカライズされたコロラトゥーラのパッセージをつけ、曲全体は、それぞれのスタンヅァに新しい音楽で通して作曲した曲にしている。しかし、 3声のマドリガーレは、ある意味、例外であり、2声の形式で、コンドゥクトゥスのように両方にテキストがあるのが標準である。これは、マドリガーレの一つ の声部が、14世紀には、時おり、それだけで演奏されたということであり、そうした曲は、少なくとも2つの明瞭なパートがなければ不完全であると考えられ たことを意味する。ヤコポ・ダ・ボローニャは、同じテキストの2声と3声の曲があり(Uselletto selvaggio)、それは、フランスやイタ リアのアルス・ノヴァ音楽に現れるアマチュアの作曲家や音楽理論家にしばしばなされる攻撃の一つである。彼は、2、3曲のマドリガーレやモトトゥスを世に 問うただけで、自らをフィリップ・ド・ヴィトリやマルケトゥス・ダ・パドヴァ(Marchettus da Paduas)のような偉大な作曲家だと思う、取るに足らぬ人たちで満ち満ちていると語っている。初めの曲は、典型的な2声のマドリガーレであるが、2曲 目はカノン形式の2つの上声部と独立した伴奏の下声部がある。少なくとも、これはリトルネッロの少し前までは本当である。リトルネッロでは、上の二つの声 部は、それぞれ独自のものになる。この曲は、普通、カノン風マドリガーレ(canonic madrigale)と呼ばれるが、本質的にはカッチャである。ヤコポの29のマドリガーレのうち、Quando veggioのような2声のもののいくつかは、かなり未熟のように思えるが、Non al suo amanteや Fenice fuのようなその中でも優れたものは、ジョヴァンニやピエロによるどれよりも強い印象を与える。メロディについては、確実さがある。それは短いグループの 伝統的モチーフに陥らないで、ほとんど近代的とも言える統一感がある。カッチャ形式の3声の作品は、大成功であった。例えば、Sotto l'imperioのように。しかし、これが他の3つの不協和な3声の曲にも常に当てはまるというわけではない。モテトゥスの Lux purpurato/Diligite justitiamは、発展したマドリガーレと3声のフランスのモテトゥスとの間にあるものである。それは、アイソリズム的ではないし、そのゆっくり動く テノールを単旋律聖歌から借りてもいないが、速い上声部があり、個々のテキストを持ち、終りには単純ではあるが、効果的なホケトゥスがある。

 カッチャ(例えば、ゲラルデッロの Tosto che l'alba)は、フランスのシャスのように、全体にカノン風であるが、全部で3つではなく、カノンに2つの上声部だけしかない点で、フランスの形式とは 異っている。テキストも、同様であり、絶対的なリアリズムで、エキサイティングな場面を描写しており、狩や火事、戦闘、カニ釣りまで様々なものがある。短 い詩の行が、しばしば長い行と交錯し、狩りの犬の吠え声、ベルの鳴る音、角の音、火事場での叫び声、戦いでのラッパのファンファーレなど、あらゆる音が模 倣されている。ほとんどの作曲家は、1つだけしかカッチャを書いていないが、ピエロは例外で、知られる9曲のうち、5つがカノン風の作品である。また、 ニッコロ・ダ・ペルージャは3曲書いている。

 それでも、カッチャは、マドリガーレと共通のものを多 く持っている。例えば、コロラトゥーラのパッセージとリトルネッロを保持してお り、全体を通してカノンが続いていないことが非常によくある。カノンがあると、リトルネッロに新鮮な始まりがある。それは、マドリガーレ同様に、異るタイ プの拍子である。韻文の形式は、たいてい自由で、3行のスタンツァと11シラブルの行に定められるマドリガーレの厳密さとは対照的である。それでも、音楽 は全般に同じ広がりを持つ。描写的なパッセージは、しばしば短い鋭い叫び声やファンファーレの模倣に使われるが。コロラトゥーラと明らかに対照的な一音に 一シラブルのほとんどスタッカートのパッセージがマドリガーレ様式には典型的なものであり、初期のアルス・ノヴァのフランス音楽とは異なり、三連符が、本 質的には二拍子のリズムのパッセージにしばしば起こる。

 十分発達したマドリガーレの書法の伝統が突然現れるの は、ある地方の宮廷と関係しているのかも知れない。マルケトゥスの故国、北イタ リアのパドヴァは、14世紀を通じて音楽的に重要であった。1328年、そこは、ヴェローナのスカリジェーリによって支配され、この後すぐ、1332年 に、アントニオ・ダ・テンポが、当時の叙情詩に関する重要な3つの論文の1つを書き、それをアルベルト・デッラ・スカラに捧げている。アルベルトは、諸芸 術の偉大なパトロンで、兄弟のマスティノ2世とその二つの都市を 1328年から 1337年まで支配した。もっとも古いトレチェントの写本には、この時期パドヴァで演奏された音楽が示唆されており、ある言及は、特にパドヴァ近くの丘に 住んでいるイグアネ(iguane)すなわち妖精がしばしばテキストで言及されていることから、このことは確かなものとされている。写本では、全ての曲 は、作曲者不詳であるが、後期の曲のいくつかは、他のところでジョヴァンニ・ダ・カシアとピエロのものとされている。疑いなく、これらの作曲家たちは、パ ドヴァで経歴を始め、その後パドヴァに移っている。というのは、彼らの音楽のほとんどが、ヤコポ・ダ・ボローニャのもの同様、1340年代のものであるか ら。私たちは、3人の作曲家は、すべてマスティノ2世の宮廷で互いに競いあっていたことを知っており、実際に、同じあるいはよく似たテキストの使用は、こ うした活動の証拠である。フランスの宮廷でのように、愛がしばしば主題となっており、これらの作曲家によって作曲されたある一組のマドリガーレは、アンナ という貴婦人に関するものである。彼女は、川近くの美しい庭園の、ペルラーロ(perlaro)という木のすぐそばに住んでいた。

 ジョバンニ・ダ・カシア、ヨハネス・デ・フロレンティ アとしても知られるが、彼は、私たちに16のマドリガーレ、すべて2声の作品、 それとカッチャを3曲残している。マドリガーレは、明白なハーモニーと流れるような旋律の模範である。例えば、マショーのバッラードの中にあるようなつま らぬものは何もない。そうではなく、例えば、Appress' un fiumeの上声部は、下声部より念入りに書かれており、テノールを支える非常に魅力的な叙情的コロラトゥーラを保持している。それは、1オクターヴ、5 度とユニゾンでハーモニーを奏でる。これらの歌のラインは、それらが用いられている様々なリズム、初めはゆっくりとした音符、それから十六分音符、そして 八分音符の三連符というように生き生きと作られている。一方、テキストは、スタッカートの八分音符とは明らかに対照的にしばしば発音される。カッチャでは 3声を採用しており、声部の間にはより多くの休みがある。急速に続けて声部間で交替があるときは、しばしば対照させる目的、あるいは Con brachi assaiにおいてのように興奮した感情を盛り上げるためにである。

 ヤコポは、また、ミラノのヴィスコンティ家のために働い ていた。というのは、彼の作品のうち4つはルキノ・ヴィスコンティに捧げられて いるから。1つは、1346年に年代付けられる。また、恐らく、その年代頃には、この王に多分仕えていただろう。ルキノは 1349年に死去しているが、マスティーノとアルベルトは、それぞれ 1351年と1352年に亡くなっている。また、この最初の世代の作曲家たちも、彼らと共に死去したように思える。

 その世紀後半に、舞台はフィレンツェに変わり、関心はフ ランチェスコ・ランディーニの作品に集中する。一つには、彼の伝記が十分確立さ れ定まったからだが、ほとんどは、彼の作品154曲が現存するためである。それらはすべて出版されている。1400年以降もかろうじて生き残った他の作曲 家たちは、影のような存在である。というのは、彼らのことはほんのわずかしか知られていないし、その作品もかなりのものが、最近になってやっと出版された ものばかりだから。その中に、バルトリーノ・ダ・パドゥア(ベネディクト会修道士)、ロレンツォ・マシーニ、ゲラルデッロ・ダ・フィレンツェ、大修道院長 ヴィンツェンツォ・ダ・リミニ、ドナト・ダ・カシア(もう一人のベネディクト会修道士)、そしてニッコロ・ダ・ペルージャがいる。ニッコロは、41曲のう ち21曲がバッラータであり、ある時期、恐らく、1360-5年、フィレンツェで過ごしたように思える。というのは、彼の曲のいくつかに、フランコ・サ ケッティのテキストがあるからだが、また、ミラノのヴィスコンティ家の栄誉のためにも1曲書いている。しばしば見られる民衆の曲への傾向は、彼の作品を現 代の聴き手をも満足されるものにしている。楽しい対話の Donna, posso io sperareは、そうした例であり、上声部が求婚者、下声部がかたくなな婦人となっている。しばしば、同時に歌うのは一声だけである。Ciascun faccia per seも同様に短いが、マドリガーレ様式とのつながりをより強く感じさせる。

 ランディーニは、盲目であったにもかかわらず、多くの楽 器の達人であった。そして、七科目の自由学芸、哲学、占星術を学んでいたように 思える。彼のマドリガーレは、12曲に過ぎなく、しかも、これらのうち2声のものは、明らかに最も初期のものであり、前の世代のパターンに従っている。そ の前の世代の下で、フランチェスコは学んだようだ。3つの3声のマドリガーレは、すべて完熟した作品で、それぞれ特別の技法、すなわち、3声のカノン、モ テトゥス様式の異なるテキストの同時に起こる組合せ、そしてアイソリズムで書いている。カッチャの一つ(Cosi pensoso)は、魚捕りに関するもので、個の種の他の多くの作品同様、リトルネッロまで 6/8拍子で進む。この「フランスの」リズムの3連符によって魔法のかけられたそよぎと疾風の後、リトルネッロは、恋人たちの群を思う静かな思いと、作曲 家の歓迎する2拍子のリズムで進む。

 その世紀前半は非常に人気があったのだが、そのマドリ ガーレは、後にその芳香を失ってしまう。その世紀が進むにつれ、フランス音楽の影 響が次第に強くなり、疑いなく、この影響の中心となった。最近出版されたフィレンツェの修道院の少女たちの使用のためのイタリア語で書かれた論文は、まっ たくのところフランスの記譜とリズムとの関係を示しており、引用された曲もフランス起源のものである。フランス音楽の曲目があるシャンティリ写本自体、イ タリアで、しかも、恐らくフィレンツェで書かれただろう。というのは、最初のページに書かれている15世紀半ばのメモには、有名なフィレンツェの一族の名 が所有者として記されているから。さらに、曲は、明らかに、その写本から、直接、フィレンツェの他のトレチェントの諸写本に書き写されたものだから。ゲラ ルデッロやドナートのような、あるフィレンツェの作曲家たちは、マドリガーレを書き続けていたように思えるが、それらは、1350年のすぐ後の10年か 20年の間に書かれた可能性もある。いずれにせよ、ゲラルデッロは、1364年頃に没し、その死は、フランコ・サケッティやフランチェスコ・ディ・シモー ネ・ペルッツィによって弔われた。前者(サケッティ)は、トレチェントの作曲家によって音楽が付けられた重要な詩の資料である。実際、音楽家たちが自分で 詩を書かないという場合が非常に多くあった。ペトラルカやボッカチオという名は、この時期のイタリア音楽には出て来ないが。ボッカチオの詩に作曲したロレ ンツォやニッコロのマドリガーレや、ペトラルカに作曲したヤコポ(Non al suo amante)やニッコロ、バルトリーノのマドリガーレはあるが、サケッティの詩は、少なくとも12人の作曲の基になっていることが知られている。ロレン ツォは、ゲラルデッロやドナートとペアになっていたに違いない。というのは、彼はおよそ17曲作曲しているが、そのうち10曲のマドリガーレを残している から。バルトリーノ・ダ・パドゥアも10曲のマドリガーレを書いたが、彼の曲の4分の3はバッラーダであり、明らかに 1400年後も活動していた。もし、彼がランディーニより少し若い世代の人であるなら、ニッコロ・ダ・ペルージャは、少し年長であろう。というのは、41 曲のうち16曲が2声のマドリガーレで、4曲がカッチャであるから。ヨハネス・チコーニアの位置は、最近になってようやく明らかにされた。パドヴァの貴族 たちに向けられ、時代的に 1400年頃以降のモテトゥスの作曲家として長らく知られていたが、今では、ずっと時代が遡って、1358年と 1367年の間にイタリアに旅し、リエージュで活動していたことが知られている。彼のマドリガーレは、1360年頃にカッチャのようなテキストに書かれた 曲であったに違いない。彼は、イタリアに旅した最も初期の北方人の一人であり、アヴィニョンからローマに教皇合唱隊が帰還した後、そのイタリアへの旅は、 普通のことになっている。しかし、チコーニアの場合、ルッカでの初期の成功は、その世紀終り近くに、そこで彼は司教座聖堂参事会員であったが、パドヴァの カッララ家との緊密な関係、そして最後には、1406年にパドヴァを征服したヴェニスからの委任へと繋がったに違いない。現存する彼のマドリガーレは、3 つの2声の作品と、ルッカの領主に言及する1つの3声の曲(Una panthera in Marte)とからなっている。模倣の技法の使用が目立っており、チコーニアはルネサンス音楽で最も重要なものになるこの技法を発展させた。これらの作品 のうち2つは、初期の時代を示すものであるが、拍子記号をしばしば変えている。様式は完全にはイタリア様式ではないが。

 しかし、彼のマドリガーレとバッラーダのいくつかは、イ タリアの作曲家による作品と区別することが難しい。例えば、カッチャのテキスト のある2声のマドリガーレ(Cacciando un giorno)は、長いテキストのない導入部、テキストのためのスタッカートの四分音符、短い模倣、短い旋律の一節の繰り返しなどがある。それは、きれい な旋律線で、現代の耳にも快い。より刺激的なバッラーダ Merce, merce, o monteのように。それは作曲家不詳であるが、チコーニアの他の作品に非常に似ており、いずれの場合も、小さな傑作である。チコーニアは、いくつか素晴 らしいアイソリズムのモテトゥスを書いたが、輝かしい O felix templum jubilaのような、新しいアイソリズムでないモテトゥス、それは斬新な特徴をいくつも持っているが、があり、非常に面白い。ここでは、ラッパのような テノールが、模倣の開始部を支え、第2声は、最初の声部が終るまで出て来ないようにアレンジされ、こだまのような効果を与えている。この技法は、特に、 アーメンの部分で発達した。そこでは、テノールのファンファーレの上で、短いフレーズが、最後のカデンツァまで上声部を通してこだましている。

 パオロ・ダ・フィレンツェは、また、テノリスタ (tenorista)とも呼ばれたが、彼は、すべてでおよそ33曲の作品の中、11の マドリガーレを書いている。これらは、恐らく、バッラーダより初期の作品であろう。バッラーダは、15世紀初期のフランスの影響を示す、複雑なリズムで満 ちている。彼がルッカ近くのポッツォヴェリの修道院長であったという事実が、疑いなく、ルッカ写本に、彼の曲の一つが存在することを説明している。しか し、彼は、ともに旅をして回ったアンジェロ・アッチャイウォーリ枢機卿の随員の一人であったように思える。

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バッラーダ

 パオロの後、マドリガーレはまったく見捨てられてしまい、同じものがカッチャと呼ばれるようになったかも知れない。ザカリアスは、市場の雑踏の物音を描 写したテノールの独立したテキストのある一つの曲を書いているのだが。カッチャのタイプのテキストは、15世紀を通して用いられ続けたが、カノンの技法か らは離れてしまった。この形式では、16世紀のクレマン・ジャネキン(Clement Jannequin)のプログラム(?)シャンソンを思い起こさせる。バッラーダは、マドリガーレやカッチャより小さな形式であった。かなりの長さになる こともあり、普通3声であったが。この起源は13世紀にまで遡るが、トレチェントの作曲家たちに完全に無視されたわけではないにしても、14世紀後半に目 覚しい人気を獲得しただけで、その後は、イタリアの世俗音楽の形式に過ぎない、その程度であった。本質的にポリフォニー的なマドリガーレとは異なって、 バッラーダは、本来、単一声部のものであり、その世紀後半には、最も古いトレチェントの写本では、29曲のうち、この種の曲が5曲含まれている。ゲラル デッロは、5曲のモノディのバッラーダも残しているし、ロレンツォ・マッシーニもそうであるが、マドリガーレは、こうしたことを続けさせるには、ポリフォ ニーをあまりにも一般的なものにしてしまっていた。ちょうど、フランスでは、本質的にモノディ的であるヴィルレが、先ず1パート、それからもう1パートを 獲得したように。ヴィルレとバッラーダとは、共通のものが多くある。というのは、両方とも、リフレインの音楽で始まり、また終わり、ともに、2つの同一 パートからなる中間部があり、また、この中間部の後、韻律に基づくリフレインと実際のリフレインの音楽の前に、結末のパッセージがあるからである。ヴィル レが、フランスでは、実際上見捨てられた一方、バッラーダがそれほど人気を得たのは奇妙である。2声のバッラーダは、マドリガーレのようになる傾向があ り、両方のパートにテキストがあるが、3声の形式では、フランスのバッラーダやロンドのような最上部だけにテキストのあるものより、3声のうち2声にテキ ストのある作品(Gran piant'agli ochiのような)の比率は、はるかに小さい。これは、1360年代から、フランスとイタリアの伝統が同じくらい強かったという唯一の徴である。記譜もフ ランスの影響を示している。というのは、イタリアの記譜で、便宜上小節を示す点が消滅し始める。疑いなく、リズムの複雑さ、特にシンコペーションが増大し たためであろう。拍子記号の頻繁な変更は稀になり、異なる色の音符や異なる音符の形の使用がより一般的になる。イタリアの拍子記号そのものも、フランスの 記号への好みから、最後にはなくなってしまう。しかし、フランスとイタリアの記譜が区別できなくなる前は、フランチェスコ・ランディーニのバッラーダが最 も典型的であるとされるバランスの時代があった。

 彼の155曲のうち141曲がバッラーダである。これらのうち92曲が2声部だけのものであるという事実は、ランディーニが活躍した時代が、移行の時代 であったことを示している。というのは、イタリアでさえ、その世紀の終わりまでには、2声の作品は、規模も人気も減退してしまっていたから。3声の書法が 流行になっただけでなく、フランスの影響が、極めて支配的なところでは、4声の書法も育まれていた。しかし、3声の作品が規範であり続け、2声の曲でさ え、トレチェントの終わりまで人気を保ち続けた。事実、初期の2声のマドリガーレは、オルガヌムとコンドゥクトゥスの両方の伝統の産物と考えるなら、ブレ シアのプロヴォスト(Provost of Brescia(Prepositus Brixiensis))やペトルス・ルベウス(Petrus Rubeus)のような人たちの作品に見られる独立したパートの書法が非常に少ないので、14世紀初期のパドヴァの行列(聖歌)の作品のように、単にコン ドゥクトゥスと呼ぶこともできる。ブレシアのプロヴォストは、4つのバッラードを残しており、その2つは、典型的な両方のパートにテキストのあるイタリア の2声の形式であり、2つは、上声部にだけテキストのあるフランスの3声の形式である。下声部を単純化しようとするイタリアの傾向は、I ochi d'una ancolletaでのように、結果として、流れる上声部でより大きなインパクトを与えることになる。一方、O spirito gentilのような2声の作品では、各パートは、よりともに一緒に動いている。例えば、tu m'ay percossoの言葉の部分のように繰り返される対話のモチーフの魅力に抗し難いのではあるが。

 しかし、ランディーニにおいては、フランスの影響は非常に実りある段階に達している。(Amar si li alti tuo gentil costumiでのように) 生まれながらの才能は、フランス化していないが、イタリアの形式は、フランスの特徴を、そう欲するならその言葉に取り込んでいる。つまり、6/8拍子や 9/8拍子は、決して人が期待するほど一般的ではなく、実際には、4/4拍子が最も普通である。フランス語のテキストや形式の使用は、極めて稀である。と いうのも、1曲だけが、そうしたテキストを持ち、曲の前半のバッラーダのような繰り返しのある形式の曲であるから。にもかかわらず、休止でメロディライン を破るフランスの習慣(空間の中の損失のように)は、ランディーニにおいても目立つようになっている。さらに、彼の作品は、古典的とも呼ばれる純粋な旋律 を明らかにし、その魅力を高め発揮する単純な伴奏部を持っている。テキストは、マショーのような作曲家と非常によく似ている。言い換えると、それらは宮廷 の愛に関連する。Nessun ponga sperancaにおいてのように、3声のバッラーダの3声すべてにテキストがあるのも珍しいことではない。このことはフランス音楽では、極めて例外的で はあるが。さらに、それぞれの声部が歌われたかどうかについては、かなり柔軟性があったに違いない。なぜなら、1声、2声、あるいは3声すべてにテキスト ついていながら、楽器がしばしば使用されたことがあったことを知っているから。

 ニッコロ・ダ・ペルージャは、41曲のうち21曲のバッラーダを書いており、1つのモノディを除いて、すべて2声の作品であることが目立っている。その いくつかは、比較的短く単純なものであるが、一方、他のものは、フィレンツェの例に従っている。バルトリーノ・ダ・パドゥアもまた、主に2声のバッラーダ を書いているが、彼はまた、5つの3声の例を残している。フランスの影響、切り刻まれた旋律線、シンコペーションや多様なリズムなどが、明らかに現れてい る。アンドレア・ディ・セルヴィは、1366年と 1380-9年のピストイア大聖堂の会計書に言及されているが、30のバッラードと恐らく唯一のフランスのバラードで知られている。アンドレアが、実際 に、バッラーダだけしか残さなかったとすると、パオロがこれだけ多くの3声の作品、実に、2声のバッラーダの3倍の作品を書いているのは例外的である。ヨ ハネス・チコニアの12のバッラーダには、Lisadra donnaや o rosa bellaのような傑作だけでなく、1393年に死亡したパドゥアのフランチェスコ・カッララ(Francesco Carrara of Padua)に向けて書かれた作品が含まれている。モチーフの展開という現代の方法の創始者として、これらの曲でチコニアを描くことは行き過ぎではない。 私たちは、1つの声部に異なる音高でモチーフが繰り返されるのを見出すだけでなく、旋律の一部が2つの声部間を対話するように動き、中世音楽の個々の声部 間に存在していた障壁を打ち壊している。実を言えば、ノートルダム楽派のオルガヌムも同様の関係を示しており、同時代の作曲家たちによって色 (color)という一般的用語で描かれていたが、これは広く交差するパートによって隠されていた。一方、チコニアは、モチーフの前後に休止を置くことで それを強調している。

 ザカリアス(Zacharias)とニコラウス・ザカリエ(Nicolaus Zacharie)、そしてアントニウス・ザカラ・ダ・テラモ(Antonius Zacara da Teramo)の区別をする必要がある。疑いなく、写本の中にこれらの名前にある混乱があるのだが。ザカリアスは、Benche lontan mi trovoや Gia per gran nobeltaのような単純な2声のバッラーダにおいて特に魅力的である。にもかかわらず、彼は、はるかに精巧な作曲もできた。モテトゥスの Letetur plebs/Pastorのように。それはアイソリズムのない新しい模倣形式である。中声部にトロープス「Gloria, laus et honor」のある有名なグロリアにおいて、彼は、多くのフランス的な曲にしているより独立したパートの作曲法を示しており、同時に、彼の才能あるが慎み 深い(控えめな)リズムの扱いにおいて、どのフランスの作曲家にとっても好敵手である。

 ニコラウスは、ザカリアスより少し若いように思える。彼は、一つの資料では、教皇の歌い手として描かれているが、ニコラウス自身は、マルティヌス5世に 向けたバッラーダを書いている。この2つの名は、同じ一人の人に用いられているかも知れない。いずれにせよ、これらの人物すべて、1400年頃に作曲して おり、ここでは、ザカリアスの単純な2声のバッラーダ様式が殊に意義深い。アントニウス・ザカラによる一握りの世俗曲は、位置付けがそれほど容易ではない が、これらの歌に基づいた彼のミサの各曲は、1400年以降に書かれたように思える。彼の作品の中に見られる非常に現代的な特徴の一つは、単語や短いフ レーズの頻繁な繰り返しである。今日の声楽音楽では、これらは普通のことであるが、中世においては、そうした繰り返しは一般に避けられ、その導入は斬新で あると考えられたに違いない。生き生きとしたフランスの 6/8拍子の頻繁な使用にもかかわらず、彼がイタリア起源であることは、より人間的な旋律線からも明らかである。ハーモニーも、ヤコポ・ダ・ボローニャや ジョヴァンニ・ダ・カシアのような作曲家より、音がより近代的である。アントネッロ・ダ・カゼルタも、6曲のバッラーダを書いているが、1つを除いて、す べて2声部である。しかし、カゼルタのフィリップ(Philip of Caserta)のように、彼は、今日、フランス語のテキストに作曲された3声の曲で、最もよく知られている。これらは、フランス生まれのフランス人に よって作られたものと同じくらいリズム的に複雑であり、拡張したシンコペーション、3声部すべてでの異なる拍子の結合、実際、最も極端な形でのフランス後 期アルス・ノヴァのあらゆる装飾品を示している。時には、その音符がいかに読まれるべきか音楽の下に指示を書く必要さえあった。アントニオ・ダ・キヴィタ テ(Antonio da Civitate)もまた、フランス語のテキストを好み、マショーの詩的スタイルを真似たように思える。しかし、彼のヴィルレでは、その技法は、カッチャ の技法であり、11音節の特徴的なイタリアの行が、フランスの10音節詩行に侵入する傾向がある。(小)修道院院長のバルトロメウス・デ・ボローニャ (Bartholomeus de Bologna)は、フランス風にもイタリア風にも世俗曲を書いているが、フランス語のテキストが保存されているものは1曲もない。彼のイタリア風のバッ ラーダの1つは、バンショワのロンドのように始まり、これと別のもので、彼自身のミサの2曲、グロリアとクレドとの基盤を形成している。15世紀初期のミ ラノ大聖堂の歌い手であったマッテオ・ダ・ペルージャは、その時期の他の作曲家と比較しても大きな音楽の曲集を残している。ここでも、30曲のうち22曲 がフランス風の歌であるが。

 彼は、バッラーダの Le greygnour bienでのように、 後期アルス・ノヴァの柔軟なリズムとシンコペーションの完全な巨匠であるが、多くの単純な曲は、ヴィルレの Dame souvrayneや Belle sans perのように、非常に旋律に魅力がある。カノンの Andray souletでさえ陽気で、現代人の耳にもハーモニー的に満足させる。同じことを、その2つのイタリアのバッラーダについて言うことはできない。それは、 実験的なもののように思え、低い音域で動き、ほとんど旋律に魅力はない。この作曲家の作品で著しい旋律の性格が非常に明らかなのは、グロリアの中、特に1 つのパートが別のパートを模倣しているところである。伴奏のある彼の声のデュエットは、彼の最も優れた作品であり、後期アルス・ノヴァの技法の優れたとこ ろすべてと、イタリアの旋律、技巧とを統一している。非常に多くの場合に、彼は、コントラテノールを2声の間に作曲し、このことは、マショーやチコニア、 グレノン(Grenon)の作品にも現れている。

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ミサとモテ トゥス

 非常に多くの世俗曲が保存されているのと比較して、宗教音楽は、イタリアのトレチェントの写本には、わずかのものしか保存されていな い。グラティオースス・デ・パドゥア(Gratiosusu de Padua)は、2曲のミサ曲と1つのラウダ、宗教曲のバッラーダに相当するが、だけが知られている。これらの曲は、1400年頃に年代付けられるだろ う。一方、実際のトレチェントのミサ曲は、ゲラルデッロのグロリア、バルトルスのクレド、ロレンツォのサンクトゥス、そしてゲラルデッロのアニュスが保存 されているだけである。これらの曲は、全体として、写本の中に集められているが、よく似た性格の完全なフランスの曲とともに、一連の曲としては作曲されな かったかも知れない。このことは、パオロによって書かれた曲を終える3声の Benedicamus dominoによって示唆されている。にもかかわらず、他の4曲は、すべて、私たちが Dマイナーと呼ぶものであり、いくつかの拍子記号のある2声のマドリガーレ様式でできている。パオロは、その曲(一連の曲)を、特に完成させようとその曲 を書いたというのはあり得る話であるように思える。1人の専門家は、バルトルスは、バルトリーノ・ダ・パドゥアではなく、バルトルス・デ・フロレンティ ア、他では知られていないが、歴史家のヴィッラーニ(Villani)によって、クレドを書いたと実際に報告されている作曲家であると考えている。ゲラル デッロはも、保存されていないが、クレド1曲を明らかに書いている。

 その世紀の終わりまでに、世俗音楽同様、宗教音楽でも普通になるが、フランスの影響は、ミサのテキストのない下声部にソロの歌の様式 を課するに十分強いのだが、エンガルドゥス(Engardus)やザカリアスのような人たちは、3声すべてにテキストを付け続けた。カッチャの影響は、 マッテオ・ダ・ペルージャによるグロリアで目立っている。彼の後期アルス・ノヴァの複雑さは、表現豊かで、刺激的である。彼は、また、4声の2つの作品に モテトゥス様式を借用している。バルビトンソリス(Barbitonsoris)やメディオラニ(Mediolani)のようなあまり知られていない名が 多く現れるにもかかわらず、チコニアは、15世紀初期のイタリアで、恐らく、最も重要なミサとモテトゥスの作曲家であろう。どれが彼の革新で、どれが他の 作曲家によるのかは、それほど明らかではないが、ソロのデュエットの部分と、3声のコーラスとの交替は、ギヨーム・ルグランのもののように、グロリアでも クレドでも起こっている。この実践は、イギリス起源である可能性があり、一方、コーラス部分の3声すべてで、十分なテキストの使用は、あるミサの曲でも起 こっているが、チコニア自身、あるいはエンガルドゥスやザカリアスを含む作曲家グループに由来するものであるかも知れない。確かに、しばしば模倣による パート間のテーマの依存性への偏愛があるのは、明らかであるが、この特徴も、例えば、マッテオ・ダ・ペルージャの中でも起きている。

 モテトゥスが14世紀イタリアでは、写本にわずかにさえも示されない程度しか育まれなかったことを示す十分な証拠がある。ヤコポ・ ダ・ボローニャは、一時、チコニア以前の唯一のイタリア人作曲家で、1つのモテトゥスが、彼のものとされている。(Lux purpurata radiis/ Diligite iustitiam) 彼の書いた他の曲のように、それは、ルキノ・ヴィスコンティのために書かれたものであり、それ故、1349年以前に年代付けられなければならない。アイソ リズムはなく、実際、イタリア人は、この技法には熱心ではなかったが、この種のフランスの作品のように、上声部の双方に異なるテキストが付いている。最 近、ルキヌス(Luchinus)という名を示すアクロスティク(文字なぞ)のある別のモテトゥスの1声の曲が発見されたが、それは、ヤコポのさらなる作 品であるように思える。同じ写本に、別の1声の曲が発見され、そのテキストには、偉大なヴェネチア総督アンドレア・ロンタリーニをアポストロファイズ(文 字を略して短くする)している。それ故、その作品は、1368年と1382年の間に書かれたに違いない。さらに、その作曲家は、テキストに、自らの名はフ ランキスクス(Franciscus)であると書いており、フランチェスコ・ランディーニ以外の人であるようには思えない。彼は、1379年に5曲のモテ トゥスを書いて、お金を受け取ったことが知られている。その話が本当なら、彼は、公に、1364年ヴェネチアで、キプロス王 King Peter IIによって、音楽と文学の双方で、彼の偉業の証として、月桂冠が授けられたということである。モデナ写本で発見された3つのモテトゥスのうち1つは、エ ンガルドゥスが作曲したもので、あとの2つは、作曲者不詳である。アイソリズムのモテトゥス様式は、テノールの旋律が後に繰り返されたりする複雑さや音価 を減らすことで育まれた。

 すでに述べた貴重な断片には、2声のマドリガーレ様式で、リトルネッロの代わりにアーメンが付いた洗礼者ヨハネを讃えたモテトゥスが 含まれる。チコニアは、そうした作品に関心があったように思える。なぜなら、彼は、2つの2声のモテトゥスによって代表されるから。その1つは、1363 年に年代付けられる。この作品のテノールは、ミサやモテトゥスで次第に優勢になっていく、スライド式トランペットの使用を思わせるファンファーレのような テノールの初期の例である。コントラテノールのようなもう一つのよく似たパート(声部)とともに、非常に強いハーモニーの基礎が形造られることになる。パ ドゥアの司教アルバノ・ミキエル(1406年)や聖ニコラスを讃えるチコニアのモテトゥスのように。しばしば、アイソリズムの枠組を保持しているが、チコ ニアは、イタリアの用法に十分影響を受け、上声部2つの声部(パート)に同一テキストを持つ2つのモテトゥスを書いている。それは、テーマの関係で統一さ れている。一方、テノールは、自由である。これらの要因のどれも、ギヨーム・デュファイの同化する脳から逃れていない。彼は、パドゥアの聖アントニウスの モテトゥスで、チコニアの歩みのあとに続くことになった。

 アントニオ・ダ・チヴィタテは、トレチェント後期の数少ない作曲家の一人で、アイソリズムのモテトゥス様式で作曲した。例えば、フォ ルリ(Forli)の領主ジョルジォ・オルデラッフィ(Giorgio Ordelaffi)やその妻のために作曲した曲のように。アントニウス・ロマーヌスは、2人の総督とマントヴァのジョヴァンニ・フランチェスコ・ゴンザ ガのためにモテトゥスを書いた。すべて4声の作品で、1つはアイソリズムである。バルトロメウス・ドゥ・ボローニャ、コッラード・ダ・ピストイアのような フランスの影響を受けた作曲家たちやザカリアスは、モテトゥスの威厳を与えるというより、むしろバッラーダ様式でだけでなく、ラテン語でも作曲した。しか し、この好みは、14世紀後期のバッラーダがリズミックなニュアンスや巧みな技法を表現する能力を高めていたために引き起こされたのかも知れない。なぜな ら、これらの作品は、教会分裂(シスマ)の教皇の1人のために表現豊かに書かれたものだから。それは、結局、イタリアの作曲家たちは、北方の国々の人々と 歩調を同じくすることができなかったことを示しているように思える。彼らの単なる模倣者であった。また、アイソリズムのモテトゥスは、キヨーム・デュファ イ、ダンスタブルのような人々によって、イタリアのために書かれ続けられ、イギリスは、旋律的にもハーモニー的にも斬新で自由な典礼モテトゥスを普及させ た。

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器楽音楽

 フランスが、器楽音楽の分野で何も残さず、イギリスは、鍵盤のためのモテトゥスのわずかの断片と、1・2曲のエスタンピエ (estampies)だけしか残さなかったのに対し、トレチェントのイタリアは、鍵盤音楽の大コレクションとともに、弦や送風(管)楽器の一つの楽器の ために多くの舞曲と、主として声の音楽の編曲だが、後世に残している。モノディの曲は、8つのエスタンピエ、4つのサルタレッロ、1つのトロット、そして ラメント・ディ・トリスタノ(Lamento di Tristano)とラ・マンフレディナ(La Manfredina)と呼ばれる曲である。エスタンピエは、それらは同じように構成されているが、サルタレッロやトロットより長い。サルタレッロは、あ る場合には、非常に速く演奏されたに違いない。また、ファンファーレのようなモチーフが頻繁に用いられるのは、ヴィオルのような弦楽器が使われたことを示 唆している。

 鍵盤音楽の写本は、40曲もの曲を含んでいる。正確な総数は、コレクション全体が出版されないと分からないが。これは、多くの曲に題名が付けられていな いことによる。29曲には付いているが。写本に書かれたこれらの作品の全般的見かけの特徴は、現代のピアノのスコアに対応している。下声部にかなり長い音 があり、上声部には、激しく動く16分音符がある。その写本は、恐らく、1400年代に年代付けられ、その中の作品の大部分は、ポリフォニーの歌のフラン スやイタリアの曲集(レパートリー)から取られた声の音楽の編曲であるように思える。代表される音楽家は、ギヨーム・ド・マショー、P.デ・モラン (P.des Molin)、ヤコポ・ダ・ボローニャ、バルトリーノ・ダ・パドゥア、フランチェスコ・ランディーニ、そして、アントニオ・ザカラ(Zacara)・ダ・ テラモである。これらの作曲家は、オリジナルの声の曲と比べると、普通上声部が非常に装飾されているが、決して2声より多く書かれることはない。オリジナ ルの曲にどれほど多くのパートがあるとしても。重要な発見は、写本の中に、鍵盤、恐らく、オルガンのためのミサの5つの編曲があることであった。そして、 これらは、後の15・16世紀のオルガンのミサのように、歌われた単旋律聖歌の各々の部分と明らかに交替できるように書かれていた。十分面白いことだが、 5つの曲すべて、3つのキリエと2つのグロリアだが、ヴァチカン・ミサVIIの音楽に基づいている。言い換えるなら、その単旋律聖歌の音は、普通、わずか のヴァリエーションや繰り返しがある小節に一音ずつ、テノールに作曲された。

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音楽の実践

 恐らく、フランス14世紀の音楽より、イタリアの14世紀の音楽の実践についての方が、役立つ情報は多いだろうが、それでも、それは 制限されている。吟遊詩人に支払われるお金の話は面白いが、実際の音楽のよりよい知識を得ることはできない。しかし、一つのことは明らかである。すなわ ち、送風(管)楽器は、非常に人気があった。トランペット(ラッパ)であれ、パイプであれ、ショームのような形のものであれ。また、多くの人の歌い手や、 楽器演奏者のグループは、非常に例外的になっていたことも明らかである。事実、2・3人以上に言及されるのは、稀である。1407年、ミラノの大聖堂で は、1人の歌い手マッテオ・ダ・ペルージャだけに数が減らされた。後に、私たちは、ソプラノ、テノール、コントラテノールとして3人の男を見出すのだが。 3声の曲で声の演奏であったことを示す明らかな証拠である。

 3つの文学的作品は、トレチェントのイタリアで音楽が演奏された様子を詳細に描いている。これは、ボッカチオのデカメロン、ジョヴァ ンニ・ダ・プラートのイル・パラディゾ・デッリ・アルベルティとシモーネ・ブロデンツァーニのイル・サポレットであり、それぞれ、1353年、1389年 そして 1400年頃に年代付けられる。デカメロンでは、音楽は、たいてい、一日に始まって終わるのだが、他の2つの作品では、実際にそれらに音楽の演奏について 書かれていることから一層面白い。ジョヴァンニ・ダ・プラートは、アルベルティ一族によって所有されている別荘パラディーゾにフィレンツェの知識人たちの グループを集めて議論をさせる。そこで、彼らは、哲学的な問題を議論したり、お話をしたりする。この当時の貴族たちの理想的な集まりに、フランチェスコ・ ランディーニも含まれている。彼は、セレナードで、彼の務めていた地方の専制君主を非常に魅了する音楽家の話をする。ある場合には、2人の少女が彼のバッ ラーダの一つを歌い、みんな非常に感動した。鳥たちでさえ、感動しさえずりをやめ、その後以前にも増して元気よく歌い始める。最後には、ナイチンゲールが やって来て、フランチェスコのちょうど上の枝にとまる。イル・サポレット(Il Saporetto)では、主人公は、ソッラッツォという名手で、歌を歌い、いかなる楽器も演奏した。そして、演奏された曲は、しばしば題名(タイトル) が述べられている。それらは、フランス、イタリア、ドイツ、そしてスペインの曲集から取られたもので、世俗音楽だけでなく、宗教音楽も含まれている。マド リガーレがハープのソロで演奏されるのを発見したりするのは面白い。なぜなら、このことは、確実に、楽器で演奏可能なように編曲する必要があったから。 リュートやヴィオルの伴奏に合わせて歌うことも、トレチェントの文学に言及されている。また、その同時代のイタリアの絵本には、ポータブル・オルガンや ヴィオルを持った歌い手が描かれている。

 全般に、当時イタリアで音楽がどのように演奏されたのか描写するのは容易であるが、詳細になると、それほど単純なものは何もない。2 声のマドリガーレは、声だけで演奏されたかも知れないし、楽器だけでも演奏されたかも知れない。明らかに、声と楽器とは、ほぼ交替可能であっただろう。し かし、2声のマドリガーレやミサの音楽では、声による演奏が普通であったことは明らかである。テキストのない下声部にヴィオルのような楽器を伴った3声の 作品がより好ましかったように思える。テキストのない下声部が歌われ、上声部のテキストに従っただけに過ぎなかったという可能性も常に存在するが。これ は、1つの声部に、ある写本にはテキストがあり、別の写本にはテキストがないイタリアの作品で示唆されていることである。さらに、テキストのないパート (声部)は、楽器で演奏するというのは、現在の習慣である。フランスでは、ほとんどのダンス音楽(舞曲)は、即興で演奏され、ショームやバッグパイプ、ト ランペット(ラッパ)のような送風(管)楽器アンサンブルの人気を考慮すると、3声であったに違いない。イタリア人たちは、フランス人たちより、ソロの演 奏に興味があったように思え、それ故に、彼らは、ハープやリュート、あるいは小さなオルガンのような単一の楽器を、ポリフォニーの歌の独立した演奏のため に用いる傾向があっただろう。3声の歌の最上声部の伴奏に、そうした楽器の役割を評価することは、一層難しい。それらの曲は、現存する鍵盤のための編曲の ように、非常に装飾されていたかも知れないし、単に声を2重にし、それを置き換えただけかも知れない。今後の研究で、これらの問題のいくつかに答えが出さ れるかも知れない。

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