フ ランスのアルス・ノヴァ

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[モテトゥス][バッラード、ロンドとヴィ ルレ]
[ 他のタイプの世俗音楽][典礼音楽][音 楽の実践]


 フランスは、12-13世紀にそうであったように、 14世紀でも明らかに音楽芸術の中心であった。たとえ、他の国々が独立したポリフォニーの芸術を発達させていたとしても。そして、フィリップ・ド・ヴィト リの、パリで伝えられた実践的音楽の新しい技法だけでなく、古い技法についてもの教えは、フランス以外の多くの国々の音楽に恩恵を与え、インスピレーショ ンを吹き込むのに十分実り豊かなものであった。彼が、ロンガとブレヴィスの古い記譜法とより短い音価、ブレヴィス、セミブレヴィス、ミニマなどの新しい記 譜法とを区別しようとしたことは、彼自身の言葉からも十分明らかである。しかし、彼は、また現代のもののような、セミブレヴィスとミニマの分類の中に、よ り長い音価の位置、すなわち前方に、を定義した。これは次のようなリズムを生み出した。古い、私たちには奇妙に聞こえるnote1の代わりにnote2と言うリズムを。古い音楽家たちは、1279年の 早きにこの問題に関心を抱いていたが、彼らはどちらの方法でもよいということで、それを解決した。しかし、ヴィトリのドグマ的な言説は14世紀のモテトゥ スの作曲家を指導し、このタイプの作曲に古いリズムがほとんど全くないということは、彼の影響が実践上に及んだ証拠である。しかし、世俗の歌の書法におい ては、セミブレヴィスとミニマとのあらゆるタイプの組み合わせの自由な使用は、厳密なモテトゥスの用法に鮮やかな対照を与え、疑いなく、14世紀後期の複 雑なシンコペーションへと導いた。
 音価を長くすることと短いセミブレヴィスとミニマとの使用がもたらしたもう一つの結果は、それが別々であった多くの声部を結びつけ、その結果、長い音価 は単旋律を歌う低声部に置かれ、上声部の短い音価は新しい長いテキストを持つようになったということであった。こうしたモテトゥスは、理想的にスコラ的リ ズムの図式に適合した。そして、最初、上声部は比較的自由であったが、テノール(そしてあればコントラテノール)は、やがて、一つのリズムパターンから別 のパターンへと(実際に「色」と呼ばれた)変化するカメレオンのような能力を獲得した。その用語は修辞学から取られ、繰り返しを意味した。初め、単旋律聖 歌は、単に、テノールで数回繰り返されたに過ぎなかった。しかし、後には、その繰り返しはより繊細なものになり、その結果として、例えば、もし旋律が三度 演奏されれば、リズムパターンは六度、すなわち、旋律のそれぞれの演奏に二度与えられた。この実践は、旋律をリズムパターンとを複雑に重なり合わせ、二つ 三つあるいはそれ以上に分割されたあらゆる音価のあるこのタイプ全部分の繰り返しにさえ導いた。リズム的に部分を同一視することは、やがて、曲のすべての 声部によって採り入れられた特徴となった。そして、この1900年から呼ばれているように、イソリズムは、14世紀半ばから1430年頃までの間に書かれ た曲に必ず用いられた。それは、あたかも、その技法がヴィトリの時代にすでに用いられていたかのように思える。なぜなら、イヴレア写本の古いモテトゥス は、完全にイソリズム的であり、そのテキストは聖堂騎士(Templars)の運命に関するもので、1312年頃の年代を示唆している。にもかかわらず、 その世紀の前半、イソリズムは、ホケトゥス化した部分やパッセージに他のものと共に期待されるだけである。ホケトゥスはもちろん、それ自体13世紀の形式 であって、私たちは原始的な文化の中に採用されたその技法を見出す。しかし、14世紀には、第一にイソリズム的な部分、特に速度の速い部分の終わりに用い られた。
 もし、これらすべての形式への配慮が、音楽というより数学のように思えるなら、その理由は、恐らく、中世の人にとって、音楽は、算術と緊密な関係のある 学問(科学)であるためであるだろう。そして、音楽の音響上の基盤は、数の関係に基づいていることを認めなければならない。それ故、実践的な音楽でさえ、 数学の原理によって規定されたとしても驚くべきことではない。確かに、ミニマからマクシマまでの実際の音価は、トリプルム(三拍子)であろうとデュプルム (二拍子)であろうと、フィリップの同時代人、ヨハネス・デ・ムリス(Johannes de Muris)(1290年頃-1351年頃)によって数学的に考えられた。彼は、ヴィトリの「アルス・ノヴァ」の確固たる擁護者であって、自らの著作を 「アルス・ノヴァ・ムシカエ(Ars novae musicae)」というタイトルで呼んだ。これは、実際には、一つの写本では、1319年に年代付けられている。フィリップ自身は、彼自身の原理の数学 的基盤に非常に関心があったのは明らかである。というのは、彼は著名なユダヤ人の数学者、ゲルソニデス(?)(Gersonides)(1288- 1344)に、彼の体系の様々な音価間に存在する比率と関連する問題を解くように求めていたから。
 2拍子の導入は、ヴィトリの定量音楽の再構築においては、第一に重要なことであった。14世紀以前には、3拍子が芸術音楽ではほとんど不可避であった。 しかし、ヴィトリの時代までには、人々は、もはや、2拍子は、不完全な、言い換えると完全数3の一部を欠く原理を受け入れることができなくなっていた。 ヴィトリの2拍子の全面的な受容は、彼が現代の拍子の体系、すなわち、9/8, 6/8, 3/4 と 2/4 の基礎的拍子を提案することを可能にした。しかしながら、2/4 は、決して、14世紀に人が期待するような人気を得られなかった。6/8 がとても重要で、それにすぐ続いて 3/4 が重要であった。ヴィトリの先見は、彼の拍子記号と異なる型の韻律間の区別をする赤い音符の導入によってさらに明らかにされている。というのは、これら は、最初はほとんど用いられなかったが、後に、非常な重要性を獲得したから。実際に、私たちは、まだ今日でも、ヴィトリの記号の一つ、Cという文字を使用 しているし、黒い音符は、彼の赤い音符の後継だから。すべての人が、ヴィトリの革新を無条件に受け入れたのではないことは明らかである。リエージュのヤコ ブス(Jacobus of Liege)、記念碑的音楽百科全書「スペクルム・ムシカエ(音楽全鑑)(Speculum musicae)」の著者であるが、彼は古い体系の擁護者、新しい体系の敵対者であった。教皇ヨハネス22世(Pope John XXII)でさえ、その理論に対してではなく、新しい技法の実践上の結果に反対して、勅書を発布するよう動かされた。彼は、主に、聖務日課にふさわしい神 聖さと単旋律聖歌の静かな動きが維持されるべきことに関心があったように思える。事実、新しい曲は、短い音で揺り動かされ、ホケトゥスによってかき乱さ れ、単旋律聖歌は、それが基づくリズムの扱いを認められなくなっていた。こうした実践は、公然と非難され、唯一許されたポリフォニーは、祝祭日の単旋律聖 歌にオクターヴ、5度、4度のような協和音を付加することだけであった。新しいポリフォニーのミサでさえ、そのような単純さは、音楽家によっては相応しい と考えられなかったことは言うまでもない。そして、モテトゥスにおいてさえ、ほとんど変化は観察することはできなかった。いずれにしても、その勅書は、 1324年まで発布されたが、その初期の時代だけ、アルス・ノヴァは脅威であると考えられたように思える。

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モテトゥス

 モテトゥスが、ヴィトリの新しい技法の主な目的であっ た理由は、恐らく、それが14世紀初期、唯一の重要なポリフォニー芸術の形式で あったからだろう。 教皇ヨハネスの、単旋律聖歌は俗語で書かれたテキストを歌う上声部によってしばしば不明瞭になっているという不満は、13世紀後期のモテトゥスにも十分適 用できただろうが、フィリップ・ド・ヴィトリは、主に、フランス語のテキストに固執した。しかし、これらは、典礼とはほとんど関連はなく、特別の祝祭儀式 としばしば関連している。ヴィトリは、自由な芸術作品の創造者だと呼ばれてきたが、彼のものとされている14のモテトゥスのいくつかは、信仰告白とほとん ど変わらない。(Adesto sancta Trinitas/Firmissime fidem teneamus) 一方、フォヴェール物語に見出されるもののうち、三つは互いに結びついた政治的意味を持っている。聖書のアレゴリー(寓話)がその主要なテーマを隠してい るが、その主たる対象は、明らかにフィリップ4世の第一顧問(chief counsellor)、アンゲラン・ドゥ・マリーニ(Enguerran de Marigni)である。彼は、聖堂騎士(Templars)たちの有罪判決に一部責任があった。フィリップ・ド・ヴィトリは、辛辣な言葉を用い、モテ トゥスでは、彼は特定できない人物ユーゴー(Hugo)や哀れなジャン・ド・ル・モト(Jehan de le Mote)、エノ(?)(Hainaut)出身の詩人・音楽家で、不幸なことに百年戦争の勃発した頃にパトロンのイギリスのフィリッパ女王(Queen Philippa)を訪れた人であるが、そうした敵対者たちを罵倒している。別の作品は、1342年の選挙でアヴィニョンのクレメンス6世に敬意を払い、 一方では、より個人的な感情がヴィトリの宮廷生活の放棄の中に見出せる。しかし、彼は、官吏界の多忙な生活を離れることはできず、彼の友人ペトラルカは、 疑いなくアヴィニョンで出会っただろうが、彼は、ヴィトリが 1350年にメオ(Meaux)の司教になったことを知って非常に狼狽している。
 ギヨーム・ド・マショー(1300-77)は、イソリズムのモテトゥスの発明者ではなかったかも知れない。しかし、彼は、確かに、14世紀のモテトゥス の巨匠である。彼のリズムの配置の多様性は、今日では驚異の的である。旋律は伝統的である傾向があるが、ある曲は、フォヴェールのモテトゥスの影響を示し ている。マショーの作品のほとんどは、テノールを除いて、フランス語のテキストを用いているが、三つの場合において、テノールさえ多くの13世紀後期のモ テトゥスのように、世俗の歌のテキストを用いている。これらのフランス語の作品は、全般に、アルス・ノヴァのモテトゥスの実験的な時代に属しているように 感じる。一方、4つのラテン語の作品は、平和への強い欲求を示しており、百年戦争の時代に属するに違いない。恐らく、それらは、1357年以後の出来事に も言及しているだろう。というのは、絶えず、公爵に言及しているが、それは後にチャールズ(シャルル)5世となるノルマンディ公を意味しているのかも知れ ない。彼はマショーをその年と1364年の間知っていた。ある年代の確定されうるラテン語の作品は、1324年トリエのギヨームがレンス(Rheims) 司教に選出されたために書かれたものである。そして、これは、述べたばかりの成熟したラテン語作品というより明らかに古い様式のものである。新しい年代 の、あるフォヴェールのモテトゥスに明らかに基づくテキストのあるラテン語の曲は、最上声部だけに導入のプレリュードがあるため、より近代的に見える。マ ショーは、これらいわゆるイントロイトゥス(introits)を発展させたように思える。それは、4声の作品の上の2声部のためのものであり、イソリズ ムの図式には属していない。それは、極めて効果的なオープニングを形造っており、全般にとても美しい。ヴィトリ同様、マショーは、概して、3声のモテトゥ スを好んだ(例えば、Qui es promesses de Fortune se fie/Ha, Fortune)が、彼は、4声の作品もいくつか書いている。再び13世紀に話を戻すと、彼は、一つはフランス語のテキストのある、もう一つはラテン語の テキストのある、二つのモテトゥスを書いてさえいる。ラテン語は、知識層の言語として、より真面目なより宗教的なテキストのために保存された。一方、フラ ンス語は、とりわけ宮廷恋愛詩の言語であった。主にフランスのモテトゥスを書いているマショーの例は、全般的に、後に続くものがなかったのは、恐らく、彼 もまたポリフォニーの歌の代わりに、自らこの手順を放棄したからのように思えるからだろう。イヴレア写本では、重要な人物への敬意を払う実践は、ラテン語 のモテトゥスで、ヴァロワ公フィリップ6世(Philip VI Valois)、フランスのジャン2世(John II of France)、そしてフォワ伯、ガストン・フェビュ(Gaston Phebus, the count of Foix)に対して続けられている。最後には、ラテン語のモテトゥスは、ほとんど完全なまで、特別な行事、特に国家の祭典と結びつけられるようになった。 しかし、また同様に、特に聖母マリア崇拝のために用いられ続けた。フォヴェールのモテトゥスでは非常に目立つ、また疑いなく、13世紀のコンドゥクトゥス に由来する道徳的傾向は、アルス・ノヴァが進展するにつれてそれほど明らかではなくなった。モテトゥスのように見える面白い作品が、イヴレア写本にはあ る。それぞれの声部に独立したテキストを使用することは、人を欺くようなものである。というのは、それはイソリズム的でないし、3声部が一斉に歌うことは 稀であるから。それは、quod-libet あるいは pot-pourri の極めて初期の例であるように思える。通りの人々の叫び声や民謡の一節のとても貴重な曲集をなしており、その2,3は、すでの13世紀後期のモテトゥスの テノールとして採用されていた。
 完全なイソリズムが、その世紀の中頃までに現れることは稀であるとしても、モテトゥスが、後にそれがないということは稀であった。しかし、事実は、その 世紀後半、ポリフォニーの歌が、モテトゥスがそれまで持っていた人気を獲得するようになり、それ故に、その資料は世俗のポリフォニーの歌よりははるかに少 しのモテトゥスしか含んでいない。実際、後の資料に現れる多くのモテトゥスは、その世紀前半に属するに違いない。いくつかは、第4声部を付け加えたり、よ り規則的なイソリズムを導入することで、年代が繰り下げられたけれども。十分奇妙なことだが、今や4声部のモテトゥスが標準的形式になっていたので、テ ノールとコントラテノールと両方の代わりをすることができる声部を作ろうとする試みもなされた。その原理は、結びついた二つのそれぞれの声部の一番低い音 を別のベース(バス)の声部として取ることであった。なぜなら、これら二つのパートは、絶えず交叉していたから。4つの適当な声部(あるいは、楽器、とい うのは、スライド・トランペットがその世紀の終わりには広まっていたから)を見出すことは必ずしも容易でなかったことは明らかだ。
 14世紀初期からバンショワの時代まで育まれたモテトゥスの、一般的ではないが面白いタイプのものは、いわゆる、音楽家のモテトゥス(musician motet)である。それは、ほんのおよそ5、6曲で代表されるが、それらは、すべて当時活躍していた音楽家のリストを含んでいる。最も初期の二つのモテ トゥス、疑いなく 1350年以前に年代付けられるが、ヨハネス・デ・ムリス(Johannes de Muris)、フィリップ・ド・ヴィトリ(Philippe de Vitry)、ギヨーム・ド・マショー(Guillaume de Machaut)、そしてモテトゥスの作曲に関する論文を作成したエギディウス・デ・ムリノ(Egidius de Murino)のような有名な音楽家を含む非常に多くの名を挙げている。他の人々は他で知られている人はほとんどいない。ヘンリクス・ヘレネ (Henricus Helene)は、もう一人の音楽理論家だけれど。シャンティリ写本の後の二つのモテトゥスは、二つの異なる聖歌隊、一つはイギリスのものであるが、その メンバーたちを列挙している。イギリスの作品の作曲者は、1364年から 1373年まで王立礼拝堂の一員で、エドワード3世の忠実な僕、ジョン・アラン(John Allan)であった。
 テキストにイギリスの音楽家たちのリストを載せたモテトゥスはイソリズム的であり、1358年のポワティエの戦い(1356年)のエドワード3世の祝典 のために書かれたことが十分示されている。その祝典には、フランス王とブルゴーニュ公が出席した。それは、早い3拍子の最上声部、時折リズムの交叉する遅 い中声部、そして長い音の最下声部のある輝かしい曲であるが、疑いなく、フランス音楽文化の影響の下に書かれたものだろう。
 14世紀終わりには、モテトゥスの作曲家さえも匿名の習慣をなくしている。三人の男が、1400年頃、パリ中を驚かせた。そして、私たちは、彼ら一人一 人の少なくとも一つのモテトゥスを持っている。彼らの名は、セサリス(Cesaris)、カルメン(Carmen)、そしてタピシエ (Tapissier)である。これらのモテトゥスのほとんどでは、イソリズムがまだ絶大な支配力を持っている。カルメンの三つのモテトゥスのうち最後の もの、恐らく、1430年頃に書かれたものだが、それは非常に自由なイソリズムと言うだけでなく、上声部がユニゾンのカノンで、同じテキストを採用してい る。タピシエのモテトゥスとカルメンのイソリズムのモテトゥスの一つは、教皇(教会)分裂の終わりを嘆願していることから、それは、1417年頃に年代付 けられるだろう。カルメンやタピシエは、明らかに、主として、ミサやモテトゥスの作曲家として活動していただろう。ジャン・セサリ(Jean Cesaris)は、1417年にまだ活動していたが、4声のモテトゥスと8つの世俗曲の作曲者である。私たちが、ロンド「Se par plour」のシンコペーションや変化するリズムから見て取れるように、後期アルス・ノヴァの楽派で育ったが、それでも、全く複雑でない「A l'aventure」のような繊細なロンドを生み出している。いずれの作曲も、優れた精神の産物である。というのは、セサリは、旋律とハーモニーの巨匠 であるから。彼は、伴奏のあるなしにかかわらず、声の二重唱を好んでいるが、4声のモテトゥス(A virtutis/Ergo beata)の出だしは、殊にすばらしい。しかし、15世紀初期には、モテトゥスの書法は、写本から判断すると、以前に比べて遙かに人気がなくなってい た。というのは、10の作品のうち一つ以上をモテトゥスの形式で残している作曲家はほとんどいず、多くは、モテトゥスを1曲も残していないから。10以上 の優れた曲で、イソリズムのモテトゥスの時代を要約するのは、ギヨーム・デュファイのために残された。

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バッラー ド、ロンドとヴィルレ

 14世紀のその変化した美意識、より増大した長さ、増 大した形式の巧妙さにもかかわらず、モテトゥスが伝統的な形式であった一方で、ポリフォニーの歌は、厳密に言えば、まったくの新参者であった。確かに、ア ラン・ド・ラ・アルは、13世紀後半に一組のロンドを書いたが、それらが孤立していたこととはまったく別に、これらの魅力的な作品には、多くの14世紀の ロンドと共通のものはほとんど持っていなかった。それらは、コンドゥクトゥス様式、すなわち同じテキストを歌う3声部すべてが一音対一音になっているもの で書かれた。このやり方は、イェハノ・ド・レスキュレル(Jehannot de Lescurel)の唯一のポリフォニー作品(A vous, douce debonnaire)で従われた。その曲は 1300年頃に書かれたに違いない。というのは、このヴィヨンのような(Villon-like)人物は、1303年に堕胎、強姦、その他の罪で絞首刑に されたから。レスキュレル(Lescurel)の34曲の歌は、すべてフォヴェールの写本に含まれており、バッラード、ロンドとヴィルレ、それに 「Dits grafted on to refrains」と呼ばれる二つの奇妙な作品を含んでいる。これらは、それぞれのストロフィに異なるリフレインのある長いストロフィックな詩である。そ して、作られた音楽は、リフレインのところだけで、そのいくつかはいずれの作品にも現れている。すべての曲の音楽がモノディ的であるとするならば、ポリ フォニーのロンドでさえ、中声部にモノディ的なロンドの一つの音楽を採用しているからだが、その様式は、ペトルス・デ・クルーケの仕方ではしばしばセミブ レヴィスのまとまりのあるかなり近代的なものである。さらに一層顕著なのは、14世紀のバッラータ、ロンドそしてヴィルレが、多少なりとも成熟した文芸形 式として突如として現れることである。その8行形式のロンドは、アダン・ド・ラ・アルの作品のように、13世紀にすでに存在していた。
 バッラータとヴィルレは、その時代、ロンドのように形式は定まっていず、ある場合には、ストロフィックなシャンソンとして、また別の場合には、ロンドの 別形として存在した。バッラードは、14世紀に3つのスタンツァと繰り返されるリフレインで標準化されるようになった。
 音楽的には、最も明確な形式的特徴は、曲前半部の繰り返しである。ヴィルレは、レスキュレルの作品においては名前すらなかった。そして、ギヨーム・ド・ デュファイは単に「ヴィルレすなわちバッラード化されたシャンソン(virelais or chanson balladée)」と呼んでいるに過ぎない。基本的には、ヴィルレは、中央のリフレインの前半部の繰り返しのないロンドだが、 バッラードのように3つのスタンツァを得、レ(lai)のようなより多くの韻律形式を持っている。これらすべての抒情詩の形式は、第一義的には、宮廷恋愛 と関わっているが、ロンドは地口やアナグラム(字謎)で弄られた。マショーの最も有名なロンドの一つの第一行は、アルファベットの文字に対応する数を示し ており、愛しい人の名を表している。「Dis et sept, V, XIII, XIV, et XV」(Renop=Péronne)
 音楽的には、ヴィトリがバッラード、レと単純なロンドの書き方を発見したように思えるだろう。しかし、これは伝説である。というのは、バッラード形式の 一つの奇妙な神話的作品だけを彼のものとすることができるが、これは 1337年以降に年代付けられなければならないから。同じ写本のそのモテトゥスのように、ジャン・ド・ル・モト(Jehan de le Mote)には別の非難があり、それはイギリスの国を憎んでいる。十分に奇妙なことだが、シャンティリ写本の名前不詳の作曲家は、韻律を当時のようにまで 育てあげ、この詩のテキストを適用し、複雑なリズムと記譜で後期アルス・ノヴァ様式の作曲をしている。(En Albion de fluns environnée) 残念なことに、実際にフォヴェール物語に書き込まれているがレスキュレルの様式の10余りの歌を別にすれば、私たちは、音楽の付いたバッラード、ロンドそ してヴィルレをこれ以上思い出すには、ギヨーム・ド・マショーを待たなければならない。ジャン・アカール(Jehan Acart)の La prise amoureuse の中のバッラードやジャン・ド・ル・モト(Jehan de le Mote)の Li Regret Guillaume (1339) の中のバッラードが歌われたものなのか、それとも暗誦(朗詠)されただけなのか、いずれにしても、それらは確実に14世紀の形式の形成に寄与した。特に 10音節の行と一定の韻律の図式に関して、ヴィルレとレは、ほとんどすべての行でその隣の行と長さが異なっているので、より伝統的な外観をし(見かけ上 は)音楽とより緊密な関係にある。
 ほとんどの点で、マショーを革新者と呼ぶことはできないとしても、彼はポリフォニーの歌を発展させ、当時の主要な音楽形式にしたように思える。彼が最初 に世俗のモテトゥスを発展させたという事実だけでも、彼は初めはソロの歌の可能性を見ていたのではないことを示唆しており、13世紀後半の2声のモテトゥ スであったことは当然であろう。それが、彼に30代半ばに単旋律の曲から派生したものではなく、単純な器楽のためのテノールのある初期の2声のバッラード を書かせたのであろう。彼は、やがてテノールに楽器のためのコントラテノールを付け加えた。アルス・ノヴァの時代の終わりまでに、そして実際15世紀終わ りのブルゴーニュのシャンソンの最後滅亡まで、その3声の作品が普通になった。これは、少なくとも、バッラードとロンドについては真実である。ヴィルレ は、マショーの6曲ほどの2声の作品(例えば、De tout sui si confortee や Se je souspir を除けば)レ同様にモノディ的なままであったが、その世紀の後半には、また、その世紀後半にはバッラードが遙かに人気のある形式になったが、ヴィルレが育 まれたところでは、それは普通3声のためのものであった。4声の作品は稀にだけ試みられる離れ業(tour de force)のままであった。マショーは、経験を積むにつれてそれらをより流暢に作曲するようになったが。ポリフォニーの歌の発展へのモテトゥスの影響 は、トリプルム・カントゥス・テノル、3声である初期のバッラードやロンドによって明らかにされている。やがて、声のパートの上に一つ、下に一つの楽器の パートを置くより、声のパートの下に二つのおおよそ同じスペースで低音部を付ける方が遙かに都合がよいことが発見された。もちろん、時に、マショーはモテ トゥス(Sans cuer/Amis, dolans/Dame, par vous)のようなすべての声部に異なるテキストを持つユニゾンのカノンのような一つの場合のように、すべてが声のパートの時もあるが、こうしたことは稀 であった。4声の作品でさえ、普通声のパートは一つしかない。ある有名な曲では、マショーはモテトゥス様式で異なるテキストを歌う二つの上声部があるけれ ども(Quant Theseus/Ne quier reoir) その理由は、恐らく、彼に友人によって最初のテキストが送られ、その友人に彼が同じリフレインと韻律で第二のテキストを書いて敬意を表したということだろ う。彼はまた、優れた4声の音楽曲を作曲したが、慎み深くオリジナルのテキストを書いてくれたことで友人を信頼していた。
 文章でこれらの作品の印象を伝えることは難しい。それらは、妙技で震えるモテトゥスで代表される彩り豊かな音の輝かしいフレスコ画に比較すれば、より個 人的なものではあるが、これは広くソロの声によるものであり、なにかの主観的な要素によるものではない。事実、長く音を延ばすことやシンコペーション、切 り刻まれたリズム、また長い音の突然の強調などは、現代の耳には非常に奇妙に聞こえる。にもかかわらず、それには旋律のファンタジーと表現力とによって魅 了される。調性の体系は、私たちのものではないが、教会の聖歌のものでもない。まだ、異質な(外来の)フラットとシャープではあるが、一般の印象は、閉じ た調(close key)への移調のある長調か短調のものである。ヴィルレは、遙かに私たちの世界に近い。単に、それらが普通、各音節に1つか2つの音しかなく、リズムの 純正さのために旋律を犠牲にしていないがために。ポリフォニーの曲は、私たちが吟遊詩人のヴィオル、また恐らく13世紀の歌の即興伴奏を連想する単純なテ ノールを持っている。
 ヴィトリのようにマショーは、王宮の贅沢な華麗な世界に慣れていて、ルクセンブルク公のジャンやベリー公のジャン、ナヴァルのシャルル、フランスのシャ ルル5世のような王や王女たちから恩顧を得ている人であったので、彼は恐れず、寓話的な恋愛の歌 Le Remède de Fortune の中に抒情的な詩や音楽の主なタイプの彼の手本(模範)を出版することができた。これには、バッラード、ロンド、ヴィルレ、レ、コンプレント (complaint (Tels rit au main))やシャンソン・ロワイヤル(chanson royal)の例が含まれている。後に、Voir Dit, ペロンヌと呼ばれる若い娘へのマショーの愛を韻文や散文、音楽で書いた真実の物語だが、その中では、彼は自らバッラードとロンドだけに限定している。それ ほど学者ぶってはいないけれども、彼は、ここでは教育的である。彼は、私たちに、バッラード、プルレ(Plourés)、ダーム (dames)は難しくなく、彼はそれにとても満足していること、また、Nes qu'on porroit は、様式はドイツ式で、テンポは速く、オルガンやバッグパイプなどの楽器の演奏に極めて適していると語る。私たちの最初の印象とは反対に、彼は、音楽は個 人的に感じられるべきだと信じていて、彼のすべての音楽は深く感じられると語っている。他のところでは、彼には、それは音楽以前の書かれたテキストであっ ただけでなく、テノールやコントラテノールはオリジナルの声の声部の後に、長く書かれるのではないかという疑念を確かにもっていた。
 その世紀の後半、ポリフォニーの歌の書法の分野で、マショーに匹敵する偉大な名は一つもないが、多くのそれほど多作ではない作曲家たちがバッラードを書 き、それらは、しばしばリズムの複雑さにおいて夢想だにしなかった高みにまで達した。ロンドは、時にイソリズム的であり、そのために曲の後半はリズム的に 前半の正確な繰り返しであった。ヴィルレは、全般に、より単純なパターンに従い、鳥の鳴き声(例えば、Or sus, vous dormés trop)や戦場の物音のような形での絵画主義的なものとなった。ポリフォニーの歌の人気は、モテトゥスのような敬意を表す曲のような使用をもたらした。 そして、実際、それが時々フランス語のテキストではなくラテン語を採用したのは驚くべきことではない。F.アンドリュー(F.Andrieu)、恐らくそ の巨匠自身の作品に基づくバッラードで、マショーに敬意を表したマギステル・フランキスクス(Magister Franciscus)だろうが、彼は、実際にユスタシュ・デシャン(Eustache Deschamps)(1345-1406)によるテキストでマショーの死に際し哀歌を書いている。2声のデュエット、低音部は楽器の伴奏であるが、それ はマショー自身のバッラードの多くより素直なように思える。旋律はより流れるようであり、テノールは単純で、「la mort Machaut」という言葉のコードは静かで感動的である。
 シンコペーションと記譜の複雑さへの崇拝は、アラゴンのフアン(john)1世の宮廷のヤコブ・デ・セントルヒ(Jacob de Sentluch)やロデリクス(Rodericus)といった音楽家たちの作曲の中で頂点に達する。ヴェラン(Vaillant)、ソラージュ (Solage)(彼の En l'amoureux vergier を見よ)やグリマス(Grimace)は、より直接的にマショーの道に従い、一方、スゾワ(Suzoy)、ガリオ(Galiot)、ギド(Guido)、 キュブリエ(Cuvelier)は、ヤコブ・デ・セントルヒ(Jacob de Sentluch)と同じカテゴリーに分類される。ヤコブ・デ・セントルヒ、あるいはバルセロナの宮廷で呼ばれていたようにヤコミ(Jacomi)、ある いは彼の音楽の最も重要な写本に書かれているようにヤコブ・デ・センレヘス(Jacob de Senleches)は、わずか6曲しか残していない。すべてすばらしい作品で、音楽的には極めて多様である。3声のヴィルレ En ce gracieux tamps joli は、二つの上声部の間でカッコーの鳴き声が交替する春の歌である。ハーモニーのテクスチュアは明白であるが、カントゥスはシンコペーションが多用されてい る。しかし、この曲では、それらは十分コントロールされ、下降する旋律線に表現を与えるのに役立っている。バッラード En attendant esperance は、真の傑作である。というのは、多くのシンコペーションと多様なリズムが激しい情熱の展開される声の線を結果としてもたらし、下の楽器のパートの完全に 異なるリズムによって高められているから。
 ヨハネス・ガリオ(Johannes Galiot)の生涯については何も知られていない。彼は14世紀後半に活躍している。彼の様式は、マテウス・デ・サンクト・ヨハネ(Matheus de Sancto Johanne)の様式に近い。彼は、三つの曲、二つのバッラードとイソリズム的なロンドだけしか残していないけれども。彼もまた、技法的に熟達している だけでなく、感動的な音楽を生み出そうとシンコペーションやクロス・リズムに専念していたことを認めなければならない。ギド(Guido)は、もう一人の フランス楽派の14世紀後期の作曲家であるが、彼の三つの歌のテキストでは彼の音楽の進行を議論している。Dieux gart は、シンコペーションの多く見られる3声のロンドで、彼は「神をこれを歌うことのできる人を救う」と語っている。シンコペーションは、少なくともより長い 旋律のフレーズへと導き、加えてこの曲にはとても陽気に飛び跳ねる生き生きとした旋律がある。それほどシンコペーションのないバッラード Or voit tout en aventure は、同様の魅力的な旋律を持っている。
 キプロスの作曲家たちは、しばしばテキストの手本としてマショーを用いたが、彼らの音楽はバルセロナの宮廷の音楽に極めてよく似ている。ボド・コルディ エ(Baude Cordier)は、自らをレンス(Rheims)からローマまで有名であると言っているが、後期アルス・ノヴァの最も複雑な様式で作曲しただけでなく、 疑いなく、ロンドの新しい単純な様式への道を開いた。それは、完全にデュファイの時代の曲集にあったバッラードにとって代わった。セサリ (Cesaris)同様、コルディエは、第一には旋律の作曲家である。単純な伴奏のある Je suy celuy や Tant ay de plaisir のようなロンドや、特に円熟した Belle, bonne, sage、これは詩人の恋人への新年の贈り物のとして捧げられたとても優しいものであるが、それらから見て取れるように。リズム的に複雑なロンド、 Amans, amés や14世紀後半の典型的なグロリアが、同時代の曲の中で目立っているのは、この旋律のためである。しかし、後期アルス・ノヴァの作曲が表面上誇張され過度 に難解であるように思えるとしても、演奏してみれば、それらが極めて美しく深く満足のいくものであることがわかるだろう。

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他のタイプ の世俗音楽

  十分発達した形のカノンが、原始的な人々にも用いられていることから、中世後期の音楽にそれが用いられているとしても驚くべきことではない。14世紀フラ ンスでは、それは、シャス(chace)という形態、写実的なヴィルレ(virelais)と思い起こすテキストを持った3声のユニゾンのカノンという形 を取っていた。完全な作品は4曲しか存在しないが、これらはすべて完熟しており、特にその一つは、犬や獲物の吠え声や鳴き声といった詳細まで狩の 様子を描いたものである。(Se je chant main que ne suel) ギヨーム・ド・マショーは、シャスの技法を一つのバッラードと二つのレ(lais)に用いている。テキストは、いつものように宮廷愛に関するものである が。1声部だけがシャスとして演奏されるべきだと示す写本はほとんどないが、どの場合でも、1声部以上書くことは貴重な羊皮紙の無駄使いになっただろう。
  レ(lais)は、14世紀のずっと以前から叙情詩の形で発達していた。そして、フォヴェール物語(Roman de Fauvel)の4つの素晴らしい作品がなければ、ずっと前に見捨てられてしまっていただろう。これらの曲が新しいか古いかはともかく、それらは器楽のも ので、マショー自身の19のレ(lais)の作曲にインスピレーションを与えたことだろう。現代の読者や聞き手には、それらは極端に長いように思われる。 というのも、24ものスタンツアのテキストでできているから。また、音楽は伴奏のない1声のためだけのものである。それでも、音楽はバッラードより現代人 の耳には受け入れやすい。まず第一にメロディックであり、リズムは正確にテキストに従っているから。これらの曲の極端な長さは、多様性が必要とされている ということであり、マショーは、しばしば声部を異なるオクターブに動かすことでそれを満たしている。実際に、彼は、今日私たちが一つの調から別の調に移調 するというようなことをし、これが一つの革新であったように思える。速度さえ必要なら変えられる。そして、詩では、あらゆる可能なタイプの行を一つのスタ ンツアの中から用いることができた。短い行が好まれはしたが。

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典礼音楽

  ミサのための音楽は、ほとんどの古典期の偉大な作曲家によって書かれているが、中世では、よく知られたキリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、そしてア ニュス・ディのテキストのポリフォニーの書法は、14世紀まで確立されてはいなかった。マショー自身は、1曲の完全なミサ曲を書いたが、これはトゥルネの 写本(Tournei manuscript)に保存されているミサより後のものであるかも知れない。トゥルネのミサは、後のトゥールーズ(Toulouse)やバルセロナのミ サのように別々の曲を組み合わせたミサのように思えるが、マショーのミサは、完全に統一されたものであるという名誉を得ている。全体として、一つの音楽手 法で統一されていないことは認めるとしても。マショーは、トゥルネのミサを知っていた可能性がある。というのは、グロリアとクレドがトゥルネのミサに非常 に似ているだけでなく、キリエ、サンクトゥス、アニュス・ディがいずれのミサでも1単位をなしており、いずれのミサも締めくくりとして Ite missa estがあることから。トゥルネのミサのテクスチャーは、非常に率直で、14世紀のミサ作曲家たちに道を指し示したに違いなく、一方、マショーのミサは、 アイソリズムのモテトゥスやその他複雑で精巧なリズムの3声というより4声のはるかに複雑な作品であった。Ite missa estも、トゥールーズのミサに現れるが、その曲部分もすぐにポリフォニー的に作曲されるようになった。トゥルネの Iteの一つの声部に世俗のテキストが存在するのは、教皇ヨハネスXXII世の批判が当を得たものであり、これらのテキストが実際に教会で演奏されたこと の明らかな証拠である。一音対一音のコンドゥクトゥス様式が、初期のミサの曲では優勢であったが、やがて単純な3声の歌の様式が支配的になった。二重のリ ズムや単純な伴奏パートは、疑いなく、演奏で言葉を明確にするのに役立っただろう。14世紀には、完全なミサは例外で、一つの曲、あるいはグロリアとクレ ド、サンクトゥスとアニュスといったペアの二曲が書かれていた。キリエはまれにしか作曲されなかった。世俗の分野でのように、私たちは、様々な作曲家たち の曲集に出会うが、その世紀の後半には作品は非常に少なくなり、それらはほとんどアヴィニョンの教皇庁と結びついている。それらの作品は、デパンシス (Depansis)、シプル(Chipre)、オルレ(Orles)、セール(Sert)、ロワ(Loys)、ペリネ(Perrinet)、スゾワ (Suzoy)、テルハンディエ(Tailhandier)、そして 1400年頃には、タピシエ(Tapissier)、コルディエ(Cordier)、ボスケ(Bosquet)、ジレ(Gilet)、ヴェリュ (Velut)、またカメラコ(Cameraco)の作品を含んでいる。
 ヴェリュ(Velut)は、15世紀初期に活躍したフランスの作曲 家で、当時なされていたほとんどの作曲形式の曲を残している。彼の3つのバッ ラードは、リズム的に複雑で魅力的である。Jusqu'au jour d'uyは、多様なクロスリズムとシンコペーションを駆使しているし、また当時一般的であったテンポと比較して非常に快い 3/4拍子のセクエンツィア(sequence)もいくつかある。ロンドの Je voel sevirは、より現代的で、例えば、コルディエ(Cordier)の単純な様式を思い起こさせる。グロリアとクレドは、コルディエとタピシエ (Tapissier)の様式に従い、一方、二つのモテトゥスは、それぞれ保守的な傾向と近代的な傾向とを示している。アイソリズムではない3拍子の Summe summy/Summa summyは、チコニアの O felix templum jubilaのような、こだまを模した導入部があり、同様に効果的である。1411年にヴェリュがキプロスに行っていたという最近の発見は、キプロス宮廷 の音楽のレパートリーの真の姿を知る上で、非常に重要であるだろう。
 様式は、デュファイの初期の作品以前とほとんど変わっていない。ギヨーム・レグラン (Guillaume Legrant)が、ハーモニー的に考えられたグロリアとクレドの中で、ソロによるデュエットと3声のコーラスとの相互交替可能な様式を導入してはいた が。ボスケ(Bosque)とカメラコ(Cameraco)のように、彼も、教会分裂の終結後すぐに、教皇聖歌隊(Papal Choir)のメンバーとして跡をたどることができる。一音節に一音書くという傾向は、この世代の作曲家たちには、非常に明らかであり、聖なるテキストの 明瞭な発音を絶えず追求したことに由来する。アプト写本(Apt codex)の中で初めて明らかにされたポリフォニーの賛歌の書法は、ミサの作曲よりはるかに素直である。最上声部の単旋律聖歌をパラフレーズするのは、 後の技法の実践であった一方、これらの作品は、単純なテノールとコントラテノールの声部によって伴奏された一様な音価の歌以上のものではほとんどない。
 マショーのホケトゥス、ダヴィデ(Hoquetus David)は、1300年までは、時代遅れの形式の孤立した例である。それはなんらかの祝典のために書かれたと仮定できるだけであり、確かに巨匠らしい 書法の曲である。それが教会での演奏のために意図されたのかどうかは定かではないが、いずれにしろ、アレルヤ・ナティヴィタス(Alleluia Nativitas)の単旋律聖歌ダヴィデに基づいている。ペロティヌスの3声のオルガヌム Alleluia Nativitasへの輝かしい終章として書かれたという示唆がなされるのも、決して不合理ではない。このことは、テキストがないけれども声で演奏された のではないかということも示唆している。送風(管)楽器だけが用いられるのが通例ではあるが。

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音楽の実践

 中世後期の音楽の演奏は、今日では、非常に閉ざされた 書物である。現代の資料は、実際、それについて詳細にまで決して触れてくれな い。写本には、どんな楽器が用いられるべきか、あるいはどの声部で歌われるべきかさえ決して語ってくれない。実際に用いられた楽器のあまりの多様性は、こ れらはしばしば互いに交替して用いられたことを示している。私たちは、写本や彫刻、象牙などに非常によく描かれている音楽家のグループから判断しなければ ならない。普通、歌い手だけが写本を持っているが、楽器奏者は、自分のパートを暗記していたことはおおいにありえる。女性たちは、演奏家としては、小さな 役割しか果たしていなかったように思える。そして、たとえ歌ったとしても、世俗の歌であっただろう。少年たちは、教会の音楽や、疑いなくモテトゥスで上声 部を歌っただろう。一方、下声部は、しばしば楽器で演奏されたように思える。下のパートにテキストがないということが、この解釈を私たちに強いる。モテ トゥスのテキストのないパートを、それに用いられた単旋律聖歌のテキストを知っていて、声で歌った可能性もあるのだが。楽器の豊富さには少し困惑させられ るが、非常に人気のあった楽器もあれば、非常に大きなアンサンブルでなければ用いられなかったものもあるだろう。いずれにせよ、6人以上の演奏家を雇った り、得ることのできた王侯はほとんどなく、最良の音楽家は、絶えず求められ、彼らの属する宮廷をしばしば不在にした。各種の楽器のなかで一つが好まれ、ど れであろうと、一つの家族に属する楽器で大アンサンブルを採用することには問題はなかった。家族のグループに最も身近なものは、ショームあるいはバッグパ イプとボンバード(大きなオーボエ)、それとスライド・トランペットからなる民衆的な舞踊トリオであった。他に人気のあった楽器は、数弦だけの小さなハー プ、ポータブル・オルガン、それにヴィオルであった。ナチュラル・トランペット(普通のラッパ?)は、その戦いの時のような音で貴族たちに人気があった。 また、それらを多く所有することができるほど高い評価が得られた。これらは、芸術音楽では、あまり用いられないとしても、すでに述べた楽器同様、コルネッ トやリコーダー、フルート、シターン(citole)、クルース(rote)、プサルテリウム、ギターにはつ弦鍵盤楽器のような優れた楽器が他に多くあっ た。これらの楽器の多くは、高音域の楽器で、それで、それらが演奏されるときには、声を二重にしたに違いない。ヴィオルだけは、低音部に理想的に適合して いた。ボンバードとスライド・トランペットも演奏することはできたが。さらに言うと、これらはその世紀末には比較的新しい楽器であった。
 王侯の宮廷で演奏された世俗曲は、普通、食事後演奏され歌われた。テーブルはダンスのために片付けられ、多くの場合、明らかに誰かが伴奏なしで歌ったこ とだろう。殿方に続いて御婦人たちが歌い、その後楽器のグループが続いた。仲間うちでは詩を作る能力はエレガントなたしなみと見なされた。音楽は、当時ス トックされていた曲であったかもしれないが。こうした状況の下では、ポリフォニーの歌は、ダンスとは結び付かず、リサイタルに適した純粋な芸術音楽であっ たように思える。14世紀後半の多くの歌の巨匠的性格は、王侯たちのスペクタクルへの関心と、最良の演奏家を抱えているという誇りとで説明される。例え ば、こうしたことから、弦のある新しい鍵盤楽器に適用され、世俗の歌の編曲だけでなく、独立したエスタンピエ(estampies)を演奏することができ た。エスタンピエは、ポピュラーなキャロル(carole)と言われるダンスに適したダンス曲で、メロディックであったり、ポリフォニックであったりした だろう。全般に、即興で作られ、この事実が写本資料にまれにしか残されていない理由である。多くの打楽器がダンス音楽に用いられたが、それらは、恐らく、 吟遊詩人たちのギャラリーのいる王侯の広間の洗練された雰囲気の中でより、野外での一つのヴィオルやバッグパイプの音楽の方により多く用いられただろう。 これがどのようなものであれ、音楽は14世紀の非常に高い文化レベルの高貴なパトロンたちによって育まれ、この発展の鍵となる人物が、フィリップ・ド・ ヴィトリとギヨーム・ド・マショーであった。二人は、それぞれ、同時代の人々から「音楽家の華と宝石(flower and jewel of musicians)」「ハーモニーの地上の神(earthly god of harmony)」と呼ばれた。

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