オルガヌム
何年もの間、ゴシック時代の大聖堂や大修道院は、巧みな業の、また、それに匹敵する職人たちの一団による無名の作者の創造であった。そして、この匿名性へのこの崇拝は、美術研究家の研究を通して、ほとんど完全に払いのけられるのだけれども、大部分の音楽家にとっては、まだ有効である。もし、12世紀の作曲家の偉大な何人かの名を尋ねられたなら、恐らく、レオニヌスとペロティヌス以外にはほとんど名を挙げることはできないだろう。ノートルダム楽派のこの二つの偉大な星の時代以前、パリのマギステル・アルベルトゥス(Master Albert)と言う人がいて、彼はスペインの写本にある短い3声の声楽曲の作曲者であるとみなされている。また、彼らと同時代かそれより後に、ジャン・プロブ(Jean Probus)、ロベール・ドゥ・サビリョン(Robert de Sabillon)そしてトーマス・ドゥ・サン・ジュリアン(Thomas de Saint Julien)のようなフランス人や「この上なく精妙に歌った」イギリス人、ヨハネス・フィリウス・デイ(神の子ジョン)師(Master John Filius Dei)、ウィンチェスターのメイクブライト(Makeblite)、またヘンリー3世の宮廷臣の一人であるブレイクシュミット(Blakesmit)がいた。なるほど、これらの人々は、自らの作品に署名することは稀であったし、現在まで伝わる若干の完全な写本からそういうことが分かるのだが、当時のある傑作や尊敬すべき作曲家たちの詳細を残した理論家や注釈者がいた。ベリー(Bury)出身のイギリスの修道士、聖エドマンズ(St.Edmunds)は、彼がソルボンヌで出席していた音楽のコースの講義を大量にノートに取っていた。そして、故国に帰ると、彼は賢明にもそのノートを保存し、こうして後世の学者たちは、前世紀の間でさえ中世の音楽がそのようなものであったに違いないとパズルのようにつなぎ合わせることができた。
12世紀の後半、ヨーロッパの至る所に活躍している多くの作曲家がいた。そして、共に存在していた様式は、(しばしば魅惑的な結果と微妙な影響を伴って)また、多く多様であった。パリの作曲家たちの他に、最も重要なものをいくつか述べるだけでも、シャルトル、リモージュ、コンポステラ、サン・ゴール、チヴィダレ(Cividale)、パドヴァ、ウィンチェスター、そしてウスター(Worcester)に、重要な音楽活動の中心があった。作曲家たちは、ちょうど最近の世紀と同じように、当時、国家主義の影響に傾いていた。そして、様式の識別は現代の観察者や聞き手にとって容易なことではないのだけれど、名声あるほとんどの中世の音楽家にとっては、確実に明らかであっただろう。例えば、ベリー出身のあの修道士は、イタリアのポリフォニー、特にロンバルディアの様々なユニークな特徴について述べている。彼は、また、パリの同僚の一人に「素朴な記譜法とある程度の教授法を身につけたあるイギリス人」に、注意を呼びかけている。イギリスの記譜法の特殊性は、現代の学者たちによって認められており、それは「イギリス定量記譜」と呼ばれている。そして、その同じ学者たちは、また、イギリス音楽の教授法に関して、有る特殊性のあることに同意している。
すでに述べたが、ちょうど一般に受け入れられた建築の特徴の応用に多様性があるように、異なる音楽様式がある同じ時代に用いられていた。シトー会修道院の修道士たちの大修道院は、ベネディクト会士のものよりかなり装飾が少なく、彼らの音楽もそれ自体の精巧さには向かなかったと考えることは論理的である。ベネディクト会の建物や、特に一層豊かなクリュニーの建築は新しい様式の発展へと前進していく一方で、シトー修道会は、主に、オルガヌムの最も初期の最も単純な形式を保っていた。この二つの様式、古くて厳格なものと新しくて装飾的なものとは、何年もの間、相並んで実践され、典礼礼拝の中に生き続け、しかし同時に、世俗世界へその考えを投げかけていた。
音楽史において、非常に頻繁に起こったように、12世紀の中頃には、ヨーロッパを横切って北方への渇望があった。その結果、スペインや南フランスで作曲され歌われた音楽は、次第に、北方の社会の音楽制作を、あたかも何か文化のメキシコ湾流のよってのように暖めていた。この直接の結果は、パリのノートルダムでレオニヌスによって発展させられた種類のオルガヌムに見いだせるだろう。聖マルティアリス(マルシャル)楽派の最も繊細な作品に基づき、レオニヌスの作品は、旋律句の透明な美しさ、丹念に構成されているが柔軟なリズム、そして線や輪郭のより荘厳な広がりにおいて、それらを改善した。南方の作曲家たちの装飾的な楽節が、エピグラム風のところでさえ、比較的短い一方で、レオニヌスのメリスマは、自由に確信をもって、完璧に計画され、巧みにマッチした上昇と下降とを伴って、一つの協和音から別の協和音に動く。1150年と 1175年との間に、彼は、大きな祝祭日のレスポンソリウムの聖歌、晩課と朝課とのためのレスポンソリー(応唱聖歌集)とその詩、盛式ミサ(大ミサ)のグラドゥアーレとアレルヤすべての二声部のオルガヌムを作曲した。彼の広大な計画は、その後、ペロティヌスのいくらか小さい規模の三声のオルガヌムの一連の曲集(cycle)と16世紀のイザークと17世紀のバードの大曲集によって匹敵されるだけであった。
オルガヌムの技法へのレオニヌスの大きな貢献の一つは、第一と第二旋法のパターンの痙攣するような特徴にもかかわらず、彼の柔軟で多様なリズムの見事な使用であった。これは、普通、規則的な長い音と短い音との交替で成り立っている。そして、今日、牧歌の 6/8拍子(譜例 25. レオニヌスの Tanquam sponsus)のようなものに転写される。しかし、レオニヌスの音楽は、伝統的に
譜例 35
(学問的に)規則的であったわけでは決してない。というのは、彼は、基本的なリズム・パターンに従ってはいたが、長い音も短い音もともに分割して、当時の理論家によってコプラ(copulae)と呼ばれていたより小さな音価としているから。コプラは、バロックの作曲家たちの「分割(divisions)」の旋律のバリエーションから音楽的にそれほど隔たったものではなく、何年もの間、現代の音楽学者の肉体に刺さったとげ以上のものではほとんどなかった。彼らは、コプラは「ディスカントゥスとオルガヌムとの間にあったという事実への中世の理論家たちの主張によって困惑させられたが。中世のスコア(総譜)を水平にみると(というのは、当時、音楽は広く総譜の形で書かれていた)、実際には、オルガヌムの部分とディスカントゥスの部分との「間」に何かを見いだすことは困難だろう。片方は、それらを区別するのに未発達な小節線(bar-line)以上のものはほとんどなく、他方と混ざり合っているから。「間」という言葉を用いた理論家たちは、コプラは、オルガヌムとディスカントゥスの両方の性質を共有しており、それはいずれのものとも厳密に分類できないので、ジャンルにおいても性質に於いてもそれらの間にあるという意味で使っている。これは、全く論理的に正しい。というのは、オルガヌムは、一つの音に対して、いくつかの音を付け、ディスカントゥスは一音対一音の動きを活用しているから。コプラは、全般にディスカントゥスのモノフォニーの性格を有しており、二つのパートいずれも同じ基本的リズムで動く。しかし、テノールの音それぞれが、その上に二つの音のある(文字通り「結合」)ミニチュアのオルガヌムと考えるならば、理論家たちの定義は明らかになる。
レオニヌスの音楽は、一人の若く大胆な音楽家が舞台に登場した時、すでにヨーロッパ中で広く受け入れられていた。彼は、私たちには、その前任者と同様、縮小された名--ペロティヌス--だけで知られている。レオニヌスがレオと呼ばれ親しまれていたのとちょうど同じように、ペロティヌスの本来の名は、ピエールであるに違いない。現在、問題は、どのピエールがペロティヌスかというところにある。なぜなら、少なくとも、ノートルダムと結びついた五人のピエールという名の人物がいたからである。最高位の教会聖職者は、除去されなければならない。というのは、彼らの中で、優れた歌い手であったとしても、一般にジョーとかチャーリーのような名で呼ばれたということはほとんどあり得ないからである。しかし、12世紀の終わりの数十年の間に活躍した先詠者(前唱者(precentor))に一人のピエールがいる。彼が音楽芸術的に多大な貢献をしたというのはあり得る話である。彼は、司祭ではなく助祭(deacon)であり、それ故に比較的問題なくあだ名で呼ばれたのだろう。
今一度、これらの音楽様式の変化、また、それらを作曲した人々について私たちに語るのはイギリスの修道士である。
レオニヌスは、オルガヌムの最高の作曲家であった。彼は、神の礼拝を広めるために、ミサと聖務日課のためにオルガヌム大曲集を書いた。この曲集は、偉大なペロティヌスの時代まで使用された。彼(ペロティヌス)は、それを短くし、よりよい仕方で多くの部分を書き換えた。ペロティヌスは、ディスカントゥスの最高の作曲家であって--彼はレオニヌスより遙かに優れていた。-- Viderunt や Sederunt といった調和の芸術の最も豊かな装飾を伴う最も優れた四声のオルガヌムを作曲した。 |