第3章 ヘレニズムとローマ

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[1. 理論家たち][2. 演劇見せ物]

1. 理論家たち

 エウリピデスの悲劇とアリストファネスの喜劇で、紀元前5世紀にアテネでは古典古代の音楽の時代は終わる。続く時代はそれより長い。ヘレニズムとローマ帝国を含む時代にまで広がる。すなわち、アレクサンドロス大王の統治(BC336年-BC323年)後300年とローマ帝国創設からロムルス・アウグストゥスの廃位(476年)によって示される西洋でのその終焉までの間のほぼ500年間である。  

 ヘレニズムの時代、他の芸術同様、音楽は反復の局面に入った。このことは、創造を止めたことを意味しない。むしろ、創造性が音楽の他の局面様相と結びついたことを意味する。新しい形式や新しい言語を構築する代わりに、古い形式と古い言語を新しい創造原理で、妙技や名人芸で再解釈し、融合させることを好んだ。そして、伝統を再解釈するまさにその必要から、言語と形式の研究分類が大規模になされた。  

 ヘレニズムは、事実、価値の頂点には古典の作品があった。第二番目に、古典音楽言語によって獲得された文法及び構文(統語)論の規則があった。ギリシア音楽の論文や理論は、音楽の文書とともに、紀元前4世紀と紀元4世紀との間に、すなはち、アリストクセノスとアリピオ(Alipio)との間に書かれた理論的文献によって伝えられている。その2人の著者は、恐らく、実際に著作したもの以上のテキストに、その作者として伝えられているだろう。複雑な専門用語、問題があるだけでなく詳細な分類、抽象的なだけでなく分析的な合理化は、この理論的実践的文献を特徴付け、それによって音の空間の理性的前進的定義へ一義的傾向を推論している。  

 事実、ヘレニズムの理論家たちは、モード(旋法)に定義を与え、その中で古代のノモスとハルモニアとの違いを融合させ、その違いは消えてしまった。モードは、はっきりと一連の音で、その連続の間隔をとること(全音、半音、4分の1音)から抽象的(理論的)で、同時に特別な図式(定型)に等しいものが生ずる。その図式(定型)が多くの旋律を収集することができることから抽象的で、その連続が開始音からオクターヴの自然の7音に広がるという条件付きであることから特別である。また、このように制限された音の範囲に限られているので、自然の音を変えるのでなければ、オクターヴ内に移したり再構築することはできない。  

 言い換えれば、ノモスやハルモニアの現実の多くの特別の場は、そこから一定のよく知られたメロディが生まれる限定された組み合わせの可能性と同一視されるが、いくつかのモードに分類された。ドリア旋法、フリギア旋法、リディア旋法、ミソリディア旋法やその変形、いわゆるヒポ- 旋法やヒュペル- 旋法に、あるいは、それらの「種(genere)」の変種、エナルモニコ(異名同音)やクロマティコに変わる。一般的な図式(定型)として採用された旋法の各々で、共通の特徴による分類によって理解された無限の旋律を生み出すことができる無限の組み合わせの可能性が与えられてた。中世初期のキリスト教聖歌、続いて、人文主義の時代及びルネサンスに続いて起きた旋法の数の減少は、ヘレニズムの合理化を完成し、音空間の構成を近代の調性の方、近代の2つの調、長調と短調の方へと導いた。  

 しかしながら、この具体的な理論化と並んで、ヘレニズムには、神秘的なタイプの著者の学術書が続いた。それらは、ピュタゴラスに触れ、音楽表現の神秘を探っていた。ピュタゴラス主義者たちは、この世界の音楽は、単に、まさに先立つ生に於いて人間の魂によって聞かれた天球の音楽のハルモニア(ハーモニー)の弱いこだまに過ぎないと確信しており、この確信から次のような語句が導かれる。「聞こえない音楽は、聞こえる音楽より優れている。」ピュタゴラス主義者のこの言葉は、音楽への単に想像豊かな接近に過ぎないように思える。トッマソ・カンパネッラ(Tomasso Campanella)の確信を育まないのでなければ。彼は、17世紀に天球のハーモニーを聞くことができると考えていた。もし、目にとっては望遠鏡で代表されるような聴覚の装置が組み立てられたなら。しかし、ピュタゴラスの理論は、また西洋の音楽に影響を与え、私たちがこれから見るように、バッハやベートーヴェンにまで至る音楽創造を考える上で、一つの方法として刺激が与えられる。

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2. 演劇見せ物

 ヘレニズムの文化は、誰が音楽を実践していたかそれほど考慮していなかった。演奏家や歌い手、役者(俳優)たちは、音楽の真の愛好家とは考えられていなかった。音楽は、一つの科学的理論、あるいは哲学的思弁と理解されていた。  

 逆に、多くの民衆は、音楽家たち、特にバッカス賛歌やパントマイムの専門家となった役者で歌い手の方に真の勝利宣言をした。そうした勝利は、ローマ皇帝に欲しいと思わせたいなら、注目を引くようにしなければならなかった。たとえ、軍や政治のヴァージョンであるとしても、勝利を得たものは、そうした専門家たちであった。ネロは、古代の帝国皇帝の愛好家の中でも最も色彩豊かな恐るべき皇帝であった。そして、カリグラ帝(Caligola)、ハドリアヌス帝(Adriano)、ヴェロ帝(Vero)、コモド帝(Comodo)、エリオガバロ帝(Eliogabalo)によって後が継がれた。実際のところ、芸術的な欲望と政府の善きあるいは悪しき結果との間には、何の関係もない。音楽の愛好家である皇帝の中に、ネロ帝とカリグラ帝と並んで最良の皇帝ハドリアヌス帝がいることからもわかるように。  

 バッカス賛歌とパントマイム(無言劇)には古典の悲劇の精神が生き残っていた。  

 古代には、バッカス賛歌は、悲劇や喜劇の競技会に定められていたアテネの祭典の間に演奏された。それは、悲劇や喜劇の合唱団より多くの人数の合唱に委ねられ、役者はいず、音楽と舞踏とが著しく支配的なものであった。エウリピデスの同時代人ティモテオ(Timoteo)は、バッカス賛歌の最も有名で論争を呼んだ進歩主義者の作家であった。(その賛歌の中に)進歩的叙述的(物語的)性質の様式を導入した。それは、エウリピデスにも叱責されたものである。ヘレニズムの時代、バッカス賛歌は、東洋の劇場でも西洋の劇場でも、普遍的(広く)に称賛されたが、楽器の伴奏で朗唱されたり歌われたりした名高く有名な悲劇のエピソードの一種のアンソロジー(選集)からなっていた。主人公は、ある種の演劇の大根役者で、名人芸的な上演は、その起源はディオニシオスの礼拝の中にあるショー的演劇のジャンルの一つであった。  

 パントマイム(無言劇)は、古代の悲劇のレパートリーがより不安(危険)な方向へ変形したものであった。事実、ローマのパントマイムでは、死をもたらすエピローグが現実に上演された。台本によってのごとく、役者でさえ、最後には死への判決を受け、現実に舞台で殺人が行われた。  

 ヘレニズムの名人芸は、楽器の発明でも特異な局面を生じた。古典時代の典型的なアウロスとキタラ、様々な種類の管楽器、弦楽器、打楽器に、紀元前3世紀からオルガンが加えられた。管の中の空気圧のシステムに応じて、水圧のあるいは空気圧のオルガンがあった。その楽器の何らかの痕跡、それは、アレクサンドリアで発明されたと言われ、クテシビオスとか言う発明家によって作られたものだが、私たちの時代(現代)にまで伝えられている。音楽の記録文書とともに、オルガンは、ヘレニズムが現在にまで遺産として残した発明品の一つである。  

 最後に、音楽は、ギリシアとローマとの区別をほのめかしているようには思われない。ローマ世界になんら障害なく普及したヘレニズム文化の運命に従ったと考えられている。しかしながら、いくつか違いは強調されなければならない。  

 ギリシアと比べると、ローマでは、音楽は、詩や演劇の伝統を誇っていなかった。むしろ、古風な文化に、音楽に属していたものに似た特別な機能を再び身にまとわせた。聖なる儀式や祝典、軍の儀式や祝典の機能を。多くは管楽器によって、技術的には基本的な機能であるが。

 さらに、ローマの音楽では、エトルリアの伝統に従い、様々な性質の、例えば、管楽器や打楽器といった楽器の楽団が用いられた。ギリシアでは、声の音楽でも、楽器の音楽でも、キタラやアウロスの孤立した音が好まれ、他の楽器は無視されたものだが。

 当然、劇場での音楽の使用は、ローマでも盛んであった。また、もし、ヘレニズム文化の影響がかなりの大きさで示されるとしても、演劇のローマあるいはイタリアの現実のジャンル、特に、喜劇には、恐らく、とりわけ楽器の選択とその取り組みにおいて、土着の音楽が存在していただろう。しかし、ローマの演劇においても、歌と言葉の関係は、ギリシアの詩と演劇とにおいて典型的であったように、ますますギリシア化した文化の影響を一層強く感じるに違いない。

 音楽の使用において、ギリシア文化とローマ文化は重なりあい、階層的に場を占めたと断言することができよう。ローマの特徴は、楽器とその音を機能的に利用することで上演されたが、ヘレニズムの特徴は、音楽的名人芸によって演じられた。どれほど遠くの予測できない発達が未来に影響を及ぼすことになるのかという独立した価値として理解された自ら自身にまで。

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