2. 演劇見せ物
ヘレニズムの文化は、誰が音楽を実践していたかそれほど考慮していなかった。演奏家や歌い手、役者(俳優)たちは、音楽の真の愛好家とは考えられていなかった。音楽は、一つの科学的理論、あるいは哲学的思弁と理解されていた。
逆に、多くの民衆は、音楽家たち、特にバッカス賛歌やパントマイムの専門家となった役者で歌い手の方に真の勝利宣言をした。そうした勝利は、ローマ皇帝に欲しいと思わせたいなら、注目を引くようにしなければならなかった。たとえ、軍や政治のヴァージョンであるとしても、勝利を得たものは、そうした専門家たちであった。ネロは、古代の帝国皇帝の愛好家の中でも最も色彩豊かな恐るべき皇帝であった。そして、カリグラ帝(Caligola)、ハドリアヌス帝(Adriano)、ヴェロ帝(Vero)、コモド帝(Comodo)、エリオガバロ帝(Eliogabalo)によって後が継がれた。実際のところ、芸術的な欲望と政府の善きあるいは悪しき結果との間には、何の関係もない。音楽の愛好家である皇帝の中に、ネロ帝とカリグラ帝と並んで最良の皇帝ハドリアヌス帝がいることからもわかるように。
バッカス賛歌とパントマイム(無言劇)には古典の悲劇の精神が生き残っていた。
古代には、バッカス賛歌は、悲劇や喜劇の競技会に定められていたアテネの祭典の間に演奏された。それは、悲劇や喜劇の合唱団より多くの人数の合唱に委ねられ、役者はいず、音楽と舞踏とが著しく支配的なものであった。エウリピデスの同時代人ティモテオ(Timoteo)は、バッカス賛歌の最も有名で論争を呼んだ進歩主義者の作家であった。(その賛歌の中に)進歩的叙述的(物語的)性質の様式を導入した。それは、エウリピデスにも叱責されたものである。ヘレニズムの時代、バッカス賛歌は、東洋の劇場でも西洋の劇場でも、普遍的(広く)に称賛されたが、楽器の伴奏で朗唱されたり歌われたりした名高く有名な悲劇のエピソードの一種のアンソロジー(選集)からなっていた。主人公は、ある種の演劇の大根役者で、名人芸的な上演は、その起源はディオニシオスの礼拝の中にあるショー的演劇のジャンルの一つであった。
パントマイム(無言劇)は、古代の悲劇のレパートリーがより不安(危険)な方向へ変形したものであった。事実、ローマのパントマイムでは、死をもたらすエピローグが現実に上演された。台本によってのごとく、役者でさえ、最後には死への判決を受け、現実に舞台で殺人が行われた。
ヘレニズムの名人芸は、楽器の発明でも特異な局面を生じた。古典時代の典型的なアウロスとキタラ、様々な種類の管楽器、弦楽器、打楽器に、紀元前3世紀からオルガンが加えられた。管の中の空気圧のシステムに応じて、水圧のあるいは空気圧のオルガンがあった。その楽器の何らかの痕跡、それは、アレクサンドリアで発明されたと言われ、クテシビオスとか言う発明家によって作られたものだが、私たちの時代(現代)にまで伝えられている。音楽の記録文書とともに、オルガンは、ヘレニズムが現在にまで遺産として残した発明品の一つである。
最後に、音楽は、ギリシアとローマとの区別をほのめかしているようには思われない。ローマ世界になんら障害なく普及したヘレニズム文化の運命に従ったと考えられている。しかしながら、いくつか違いは強調されなければならない。
ギリシアと比べると、ローマでは、音楽は、詩や演劇の伝統を誇っていなかった。むしろ、古風な文化に、音楽に属していたものに似た特別な機能を再び身にまとわせた。聖なる儀式や祝典、軍の儀式や祝典の機能を。多くは管楽器によって、技術的には基本的な機能であるが。
さらに、ローマの音楽では、エトルリアの伝統に従い、様々な性質の、例えば、管楽器や打楽器といった楽器の楽団が用いられた。ギリシアでは、声の音楽でも、楽器の音楽でも、キタラやアウロスの孤立した音が好まれ、他の楽器は無視されたものだが。
当然、劇場での音楽の使用は、ローマでも盛んであった。また、もし、ヘレニズム文化の影響がかなりの大きさで示されるとしても、演劇のローマあるいはイタリアの現実のジャンル、特に、喜劇には、恐らく、とりわけ楽器の選択とその取り組みにおいて、土着の音楽が存在していただろう。しかし、ローマの演劇においても、歌と言葉の関係は、ギリシアの詩と演劇とにおいて典型的であったように、ますますギリシア化した文化の影響を一層強く感じるに違いない。
音楽の使用において、ギリシア文化とローマ文化は重なりあい、階層的に場を占めたと断言することができよう。ローマの特徴は、楽器とその音を機能的に利用することで上演されたが、ヘレニズムの特徴は、音楽的名人芸によって演じられた。どれほど遠くの予測できない発達が未来に影響を及ぼすことになるのかという独立した価値として理解された自ら自身にまで。
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