歴史的文化的背景
13・14世紀の音楽に私たちが付けている名称、すなわちアルス・アンティクワとアルス・ノヴァを変えるには今ではもう遅すぎるが、事実、それは私たちが願望するほど正確ではないとしても便利なものである。結局のところ、ラテン語が中世では共通して用いられ、中世の二つの主要な様式を古い物と新しい物とに対照させることは容易である。しかし、もちろん、それより重要なことが多くあった。実際、14世紀までに、変化は形式においても様式においても明らかになってきており、有名な理論家であり作曲家でもあったフィリップ・ドゥ・ヴィトリ(Philippe de Vitry)(1291-1361)が古い芸術と新しい芸術の規則を短いが貴重な論文に編集できたと言うことである。その論文は、学生たちによって書き留めらた講義のノートという形でだけ保存されている。この著作の中でのヴィトリの教えの明確な区別は、ある一つの写本の中で採用されたタイトル「モテトゥスを定量する二つの方法(Both methods of measuring motets)」で特に明らかである。「アルス・ノヴァ(Ars Nova)」は、第一にはモテトゥスを記譜する新しい方法であり、それはヴィトリ自身による作曲において実践の方法で例証されている。ヴィトリ自身のアルス・ノヴァの定義という限定されたものの妥当性については、私たちには明らかであるということは重要である。というのは、今日では、14世紀すべての音楽は、明らかに古風な性格のものを除いて、アルス・ノヴァの音楽であると呼ばれ、それにはそれ相応の理由があり、それに先立つ世紀の音楽とは全く異なっているから。しかし、妥当であるだけでなく、逆説的であるのが、アルス・ノヴァやゴシック、バロックなどのような様式の名称の運命である。例えば、14世紀のポリフォニーの歌は、ほとんどヴィトリの論文には述べられておらず、一方、複雑な14世紀後期の作曲は、形式と記譜の正確さというより初期的な伝統を守っているアルス・ノヴァの作品に過ぎない。
問題は、どこまでイタリアやイギリスの音楽がアルス・ノヴァと考えられうるかというところに生ずるであろうし、しばしば生じてきた。答えは、恐らく、専門家たちが私たちを信じさせているより簡単であろう。明らかに、フィリップ・ドゥ・ヴィトリの「アルス・ノヴァ」は、音楽史の特定の時点、歴史的に実際には、1320年頃に育まれたフランス音楽だけに妥当な論文であった。にもかかわらず、その明確な記譜の原理と当時のモテトゥスへの適用は、その世紀を通じてフランス音楽に決定的な影響を及ぼした。イギリス音楽がその原理に従い、フランスの音楽形式を採用した限りにおいて、アルス・ノヴァと記述することができるが、イタリアのトレチェント音楽は、より独立した形で始まった。アルル・ノヴァという言葉は、14世紀のイタリアの著述家によっては、当時用いられなかった。しかし、1320年代からずっと、フィレンツェや北イタリアで育まれたポリフォニーの歌は、彼らが使用した記譜法のように十分新しいものであった。十分奇妙な事だが、フランスの音楽もイタリアの音楽も、ヴィトリの先行者ペトルス・デ・クルーケ(Petrus de Cruce)の時代の流れに沿って、この時期に記譜法を発達させたように思える。いくらかの点では、イタリアの記譜法はフランスのものより発達していたが、その限定と地方だけでしか重要でなかったことから衰退した。主として、その原因は、音符の形(note-form)が音価を絶対的に明らかにする、まさにその目的のために増やされた時代に、セミブレヴィスだけで感じられた正確さの欠如にあった。(セミブレヴィスだけでは音価を正確に表すことができなかった)確かに、同じ困難が、1300年頃にはフランスでもイタリアでも感じられたに違いない。というのは、音価の速度が遅くなったことから、以前はすべて最も小さな音価であったセミブレヴィスで表される3つの異なるリズムの間の区別が必要となったから。これは、マイヨール、ミノール、ミニマムのセミブレヴィスと呼ばれ、最後には、新しい音符、上にあがる尾のついたセミブレヴィス、ミニマとして現れた最も小さな型のセミブレヴィスとなった。この音の形は、最初は、純粋に理論的重要性を持っていたに違いない。というのは、それは、パリのナヴァル大学(the College of Navarre)で発明され、フィリップ・ドゥ・ヴィトリによって認められ採用されたから。しかし、にもかかわらず、もし、私たちがヴィトリの「アルス・ノヴァ」が 1316年頃に完成されたことを認めるなら、パドヴァのマルケトゥス(Marchettus of Padua)が彼の論文「ポメリウム(ローマの聖域?)(Pomerium)」を出版したのは、ほんのおよそ2年後であった。それは、最も小さな音価としてミニマの音形があり、フランスのイタリアのリズムを十分比較した完全なイタリア記譜法を描いている。実際、イタリアの体系がフランスのアルス・ノヴァと同等のものであったことは決して疑い得ず、私たちにとっては、恐らくそれ以上のものであった。というのは、私たちは、フランスのものが、理論においてはペトルス・デ・クルーケを経由してケルンのフランコに、実践上ではフォヴェール物語やモンペリエ写本のモテトゥスを通して跡づけられるようには、イタリアのアルス・アンティクアを跡づけることができないから。この点では、1300年頃に年代付けられるパドヴァの劇形式の聖務日課(dramatic offices)のためのいくつかの2声のポリフォニー曲の最近の発見は極めて貴重である。というのは、私たちは、これまでm、アルケトゥス以前の独立したイタリアポリフォニーの知識は、同じ頃に書かれた唯一の2声のセクエンツィアに依存していたから。
14世紀前半、スペインはラス・フエルガス写本(Las Huelgas codex)から判断して、明らかに13世紀のフランス音楽に固執していたが、特に、その世紀後半には、アヴィニョンとモンペリエを経由したルートから、北フランスの吟遊詩人の歌曲の楽派から大量に、新しい音楽と詩をもたらした。ドイツでは、フランスのアルス・ノヴァの影響は、その国ではポリフォニーが大きく遅れた状態にあったことから限られていた。そして、主として、ずっと初期のフランスの作品の多くのオリジナル音楽にドイツ語への翻訳は制限された。イタリアでの後のアルス・ノヴァは、南ドイツを経由してポーランドへの道を作った。主として、ミサの一部(movemnts)の形で。この時までには、私たちは、すでに十分15世紀に入っているのだけれど。これら周辺地域を考慮に入れると、アルス・ノヴァは、1310年頃から 1425年頃まで続いた。この頃には、フランス音楽は、決定的にイギリスの影響下に入り、イタリアのポリフォニーは写本資料に関する限り、事実上停止していた。
14世紀には、かなりの程度、世紀末(fin-de-siecle)の様相による魅惑に満ち、そこでは、ロマン主義的な、先にも後にも見えていた文化的繁栄によって和らげられた多面的な衰退の時代として現れている。中世の非人間的で宇宙論的な願望とルネサンスの主観的個人的な人間主義とを結びつけている。歴史的には、封建時代の理想の衰退は、すべてあまりにも明らかで、カトリックの信仰は、君主や高位聖職者たちの玩具となった。フランスのフィリップ4世(1268-1314)は、ナヴァル王のホアンナ(Joanna of Navarre)との婚姻で、確かに国家を強固なものにした暴君であったが、新しい強力な教皇、ボニファティウス8世(Boniface VIII)の不屈の敵対者であった。実際に、彼は、彼をローマに監禁した。ボニファティウスが没すると、フィリップは、新しい教皇を任命し、クレメント5世として、彼をアヴィニョンに置いた。これが、いわゆる 1305年から 1378年まで続いたバビロン捕囚(Babylonian captivity)の始まりであった。その後、アヴィニョンの教皇たちの権力を残す決定だけでなく、ローマに教皇をおく決定もなされたことから、教会分裂(schism)(1378-1417)へと導かれた。コンスタンツ公会議(the Council of Constance)でのマルティヌス5世(Martin V)(1417-31)の選出によって、遂にやっとその分裂は終わった。この破局全体にフィリップ4世は責任があっただけでなく、彼は、また、テンプル騎士団(the order of Knights Templar)も非難し、そのメンバーたちを死に至らしめた。数人の王が後を継ぎ、1314年から 1328年の間統治した後、フィリップの甥、ヴァロア家のフィリップ6世(Philip VI Valois)が王位に就いた。彼の王としての権利は、イギリスのエドワード3世によって拒絶されたが、彼の統治は 1350年まで続いた。百年戦争は、直接的には、このイギリスとフランスとの行き詰まりによって引き起こされ、1337年から 1453年までのほんの少しの中断はあったものの、続くこととなった。そして、フィリップ自身の統治時代に、1340年のフランス艦隊の壊滅、1346年のクレシーの戦い(debacle of Crecy)での完敗、ヨーロッパ中を荒廃させた疫病(ペスト)の流行があった。ジャン2世(John II)(1350-64)は、時代錯誤的にも騎士道の精神に執着したが、1356年のポワティエの戦いで容易に打ち負かされ、自ら捕虜になった。彼がフランスに帰ったとき、彼の息子たちは彼のために人質となったが、その一人が約束を破ると、ジャンはイギリスに戻り、1364年そこで没した。シャルル5世は、父の誤りから学び、次第に以前失ったかなりの領地を再び回復したが、シャルル6世は、狂気の発作があり、エイジンコート(アジャンクール)(Agincourt)でヘンリー5世に降伏することを余儀なくされた。ついに、1420年、イギリスの覇権は、トロワの和約(the peace of Troyes)によって確かなものとされた。イギリスがフランスから次第に撤退するのは、1422年のシャルル7世の即位と成功の創案者としてのジャンヌダルクのいた 1429年のオルレアンの包囲戦の後に過ぎなく、それには 1453年までかかった。
ブルゴーニュの公たちは、純然たる騎士の擁護者であったが、自らは勝利者の側、イギリスと同盟を結ぶことには慎重であった。そして、彼らの蓄積した富は、あらゆる種類の芸術の育成に用いられた。
イタリアは当然の事ながら、教会と国家との対立によって引き起こされる争いに絶えず苦しめられていた。そして、国がしばしば一つの都市に過ぎないような多くの君主国に分かたれていたという事実のために、徒党党派に満ちあふれていた。しかし、他の国々同様、これらの君主たちが極めて吟遊詩人たちやそこで育まれた音楽を好んだことは確からしい。ナポリ王、アンジュのロベルト(Robert of Anjou)、その父はフランスのルイ8世の息子であり、この点で、他のイタリアの宮廷に影響を与えたのだが、彼がいたとしてももっともなことである。確かに、パドヴァのマルケトゥスは、ポメリウム(Pomerium)を彼に捧げ、献辞の書簡の中で、ロベルトは周囲に音楽家の群れをおいておくことを大層望んだと述べている。フィリップ・ド・ヴィトリも、モテトゥスを1曲彼に捧げている。十分奇妙なことだが、音楽の作曲は、パドヴァやヴェローナ、フィレンツェといった重要な諸都市の所有権が絶えず変わることによっては、それほど影響を受けなかったように思える。疑いなく、14世紀後半の北イタリア最大の権力者は、ミラノのヴィスコンティ家であった。彼らは、1400年まで、フィレンツェを除くこの地域のほとんど重要な諸都市を支配していた。しかし、1402年のジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの死と共に、より大きな指導力をヴェネチアが発揮する番であった。
スペインでは、カスティリャの諸王がムーア人との多くの戦争に絶えず関わり続けていた。ムーア人は、1492年になってついにやっと駆逐されたが。しかし、アラゴンとナヴァルの王たちは、強力なイギリスの隣人たちとよい関係を保つことにより関心があって、これらの争いの外にいることを好んだ。フォワ(Foix)公のガストン・フェビュス(Gaston Phebus)は、また、アラゴン家の一員であり、勇敢な兵士であったが、彼に絶えず同盟者となるよう求めていたフランスとイギリスとのバランスを保とうとした。キプロスでは、そこは、1192年にリチャード・クール・ドゥ・リヨン(リチャード獅子心王)(Richard Coeur de Lion)がギィ・ドゥ・ルジニャン(Guy de Lusignan)に譲って以来、ルジニャン家の所有になっていたが、アラゴンやナヴァルでそうであったように、フランス文化がこの上なく支配していた。ルジニャンのピエール1世(Pierre I de Lusignan)(1359-69)は、ギヨーム・ドゥ・マショーの長い詩、La Prise d'Alexandrie にインスピレーションを与えた人だが、失敗に終わる十字軍を導いた。彼の冒険的な外観にもかかわらず、彼は卑劣な性格であったため自らの臣下によって殺害された。ヤヌス王(Janus)(1398-1432)は、政治家としてはさらに一層成功せず、1426年、カイロのスルタンの軍勢によってニコシア(Nicosia)は略奪された。
ドイツ、ボヘミア、ハンガリーとポーランドは、14世紀、同じ政治的政策によってしばしば影響を受けた。というのは、ドイツ皇帝が、それらをすべて支配しようと欲したから。ルクセンブルクのヨハン(John)は、生まれながらの戦士であり、全般には、軍の遠征において成功を収めたが、ギヨーム・ド・マショーは、1323-46年の間、彼の秘書官であって、強行行軍とリトアニアとポーランドの厳しい寒さに不平を漏らしていた。ウェンツェスラウス(ヴェンツェル)(神聖ローマ皇帝)(Wenceslas)(1378-1400)は、弱い支配者であることが分かり、1400年に退位させられた。彼の兄弟ジギスムントがよりよい候補者であることが分かり、コンスタンツ公会議(the Council of Constance)を煽動して開かせた。ポーランドでは、ハンガリーのルイ(ラヨシュ)(Louis)が 1370年に王になったが、すぐにリトアニア公のヤギェウォ(Jagiello)に由来するヤギェウォ王朝に継承された。彼は、妻ルイ(ラヨシュ)の娘、ヤドヴィガ(Hedwige)の死でヴワディスワフ(2世)ヤギェウォ王(King Ladislas Jagiello)(1399-1434)になった。彼の息子の一人は、ジグムント(Sigismund)の死後、1440年にハンガリー王になった。(1437年)
ヨーロッパの文化的背景は、非常に大きな影響を受けていた国々で期待されるように、彩り豊かなものである。事実、これらの影響は、非常に多方面に及んでいて、それらが全般的に中世やルネサンスの特徴に限定される時でさえ、それを見出すのに慎重になるかもしれない。さらに、ゴシック精神の中心であるフランスでは、中世の傾向が優勢である一方で、ローマの古代遺跡の故郷であるイタリアでは、1300年にはルネサンスが初めて明確に光の下に現れる。また、イタリアのゴシックの大聖堂を一瞥するだけで、それらがイタリア精神の本質的な人間性の中に生きた証拠である昂揚したフランスの傑作の側に如何に深く根を下ろしているかを示しているのが分かるだろう。彫刻においても、新しい自然な質が、彼らの作品が初めて現れた時とは異なって、ニコラ(Nicola)やジョバンニ・ピサーノ(Giovanni Pisano)による風景の中のある顔の中に見出される。シエナの画家たちは、明らかにビザンティウムの影響下にあった。しかし、ジョットー作品は、例えば、パドヴァのアリーナ・チャペル(Arena Chapel)のピエタ(Pieta)のように、多くの顔に人間の情感の質が完全なまでに明らかにされている。音楽的には、そうした特徴は、垂直のハーモニーへの傾向と比較されるだろう。それは、イタリアのカッチャのハーモニー的なバスの進行(bass line)に、また、個人の作曲という人間的な性格の中に自らを明らかにしている。それは、もはやグレゴリオ聖歌のモチーフに基づく必要はない。
フランスやブルゴーニュでは、事態はより保守的であった。ゴシックは、その途上にい続けていたが、古典形式からの繊細な作品が自らを明らかにしたロマン主義が派生した。大聖堂はほとんど13世紀末に建てられ、新しい作品は、小さな分野部門に集中した。円柱は細くなり、彫刻された葉飾りは、より華麗になった。画家たちは、写本の細密画に努力を惜しまず、それらはもはやステレオタイプなものではなく、しばしば洗練され多様になった。大聖堂でのフランボワイヤン様式のはざま飾り(flamboyant tracery)への傾向は、15世紀芸術の特徴以上のものであるが、それは、音楽においては、14世紀に音(符)の形や複雑なリズムの過多となってすでに現れている。しかし、その状況は、文学において最もよく見られるだろう。フランス人が長い韻文「物語(romans)」を書き続けている間、それは英雄の騎士の幻想的な恋の冒険を扱っているが、イタリア人はダンテの「神曲」やボッカチオの「デカメロン」そしてペトラルカの「カンツォニエーレ」のような傑作を生み出した。フランス人は詩人であり音楽家であるギヨーム・ド・マショーを筆頭に、詩の現実的素材や音楽も、むしろ形式的要素や作詩法といった外面に集中した。音楽の基盤として採用されると、この様式の短い抒情詩が、イタリア人たちがマドリガーレやバッラータで知っていたような、ある目的を持った。しかし、永遠の価値を持つ真面目な作品には、それらは役立たなかった。しかし、イタリア人は、カンツォーネは音楽を付けるには余りにも繊細すぎることに気づき、14世紀には、旋律と結びつけることをしなかった。にもかかわらず、それらが書かれた貴人たちや君主たちは、その物語(romans)を熱心に吸収し、私たちは、有名な年代記作家フロワッサ-ル(Froissart)が、まさに北からフランス南部へ、彼の極度に長い騎士道の詩、「メリアドール(年代記?)(Meliador)」を読むためにガストン・フェビュス(Gaston Phebus)の所に行ったことを知る。イギリスでは、チョーサーは、明らかにマショーの作品を称賛していた。そして、彼のカンタベリー物語のために10音節の行を採用さえしている。
14世紀イタリアの抒情詩がトルバドールの抒情詩に起源があるように、カスティリアのアルフォンソ10世(1221-84)は、同じ資料から彼の歌にインスピレーションを求めた。結局のところ、ギヨーム・ド・マショーの「第二レトリック(Second Rhetoric)」は、14世紀のカタロニアの詩にその印象を与えている。そして、アンドリュー・フェブレ(Andreu Febre)、ヨーメ・エスクリーヴァ(Jaume Escriva)やルイス・デ・ヴィラ・ラサ(Luis de Vila Rasa)のような人々は、バッラータ形式をかなり使用している。フランス語もしばしば用いられた。アラゴンの王宮の音楽家たちは、しばしば初めはフランス人であったが、王のフアン1世(john I)自ら作曲家であったことが知られている。そして、疑いなく、彼はバルセロナの宮廷の詩と音楽とに多くのフランスの影響を及ぼしただろう。
言語的要因は、14世紀文化生活で考慮すべき要因である。以前、ラテン語がすべてにおいて重要であった。世俗のモノディでは、また限られた程度ではあるが、より多くの聴衆が求められた長い文学作品において、俗語が採用されることもあったが。しかし、今や、ラテン語そのものが、学問的著作や知識人の間を除いて、その支配力を失い始めていた。すでに述べられた人間主義的傾向は、写本に作曲家の名を入れることでも、自ずと示されている。これは、モテトゥスの場合に、時折起こったに過ぎないが。初めは、アナグラムの形で、しばしば詩の中に自分の名を隠すことがフランス人の特徴である。
多くの初期のルネサンスの要素を孕んでいるにもかかわらず、14世紀は、まだ、第一義的には中世であったことは明らかだろう。フランス音楽と芸術とは、しばしば大きさ(規模)を犠牲にしてまで、装飾において一層細部にこだわる方向に向かい続けた。そして、1320年頃のかなり重要なアルス・ノヴァの繁栄にもかかわらず、イタリア音楽は、やがてフランスのモデルと記譜法に屈服した。同様に、ジョットーの例にもかかわらず、ビザンティウムの伝統が、イタリア絵画では、15世紀初期のマサッチョ(Masaccio)まで優勢であったことは明らかである。文学も、フランスの作品では、中世の要素が目立っていた。イタリア・トレチェントの抒情詩の初期の隆盛や14世紀末のイタリアでのフランス詩の圧倒的な影響など。他の国々は、恐らく、フランスの影響を遙かに受けやすかっただろう。そこでは、スペインのようにその土地の伝統や言葉がそれを吸収するのを可能にした。