第三部

イタリアの興隆


序論

[目次]

 イタリア音楽の興隆は、ジョスカンやイザーク、それに、彼らの偉大な同時代人ピエール・ド・ラリューやロワゼ・コンベールなどの死後、すぐに明らかになり始めたわけではないが、その基礎はすでに置かれていた。今や、あのイタリア独特の形式、マドリガーレが生まれた。(きちんとした性格の人なら、ペトルッチがベルナルド・ロサールの「ペトラルカのカンツォニエーレの〜音楽」を出版したとき、実際には1520年だが、その年を、マドリガーレ誕生の年としたく思うだろう。)ヴィラールトやヴェルドロ、アルカデルトのような人々が、ヴェネチアやフィレンツェ、ローマで地位を占めている間は--すなわち、その世紀(16世紀)半ば以降まで--イタリアの音楽が北方の指導・影響から解放されたということはできない。しかし、その指導から解放されるや、たちまちのうちに北方ヨーロッパが中世の間に確立していたより、はるかに著しい指導力を発揮した。その地位は、十八世紀終わり近くまで維持された。イタリア音楽の興隆の時期をこれほど早い時期にまで遡らせるには、イタリアの音楽はまだ未熟の段階ではなかったかと思えるかも知れない。しかし、マドリガーレは、単に新しい音楽形式というだけでなく--1300年代のマドリガーレとは、名前以外に共通するものはない--一つの革命的な指標である。フロットラや宗教的ラウダ、また時折、デュファイ以降のイタリアの影響を受けた北方の人たちの作品の中に、私たちはその革命的なものの兆しを見て取っている。
 マドリガーレは、ポリフォニー的ではあるが、純粋なポリフォニーではない。そのポリフォニーは、ある一つの要素を考慮に入れなければならなかった。その要素をヒューマニズムは非常に重視した。言葉である。中世の知的、数学的なポリフォニーは、ヨハネス二十二世が不平を漏らしていたように、聖なるテキストを単に音楽の従者として扱っていたが、今では、しばしば音楽は言葉を生き生きと伝えるためのものとして、明らかに意識されて作曲された。--特に世俗音楽では。しかし「音楽のテキストへのヒューマニズム的従属」は、つまり、音楽は言葉を持つことで意味を持つ、あるいは、音楽は単に言葉の効果を高めるためにあるという主張は、フロットラ、マドリガーレ、シャンソン同様、宗教音楽でも明らかになってきている。宗教音楽、カトリックの音楽においても、プロテスタントの様々な音楽においても。
 宗教的思考の中に、ヒューマニズムの精神が浸透していく範囲内で、宗教音楽も、音楽の乗り物となっていくことを甘んじて受け入れた一方で、極めて技法的に洗練されたポリフォニーは「信仰の魔術に合致する音の魔術」という、理性では理解できぬ、純粋な信仰の宗教に奉仕し続けた。イタリアの革新者達が、言葉を伴う音楽で、一層大胆な実験を試みていたちょうどその世紀の後半頃、たまたま、ポリフォニーは黄金時代を迎え、その至高なる巨匠といえば、パレストリーナという一人のイタリア人、そしてイタリア化したスペイン人ともう一人、--ヒューマニズムの影響の方が大きかったが--イタリア化したフランドル人であった。その二人とも、イタリア風に「ヴィットリア」「オルランド・ディ・ラッソ」として広く知られていた。
 これらは、ヨーロッパ音楽の二つの基本的な傾向であったが、一般の状況ははるかに複雑であった。教会はもう均質的なものではなくなっていたし、ヨーロッパの社会構造も流動的なものになっていた。これまで、音楽といえば、--無名の、書き留められることは決してなく、それ故失われてしまった民衆の音楽はさておき--教会や宮廷、大貴族のものであった。しかし、今や、増大しつつある影響力を持った、教養ある中産階級が、音楽を作ったり音楽を要求するようになっていた。大規模な音楽に関する出版、それにはイタリア音楽の含まれている割合が大きいのだが、それが、イタリアからフランス(1528年から、パリのピエール・アテニャン、その四年後にはリヨンのジャック・モデルヌ)ドイツ(1538年からウィッテンベルクのゲオルグ・ロー、1542年からニュールンベルクのモンタヌス(ベルク)とノイバー)そして、ネーデルランド(1543年からアントワープのタイルマン・スサート、1545年からはレーベンのピエール・ファレーゼ)に広まった時に、一層容易になった。反対に、著名な作曲家達は、一層民衆の音楽に興味を示すようになり、そのメロディーを鍵盤音楽やリュートの曲に編曲したり、器楽の変奏曲の主題としたり、ミサ曲の主題としたりすることもあった。
 素人による個人的な音楽作りは、ずっと以前から行われていたに違いないが、規模の上では、印刷術の発明によって可能になったほど盛んであったことはなかっただろう。それに、印刷物そのものも、素人達が何を望んでいたと考えられていたかを私たちに語ってくれる。フロットラとマドリガーレは、商売上明らかによい分野であった。--儀式のためのマドリガーレもあったが。フランスの出版社たちは、ポリフォニーのシャンソンとその器楽への編曲については、活発な市場を見いだしていた。作曲家達は、極めて粗雑な形においてさえ、それに基づいてミサ曲を作曲した。1570年にアカデミー・ドゥ・ポエジー・ドゥ・ムジーク(詩と音楽のアカデミー)がジャン・アントワーヌ・ドゥ・バイーフの主導で創立されるよりも前に、フランスの作曲家達は、ムジーク・ムジュレ・ア・ランティーク(古風な韻律音楽)の中で、ヒューマニストの歌の究極の形を発展させていた。これは、音符、休符の長さが、歌詞の韻律的な量によって完全に決定される音楽であり、それ故に、音対音の作曲が不可欠であった。しかし、他のところではどこも、--マドリガーレ、シャンソン、ドイツのポリフォニーのリートにおいても、ローマ教会の音楽、ルターの聖歌、カルヴァンの讃歌においても同様だが--音対音の記譜が極めて十分な形で要求されたのは、対位法の線というより、和声において言葉を明確にするためであった。また、別の原因、鍵盤上の手が、同様の効果を生みだした。
 16世紀のイギリス音楽は、あらゆる分野で極めて多産である。全体として、量的にも質的にも優れたものであった。しかし、イギリス島内だけのもので、その普及は、イギリスに楽譜出版者がいなかったため、悲しいかな遅れることとなった。教会音楽の伝統は、ヘンリー八世の中途半端な宗教改革特有の性格によって、混乱させられた。イギリスのパート・ソング(合唱曲)は盛んであったが、1588年以前に出版された例はほとんどない。マドリガーレの本当の影響も、その1588年に位置づけられる。その年、トーマス・イーストが「ムシカ・トランサルピナ(アルプスの彼方の音楽)」というイタリアのマドリガーレ曲集、それには英語の翻訳とバードの英語のマドリガルが付けられていたが、それを出版した。それは、イギリス文化が、イタリアのあらゆるものにこの上なく魅惑されることになる時期を予見するかのようで、イタリアの模倣の洪水の先触れであった。マドリガーレだけでなく、カンツォネッタやバッレットが、イギリス風の呼び名でイタリアのオリジナルに基づいてモデルとされ、--時には余りによく似た形で--最後には印刷されて、一般の親しむところとなった。イギリスの鍵盤音楽も、少なくとも同じ位古い伝統を持ち、同じくらい大量に生み出され、後に、ズヴェーリングを通して、サムエル・シャイト以降のドイツ・オルガン学派に影響を与えた。しかし、「パルテニア(乙女の歌)」という題の小さな曲集が出版されたのは、1612年になってからである。
 イタリアの鍵盤音楽は、ローマ生まれのアンドレア・アンティコが1517年にフロットラのオルガン曲集を発行した後も、決して出版社に事欠くことはなかった。しかし、イタリアがその後数世紀にわたって優位に立つことになったのは、器楽音楽そのもののためではなかった。もちろん、器楽音楽はイタリアの優位が明らかにされる主要な形態ではあったが、そうさせたのは、詩的なテキストを音楽に表現しようと絶えず駆り立てる力であった。16世紀後半のマドリガーレの作曲家達は、半音階主義、音の色彩、音の象徴主義などの手法を導入して、当時の偉大なマニエリストの画家達--エル・グレコやカラヴァッジョ--の作品同様、劇的に、激しい情感や絵画的なイメージを伝えようとした。宮廷の娯楽、仮面舞踏会や劇の間奏曲のための音楽では、学識あるヒューマニスト、ジロラモ・メイ、彼は古代ギリシア音楽はモノディ的であるという正しい結論に達したのだが、彼の影響を受けたフィレンツェの音楽家の一群は、マドリガーレと「これまでとは別の歌い方(un altro modo de cantare che l'ordinario)」である新しい種のモノディとを融合させた。これは、レシタティヴォとして知られているもので、オペラ音楽では重要な要素となった。しかし、最初からレシタティヴォは権威的・教条的に用いられたわけではなく、歌や踊り、器楽演奏などを時折交えて用いられた。そして、その新しいジャンルでの最初の真の大傑作、1607年のモンテヴェルディの「オルフェオ」では、声楽での旋律の要素は--名人芸を含め--これまでになくはるかに多くなっていた。フランスでは、舞台装置、歌、踊り、器楽音楽といった同じ内容のものが、同様に、ヒューマニスト、バイフの「アカデミー」の影響の下、組み合わされていた。しかし、その組合せの割合が異なり、結果できたものは、オペラではなく、バレ・ドゥ・クール(宮廷バレー)であった。バレ・ドゥ・クールは、確かに、ずっと後になって現れたフランス・オペラに大きな影響を及ぼしたけれども、フランス・オペラはフランスだけのものに留まる一方で、イタリア・オペラは、その頃までには、もうヨーロッパを席巻するオペラになる途上にあった。
 オペラは、イタリア人の天賦の才にことに合致していた。劇の感覚、情熱的な音楽性、開口母音と流音の多い言葉。オペラがヨーロッパに広まるにつれて、様々な国の言葉に対抗して、本来の言葉(イタリア語)を保とうとする傾向があったとしても、驚くにあたらない。実際、もし、イタリアが西洋音楽の表現力に根本的に寄与したものを一つだけ挙げなければならないとすれば、イタリア語によって生み出された温かく感覚的なカンティレーナでなければならないだろう。オペラは、やがて、厳密に知的な芸術の形態であることをやめ、また、1637年、ヴェネティアに最初の公共のオペラ・ハウスがオープンすると、今度は専ら貴族のものであることもやめた。もちろん、王侯貴族の支援がなければ、繁栄することはめったになかったけれども。(17世紀後半、ハンブルクに創設されたオペラだけは例外で、社会的前兆であった。)その世紀の終わりには、レシタティヴォは次第になおざりにされ、間に入れられたアリアの数が増え、アレッサンドロ・スカルラッティとナポリで生まれたり訓練された数多くの作曲家たちによって、アリア・オペラの全盛期が到来した。それは、今や非常にコスモポリタンなものになり、ヘンデル、ハッセ、グルック(フランス・オペラに転向するまで。フランス・オペラの最初の巨匠リュリはイタリア生まれであった。)ハイドン、そして、誰よりも偉大なモーツアルトによってイタリア・オペラは作曲された。
 18世紀になって、各国語によるオペラが書かれるようになるまで、「オペラ」といえば、ヨーロッパの隅から隅まで、イタリア・オペラと同義語であった。スペインは1735年からナポリを王国の一部としていたが、オペラはほとんど全く、ナポリとパルマ出身の人々の手にあって、時折、スペイン語のテキストに作曲されるだけであった。ヴァサとサクソン王との下で、ポーランドのオペラは純粋にイタリアのオペラであった。アラヤは、イタリア・オペラを1736年にロシアに導入し、半世紀近くの間、宮廷のオペラのほとんどすべてをイタリア人が独占した。その間、前途有望なロシアの音楽家、ボルトニャンスキーやベレゾフスキーは、イタリアに派遣され訓練を受けた。--そして、イタリアでオペラを作曲した。イギリスでは、ヘンデルが最もライバル視したのは、イタリア人ボノンチーニであった。そして、次の世代、パスティッチョとバラード・オペラにとりつかれた都市ロンドンで、最も成功したオペラ・セリア(正歌劇)の作曲家は、完全にイタリア化したヨハン・クリスチアン・バッハであった。フランスは、フランス独自の美学に基づいて自国語によるオペラの強い伝統を築いていた国であるが、あの有名な音楽の市民戦争の一つを発火させるためには、イタリアの楽団が訪れて、オペラ・ブッファ(喜歌劇)の曲目を演奏するだけでよかった。この戦いは、「ブフォン論争」と言われ、25年後、イタリア派が、その頃にはフランス化していたクルックに対抗し、ピッチーニを押し立てて再燃した。
 イタリアがアポロンの巨像のようにヨーロッパを支配したのは、オペラだけではなかった。1590年代、ポーランド王、ジギスムント三世は、マレンツィオをワルシャワに招き、少なくとも半世紀の間、王立礼拝堂の指揮者はイタリア人であった。17世紀最大のドイツの作曲家、ハインリヒ・シュッツは、ヴェネチアでジョバンニ・ガブリエリに学び、そこでイタリアのマドリガーレを作曲した。そして、20年後モンテヴェルディの足下に座するため(イタリア)に帰った。イタリアはオラトリオ、室内カンタータ、ソナタ、コンツェルト、そしてシンフォニアを生み出した。ヴァイオリンも提供した。--(ヴァイオリンは、古いヴィオル族の楽器と違って、演奏に際し、ヴィブラートの演奏法を用い人の声と競い、人の声を凌駕するほどである(と言われてきた)楽器である。--実際は、ヴィオラとチェロを含むヴァイオリン族の楽器だが。その最も優れた制作者は、アマーティ、グアルネーリ、ストラディヴァーリ一族であり、最も優れた特異な才能を発揮した作曲家は、コレルリ、ヴィヴァルディ、タルティーニ、ヴィオッティであった。パーセルはトリオ・ソナタを初めて作曲するのに「最も有名なイタリアの巨匠達を、ただ忠実に、まねようと努力した。」と断言している。その数年後には、 フランスの作家、ル・シェルフ・ドゥ・ラ・ヴィエヴィーユは、「このイタリア様式のソナタの作曲家のこの情熱」のことを苦々しく思うと不平を述べていた。コレルリのソナタで育まられたフランソワ・クープランは、自分の初期の作品では、自分の名をイタリア語に聞こえるようにアナグラムして作曲した。また、後になっても、素晴らしい「アポテオーゼ(讃歌)」の中で、コレルリに敬意を表している。バッハ自身は、ヴィヴァルディのコンツェルトを、オルガンやハープ・シコードのために編曲したり、レグレンツィオやコレルリからフーガの主題を借りることを潔しとしないというわけではなかった。
 この類いまれなる興隆も最後には衰退していくのであるが、それは、その伝統を受け継ぐ優れたオペラ作曲家がいなかったからではない。各国語によるオペラは、--時折、意識的に国家主義的になり、それ故、ある程度反イタリア的ではあるが--次から次へと才能ある音楽家を輩出していたにもかかわらず。また、それは、主としてシンフォニーやソナタの重要性が増したからでもなかった。この分野では、ボッケリーニやクレメンティのような優れた音楽家でも、ほとんど、ドイツの同時代人には対抗することができなかった。ロマン主義の酵母が熟しつつあった。--そして、イタリアの才能は、特にロマン主義には共感できるものではなかった。オペラ作曲家は、ロマン主義文学から主題を取ることもあるかも知れない。しかし、一方で、内面的で自己中心的な詩であり、他方では、天を揺るがす嵐のエネルギー(を持つロマン主義)が、アルプスの北の音楽を征服し、イタリア音楽は次第に凡ヨーロッパであることをやめていった。

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