世俗のモノディ

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世俗のモノディ

 モノディと言う言葉は、ここでは、17世紀初期のイタリアのモノディ作曲家たちにとってと同じ意味で用いられている。言い換えると、モノディは、楽器の伴奏を排除するものではなく、むしろそれを前提としている。中世の歌のほとんどの説明が、楽器の役割を見過ごしり、その重要性を過小評価していることは、そして(歌の転譜において)実際的な面を想像に委ねているのは、不幸なことである。一方、トルバドールの一つ二つの現代版は、弦楽器や送風(管)楽器の歓迎すべき伴奏を付けている。リードやフルート型の送風(管)楽器だけでなく、撥弦楽器や弓で弾く楽器も中世の吟遊詩人たちによって用いられていたことが知られており、これらの吟遊詩人たちは、ご主人たちの伴奏をした。(文字と音楽の双方の意味で)彼らは、現代の音楽の巨匠に中世で対応する人々であった。
 彩色の施された中世の写本は、音楽家としてだけではなく、多芸のエンターテイナーとしての吟遊詩人を示している。ハープやヴィオルを演奏するのに熟達しているだけでなく、明らかに(あるいはジョングルール(jongleurs))卑しい軽業師などでは決してなく、ナイフを投げたり、球形の物体を巧みに操ったり、動物に芸当をさせることもできた。彼らの音楽の機能は明確に中世の文学に述べられている。一つの詩では、吟遊詩人たちがいかに音楽を演奏し、同時にいくつかの弦を演奏することで自らに人々の注意を惹きつけ、それとは全く異なる音で前奏曲に続けるかを語っている。歌の詩の間には、短い楽器の曲があり、最後には簡単な後奏曲があった。明らかに、一度歌が進行を始めると、吟遊詩人の役割は従属的なものになったが、初めは自由に聞き手の注意を引き付けた。
 これらの伴奏は書き留められなかった。そして、(ほんの2,3の例外はあるが)それらは私たちには伝わっていない。しかし、バロックの通奏低音(コンティヌオ)の右手のパートも私たちに伝わっていない。それらは、丁度、15世紀の「フォーブルドン(fauxbourdon)」の一行(あるいは二行)が、歌い手の想像力や訓練の場となっていたように、演奏家の即興に任された。今日では、誰も、ソロやデュエットとして「フォーブルドン」を演奏するとは夢にも思わないだろう。モンテヴェルディからバッハまでの作品に具現化された通奏低音を敢えて省略したりしないのと同様に。しかし、中世の歌は、しばしば、どんな楽器であろうと何のヒントもなく演奏され、記録され、その結果、その真のテクステュアからの歪みは激しいものがある。標準的な吟遊詩人が、少しの巧みさを加えて旋律を単純に二重化したかどうかは疑わしいけれど。より技量のある仲間たちは、恐らく、何らかのドローン(持続低音)の音を伴って、簡単な対位旋律を容易に加えることができただろう。ハーモニーは、4度、5度とオクターヴの、後には3度と6度の協和音に基づいていた。ナイトハルト・フォン・ロイエンタール(Neidhart von Reuenthal)による音楽付きの詩は、ユニゾンと3度の音程に言及している。
 ラテン語のテキストの歌は、トルバドールやトルヴェールの芸術的歌が繁栄する以前から何世紀も存在したが、慎重に高くされた音が欠如しており、ほとんど純粋に空想的な曲に留まっている。これは、多くの歌が歴史的な人物を明らかにしているので、残念なことである。一方、他の作品(放浪の学者、すなわちゴリアルドの作品)は、中世の生活の歓喜や恋の側面を生き生きと描いた絵画である。稀なケースだが、歌の旋律は、コントラファクタが高くされたネウマやソルミゼーション(階名唱法)の音節のある写本の中にあるときには再構成できる。O admirabile Veneris idolum, それはまた、O Roma nobilis というテキストと共にあるのだが、そうした例の一つである。これらのラテン語の歌と後の北部フランスや南フランスの作品との間に音楽的あるいは歴史的な繋がりは全くないように思える。
 トルバドールの歌の起源は分からないとよく言われている。しかし、トルバドールという言葉の最も満足のいく起源の一つは、tropus, 歌やフレーズの音楽的な変化を意味するものであるが、そこから来ているというものである。時の経過と共に、トロープスは、(メトミニ(換喩)によって)前に初期典礼音楽との関連で述べられたように、テキストと旋律の双方の実際の挿入を意味するようになった。才能ある世俗の人たちが聖職者たちの優れた音楽や歌を真似るのは当然の事であり、典礼から旋律を取り除くことは、恐らく、初めは軽率だと考えられた一方で、トロープスを利用することは公明な行為であった。そのトロープスは、典礼に随意に付加され、教会によって許されたが、公式には決して認められなかった。それ故に、最も初期の知られているトルバドール、ギヨーム9世(Guillaume IX)(ポワティエ伯でアキテーヌ公)によるストロフィックな詩の一つは、11世紀の終わりに、リモージュの聖マルティアリス(サン・マルシャル)で書かれたコンドゥクトゥスにあとづけられる。この同じ中世音楽芸術の中心からの旋律は、また、その音楽が全く保存されていないギヨームによる詩に適合する。
 地理的な観点から見ると、リムザン(Limousin)の肥沃で広大な渓谷が、教会の詩やポリフォニーの華だけでなく、トルバドールの最も偉大な創造をも誕生させたということは、決して著しいことではない。おおよそ同じ頃に、聖セヴェール(Saint Sever)は、歴史を通じて、最もすばらしい写本の一つを生み出していた。性格的には、真にロマネスク様式であるが、初期のキリスト教資料から書き写されたヨハネの黙示録である。彫刻の分野では、この同じ地域が、石の記念碑の彫刻のほとんど奇跡的な再生の揺籃の地であった。モワサック(Moissac)、スイリャック(Souillac)、ボリュ(Beaulieu)やトゥールーズ(Toulouse)の正門(portals)が十分証明しているように。教会が、聖母マリアを称える詩や音楽を作って聖母マリア崇拝を強調し始めた時、音楽芸術に自ら引かれるのを感じていた富裕な世俗の人々は、同様の崇拝、女性崇拝を始めた。
 もちろん、純粋に宗教的動機の他に、この崇拝には別の理由もあった。トルバドールの多くの人は、高貴の生まれであり、それだから女性を敬う騎士の誓いのことを知っていただろう。また、古代ギリシアの物語を真似た北方の作家たちによって語られた運命の愛(fateful love)の話も知っていただろう。別の影響を及ぼした資料は、モンマスのジョフリー(Geoffrey of Monmouth)によって彼の「ブリタニア王の歴史(HIstoria regum Brittanniae)」に書かれたケルトの神話だったかもしれない。しかし、すべてがフィクションであったとは限らない。エロイーズとアベラールという恋人がいた。彼らの恋愛事件と最後の悲劇は、12世紀初めのヨーロッパの人々の興奮と共感の渦の中に巻き込んだ。これらすべては、火に油を注ぐものとみなされ、たとえ、一人のトルバドール、ガスコニーのマルカブル(Marcabru of Gascony)が歌い手で女性嫌いであったとしても、トルバドールの大部分の人たちは、その新しい哲学に従って生きた。その本質は、愛は秘密、神秘的な情熱であるというものであった。愛するものは、貴婦人の愛を勝ち得るために、彼女にした約束を成就するために特別な任務を果たさなければならない。そして、その貴婦人は、代わりに彼女を選んだ人に慈悲深く忠実でなければならない。
 トルバドールたちは、オック語(langue d'oc)で書いた。それは、南西フランスの方言から派生した文学・宮廷の言語であった。言語としては、比較的短い生涯であった。というのは、シャンソンは、マイナーな韻文形式であって、さらなる言語的発展へと向かう運命にはなかったから。一方、音楽は、様々なテキストのため、何度も何度も用いられ、いくつかの旋律は、3,4世紀もの間、ヨーロッパ中にその痕跡が見いだせる。同様に、一つの同じテキストが、しばしば異なる旋律に付けられ、時には、真の作者や作曲家が誰なのか見いだすのが困難になっていることもある。しかし、全般に、誇りを持って、古い真のローマの個人主義の仕草で、歌に署名したトルバドールたちは、歌詞も旋律も共に作ったと考えられている。
 彼らの仲間の中で、最も偉大な人々の中に、抒情的旋律と優れた詩を結びつける技において天才であったベルナール・ド・ヴァンタドルン(Bernard de Ventadorn)、インスピレーションに欠けていたものを技法で埋め合わせる以上のことをしたギロー・ドゥ・ボルネル(Guiraut de Bornelh)、彼にとって韻文は完全に自然な手段であった都会の広く旅をした諷刺作家(parodist)のペイール・ヴィダル(Peire Vidal)、イングランドの訪問が、残念なことに音楽のためというより政治的なものであったベルトラン・ドゥ・ボルン(Bertrand de Born)、大学を設立したり、十字軍を組織したり宗教団を共同で設立したり、最後には司教となった多方面で活躍した人、フォルケ・ドゥ・マルセイユ(Folquet de Marseille)などのような人が含まれていた。これらの人々は、生き生きとした色彩豊かな個性の持ち主で、彼らの歌は、大部分、生きた困難な技芸への没頭の強い歓びが反映されている。
 公の情感の内容において、彼らの歌は非常に多様なものであった。ベルナール・ドゥ・ヴァンタドルンの有名なヒバリの歌は、絶望的愛と関連している。ジョフレ・ルデル(Jaufre Rudel)による Lanquand li jorn もそうである。その旋律は、しばしば詩(韻文)より遙かに優れている。アルノー・ダニエル(Arnaut Daniel)は、巨匠の歌、Chanson do ill mot の中で、それぞれの詩の最後の一行を次の詩の初めの一行と単語だけでなく、意味でも関連付けている。いくつかの旋律は、高度に構成され、一方、アルベルテット・ドゥ・システロン(Albertet de Sisteron)の Ha! me non fai chantar(あぁ!私に歌わせないで)のように、自然なほとんど即興的に作られたものもある。
 プラン(planh)、一種の音楽の哀歌であるが、しばしば、トルバドールの作品の中に見いだせる。これらの曲のいくつかは、実際に、ギロー・リキュ(Guiraut Riquier)の Ples de tristor のように、人の名を挙げて記念しているものがある。夜明けの歌(alba)も、非常に人気があった。というのは、恋人たちへの警告としてのその機能は、それをすぐれて(oar excellence)有用な音楽としたからである。ギロー・ドゥ・ボルネル(Guiraut de Bornelh)の Reis glorias は、最も洗練されすぐれたアルバ(alba)の正に有名な例である。ある歌では、舞踊の影響が最も強く、少なくとも一つの例(ランボ・ドゥ・ヴァケイラ(Raimbaut de Vaqueiras))では、踊りがその歌の作曲にインスピレーションを与えたことを知っている。
 最もすぐれた典礼音楽が、リモージュから北へと広まっていったように、トルバドールの抒情詩の最も優れたものもそうだった。それらが、ギヨームの孫娘、アキテーヌのエレアノール(Eleanor of Acquitaine)によって北フランスの宮廷に伝えられたのは、当然のことである。彼女は、ベルナール・ドゥ・ヴァンタドルンを含む多くのトルバドールのパトロンであった。何年もの間、古い北フランスの詩人たち、ラング・ドイル(オイル語(langue d'oil))を書いた詩人たちは、名前が知られないままだったが、12世紀の終わりに近づくにつれ、トルヴェールとして知られる偉大な才能ある音楽家・詩人の一団が成長してきた。彼らは、古フランス語で書き、(トルバドールのように)教会の内外に存在した旋律の蓄積があり、基本的な型やフレーズを凌駕するもののない美しさと均整のとれた魔法のような力ある調べに変えた。260余りのトルバドールの旋律と 2600のテキストに対して、およそ 1400のトルヴェールの旋律とおよそ 4000の詩が残っている。
 トルヴェールの最も初期の人たちは、予想されるように、先駆者のトルバドールや同時代のトルバドールと同じ傾向の抒情詩を書いた。ブロンデル・ドゥ・ネスレ(Blondel de Nesle)は、投獄されたイングランドのリチャード1世を探しだすという空想的だが楽しい物語を通じて、また歌の作家としてすべての学校の生徒に知られている。コノン・ドゥ・ベチュヌ(Conon de Bethune)は、実にすばらしい生涯を送った。というのは、彼は、1204年に十字軍に従軍し、政治・政治手腕の分野である程度の成功を収めたから。ギュイ・ドゥ・クシ(Guy de Coucy)は、何年かの間、今では破壊されてしまったが、クシ城(シャトー・ドゥ・クシ(Chateau de Coucy))の城主であり、トルヴェール・クルトゥ(trouvere courtois)の最もよい伝統の一握りの歌の作者である。最後に、確実にこのグループの中で最も偉大なナヴァル王、チボー4世(Thibeau IV of Navarre)がいた。彼の歌は、彼の世俗の職務で忙しかったと伝えられているけれども、驚くほど高品質なものである。ほとんど同等のブルジョワのトルヴェールの輝かしいグループには、コラン・ミュゼ(Colin Muset)、リュトビュフ(Rutebeuf)、そして彼らの中で最も偉大な人の一人、アダン・ドゥ・ラ・アル(Adam de la Halle)が含まれていた。彼は、魅力的な牧歌「ロバンとマリオンの戯れ(Le Jeu de Robin et Marion)」の他にも、多くのポリフォニーのロンド、バッラードとヴィルレを書いている。多くの弟子(追従者)や模倣者がいたが、彼らの作品は、次第に、型にはまり(ステレオタイプ化し)教訓的になっていき、その結果インスピレーションが失われていった。
 もう一度、私たちは、トルヴェールの音楽に、詩的にも音楽的にも、曲集に大きな魅力を与える、型やテーマの広範な領域を見出す。愛の歌が、そこでは豊かである。ガセ・ブリュレ(Gace Brule)による Cil qui d'amors me conseille は、それに相応しい悲しげな第一旋法の旋律で絶望的な愛について語る。最も初期のトルヴェールの一人、ゴティエ・デピナル(Gauties d'Epinal)は、彼の Commencements de dolce saison bele で、古いが永久の春との愛の新しいテーマに新鮮さと活力をもたらす。ナヴァルのチボーの Pour conforter ma pesance では、十字軍の兵士の呪い「Mori Mahom!」が一つの詩行で聞かれ、恋人の不平を瞬時にして打ち砕く。モニオ・ダラ(Moniot d'Arras)の Ce fu en mai に保存された旋律の美しさは、ヒンデミット(Hindemith)によって認められ、彼は、それをバレー「Nobilissima Visione」の中で用いている。ロベール・ドゥ・レン(Robert de Rains)は、そのテキストがエコーの効果を利用している(Bergier de ville champestre/Pestre ses aignious menot)魅惑的な牧歌に、別の典型的な第一旋法の定型を入れている。一方、ギヨーム・ダミアン(Guillaume d'Amiens)は、彼の牧歌的ロンドに民衆の歌(folk-song)の特徴のあるテーマを用いる傾向がある。
 この膨大な歌の曲集を様々な仕方、韻文形式や可能な構造の派生、あるいはテキストの内容などによって分類しようとする試みがずっとなされてきたが、詩と同じように、曲は、その分類に時折抵抗する。そして、リズムの問題の扱いにおいて、あるいは中世の歌の形式を描写するのに与えられた専門用語を受け入れたり拒絶したりすることにおいて、学者たちが完全な方向転換をするのを見るのは稀なことではない。さらに、しばしば、指摘されていることだが、あらゆる国、歴史のあらゆる時代の歌い手たちは、音楽を自分たちの仕方で、高い音のトーンをふくらませるのを少し遅らせたり、装飾的色彩や進行の効果を高めるために速くしたりと、音楽を解釈する権利を保持している。事実、ルバート(rubato)、しばしば専らロマン主義の作曲家たちや演奏家たちに特有のものであるとされた時価(音符・休符の表す長さ(time-values))で演奏することであるが、それが中世には知られず実践されなかったという証拠は全くない。
 ちょうどアキテーヌのエレアノールとルイ7世との婚姻がトルバドールの芸術を北方へともたらしたように、別の王家の婚姻、フレデリック・バルバロッサ(Frederick Barbarossa)とブルゴーニュのベアトリクス(Beatrix)との婚姻が、西方、ドイツへの影響を広めるのに役立った。ベアトリクスは、トルヴェール、ギオー・ドゥ・プロヴァン(Guiot de Provins)を彼女の宮廷に抱え、12世紀の終わりよりかなり前に、フリードリッヒ・フォン・フセン(Friedrich von Hesen)という名の詩人が、ギオーの歌の一つのドイツ語訳を書いている。その旋律は残っていないが、ドイツ世界は、トルヴェールの旋律をかなりうまく適応させ、フォン・フセンによるあれやこれやの模倣を見ると、彼がドイツでのトルヴェールの影響の主要な経路であったように思える。ドイツ人たちはそれまでの自らの伝統を持っていたが、トルヴェールの礼賛は次第に音楽サークルに浸透し、初めはその魅力に逆らうことは困難だったに違いない。フランスの歌を形作るのに役立った同じ資料が、今再び、明らかにドイツの作曲家たちの楽派の間接的な形成に活動的になった。単旋律聖歌や民衆の旋律は、彼らの伝統的な役割を果たし、その影響は、ミンネリート(Minnelieder愛の歌)の最も優れたものの中に見られる。
 詩人としては、ドイツ人は、フランス人より遙かに哲学的であった。特に、ライヒ(leich)--大まかに言えば、レ(lai)に対応するようなドイツの形式、構造的にはセクエンティアと関連するものだが--そういった長い作曲を計画するときのバランスの問題においては、偉大な詩人であるウォルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイデ(Walther von der Vogelweide)によるライヒは、イソリズムのモテトゥスに決して劣らないシンメトリーをテキストにおいても音楽においても共に生み出している。半直線(half-lines)の数で(真の長さの単位)、次の数字が自ら語っている。

  half-lines

 数は、中世の人々には神秘的な力を保持していた。そして、この力は、音楽と詩が力を合わせるところではどこでも、無限の仕方で働いているのが見られる。ウォルター(Walther)の例は、決して孤立したものではない。旋律的には、これらのドイツの歌のいくつかは、楽しく単純なように思えるが、この正に単純さが、しばしば芸術で教えられた聞き手にだけ明らかな微妙な構造を隠している。また、しばしば、長調や4拍子?(square metres)その他の現代化の影響の香りがする。
 質のよいコントラファクタは、すでに述べたフリードリヒによるだけでなく、ディエトマール・フォン・アイスト(Dietmar von Eist)、ウルリッヒ・フォン・グーテンブルク(Ulrich von Gutenburg)やベルンガー・フォン・ホルハイム(Bernger von Horheim)によって書かれている。ウォルター・フォン・デァ・ヴォーゲルヴァイデ(Walther von der Vogelweide)の他に、オリジナルの精神は、ナイトハルト・フォン・ロイエンタール(Neidhart von Renenthal)(彼の旋律的に敏活な Mayenzeit は、正当に称賛されている)や、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ(Wolfram von Eschenbach)、雄々しく Weib(女) に対して Frau(婦人)という言葉を支持したが故に--「女(woman)よりむしろ「婦人(lady)」--フラウエンロープ(Frauenlob)として知られるハインリヒ・フォン・マイッセン(Heinrich von Meissen)のような歌い手に見出される。いくつかの点では、ハインリヒは、移行期の人物、韻律と気質、伝統によればミンネゼンガー(Minnesinger)であるが、マイスタージンガーの時代を予期させる人であった。厳密に言えば、マイスタージンガーは、今の研究の範囲外である。
 トルバドールとトルヴェールの芸術は、ドイツに広がっていくだけでなく、コンポステラを経由してスペインにその道を見出す。そこでも、フランスのポリフォニーは、宗教音楽の分野に痕跡を残している。それらに初めて聖母マリアを称える自らの作による新しい韻文を付けて旋律を引き継ぎ改作したのは、トルヴェールであった(聖職者にもかかわらず)。ゴティエ・ドゥ・コワソン(Gautier de Coincy)は、このように、スペインでのマリア崇拝の情熱の昂揚に、また、カンティガス・デ・サンタ・マリア(Cantigas de Santa Maria)の編集に、間接的に責任があった。これらの歌は、12世紀後半、賢王アルフォンソ(King Alfonso the Wise)と彼の音楽家たちによって書かれたものだが、それらは、彼らの思想や語りの乗り物として、優雅で旋律的なガリシアの言語を用いた。彼らの旋律は、単旋律聖歌や民衆の歌(民謡)だけでなく、恐らく、アラビアやヘブライのモデルにいくらかよるものであろう。というのは、アルフォンソの側近には、キリスト教やユダヤ教、あるいはムーア人の最も優れた学者の名高い学者たちがいたから。
 これらの多くの歌(400を超える)のうち、10に1つは、聖母マリアを称えるものである。他のものは、爽やかな語りで、聖母マリアの奇蹟のいくつかを語る。そして、その登場人物は、ほとんどが日常生活のタイプから引き出されているので、カンティガは、事実上、中世の音楽の小宇宙である。Uirgen sempr' acorrer は、聖母マリアが中傷の犠牲となった宮廷人を如何に救ったかを語る。Muit' amar piedade は、ムーア人の女性と子供が、塔が崩壊したときにキリスト教徒たちが彼らの安全を祈ったために、死から如何に救われたかを説明する。
 イタリアでは、フランスの芸術の歌が称賛され真似されたが、その痕跡はほとんど私たちには残されていない。代わりに、私たちは、laude spirituali, 国中を放浪しながら悔悛者の一団によって歌われた賛歌を持っている。これらの歌は、必ずしもイマジネーションにおいてさえ、歩き回るむち打ちの苦行者のグループのものとされうるような芸術性のない単純なものではない。事実、彼らの悔い改めた感情を公に見せるために。ある村や都市で、そのグループが立ち止まった時に歌われたものである。ラウダ(lauda)の多くは、聖母マリアの賛美であったキリスト年の大祝祭日の単純な物語や心を打つ旋律--クリスマス(キリスト降誕祭)の Gloria in cielo や聖三位一体(Holy Trinity)のための Alta Trinita beata --で語られるものであったが。
 むち打ちの苦行者の崇拝は、ドイツに広まり、そこでは、その支持者たちは、ガイスラー(Geissler)として知られ、彼らの歌った歌は、ガイスラーリート(Geisslerlieder)として知られた。イギリスに侵入しなかったのは明らかであった。当時のイギリスの歌は、しばしば憂鬱やペシミズムに満たされているが。アキテーヌのエレアノール(Eleanor of Acquitaine)は(ルイとの結婚の取り消し(無効)後)ヘンリー2世の妻としてイギリスに至り、彼女と共に、ベルナール・ドゥ・ヴァンタドルン(Bernard de Ventadorn)をもたらしたのだけれど、トルバドールの歌はほとんど印象を与えなかったように思える。サクソンの隠遁者、聖ゴドリック(Godric)の歌は、典礼のものでない英語のテキストを持つときだけ、世俗のものである。その主題と旋律は、教会の影響を示しているが、真の世俗の抒情詩は、Mirie it is while sumer ilast や Worldes blis ne last ne throwe のような歌の中に見い出される。いずれの歌も、また、強いペシミズムと不吉な要素とを示している。旋律の調子、感情双方において、軽いものは、愛の歌 Bryd one brere と有名なカノン Sumer is icumen in (今日では、1280年頃に年代付けられる)で、その曲は、熟練的に単一の線を4声部のポリフォニーにし、下に一対の交互に繰り返す音形を加え、その時代、その国にとって例をみない燦然たる6声の音響を創り出している。

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