数学史[活動の中心][理論的著作][マイナーな著述家][ラムス][ヴィエタ][ヴィエタの代数の著作][マイナーな著述家][実用数学] |
活動の中心 16世紀フランスでの数学活動の中心は、パリとリヨンであった。パリは、知的なあらゆる活動において古代から重要であったが故に。リヨンは、商業上の覇権と北の首都の理想主義を幾分なりとも育みたいという欲求のために。理論的な書物は、パリの印刷業者の方が頻繁に出版する一方で、実用数学として知られる数学の著作の出版は、最近のある著述家が「気難しく無愛想なリヨン人・・・彼らの価値観では、えり抜きの人間性を備えた人は、富裕なシルクの商人である」と呼んでいる人々の間でかなり行われていた。パリは、まだ教会組織の意味では、メトロポリタンではなく、古代ローマの政治的な区分が教会によって保持され、当時そして 1622年まで、首都はサン(Sans)の首都大司教に従属していた。しかし、こうしたことすべては、パリのフランス全土に対する知的政治的優位に何ら影響を及ぼさなかった。
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理論的著作
フランスの知的雰囲気の中で、ギリシア数学の立場を維持しようとしたフランスの著述家の第一の者は、ジャック・ル・フェヴル・デスタプル(Jacques le Fevre d'Estaple)(1)、彼のラテン語の著作では、ヤコブス・ファベル・スタプレンシス(Jacobus Faber Stapulensis)であった。彼は「ソルボンヌの博士(Doctor Sorbonnicus)」で、聖職者であり、モー(Meaux)の司教代理であり、パリのルモワンヌ(Lemoine)大学の哲学の講師であり、フランソワ1世の息子の家庭教師であった。彼は、ボエティウスの算術の概論(2)と幾何学に関する著作を書き、サクロボスコの天球(Sphere)とリトモマキアの数のゲームを解説し、その他様々な著作を出版した。彼自身の書いたものは、重く理論的であり、中世数学の死にゆく姿を表現している。(3) シャルル・ドゥ・ブエル(Charles de Bouelle)(4)は、ノワヨン(Noyon)の司教座聖堂参事会員であり、神学の教授であるが、幾何学(5)と数の理論(6)について著述した。後者の著作では、完全数に関する書物が含まれている。しかし、彼は、サイクロイドの著作で特に注目に値する。彼は、科学的観点からこの図形を考察した最初の一人である。彼は、また、正凸面(regular convex)と星形多角形についても著述している。
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マイナーな著述家
この時代の数学者の中で、最もうぬぼれが高い人の一人で、最も価値のない人の一人が、オロンス・フィネ(Oronce Fine)(7)、一般にはオロンティウス・フィネウス(Orontius Fineus)(8)として知られている人である。彼は、若い頃に、フランスと教皇との間の合意、政教条約(Concordat)に反対したために投獄された。釈放されるとすぐ、彼は、教えることに専念し、1532年頃、新しく設立された施設、後にコレージュ・ド・フランス(College de France)(9)として知られる学校で数学の教授になった。彼は、専ら天文学について書き、円の求積に関するもの(11)を含む算術と幾何学に関するいくつかの著作(10)を書いている。彼の著作の幾つかは、コジモ・バルトリ(Cosimo Bartoli)によってイタリア語に訳された。彼は、いくらか名声を得た頃、貧困のうちに死亡し、彼の著作は、すぐに忘れ去られた。 数学に非常に関心を払った16世紀のフランスの何人かの医師たちの中で、唯一人すぐれた才能を示したのは、ジャン・フェルネル(Jean Fernel)(1497-1558)(12)である。彼は、1530年にパリで医学の学位を受け、4年後職業として、その学部に席を得ることになった。彼の崇拝者たちは、彼のことを現代のガレヌス(Galen)と呼び、彼のウニウェルサ・メディキーナ(Universa Medicina)は、30版を超えた。数学の分野では、彼は比に関するボエティウス型の著作を出版し(1528年)、彼の子午線1度の長さの計算は、極めて満足のいくものであった(13)ので、測地学の歴史では、彼は価値ある評価を受けている。 当時のディレッタント(素人)の数学者と正しく呼ばれる相応しい人々の中に、クロード・ド・ボワシエール(Claude de Boissiere)(14)がいた。彼は、天文学と算術についてだけでなく、詩と音楽とについても書いている。彼の算術は(15)、中世の理論と当時の実用計算との結びついたものだが、100年戦争の結果、数学が戦争の学問に関連づけられていた時代の多くの書物の一つである。 同じ頃、フランソワ・ド・フォワ(Francois de Foix)、コント・ド・カンダル(Comte de Candale)(1502-1594年頃)も、別のディレッタントで南フランスの司教であり、エウクレイデス(ユークリッド)の「原論」の一層優れた翻訳に興味があったが(16)、幾何学の全般的理論には、何ら寄与しなかった。
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ラムス(Ramus)
ピエール・ド・ラ・ラメ(Pierre de la Ramee)(17)、ラテン語形の名、ペトルスあるいはペテル・ラムス(Petrus or Peter Ramus)の方がよく知られているが、貴族であったが貧しい家の出であった。祖父は、ブルゴーニュの地所から追い出され、炭焼き人になることを余儀なくされた。また、父は、貧しい百姓であった。ピエールは、若くして並はずれた知力を示し、多くの困難を克服し、パリのコレージュ・ド・ナヴァル(College de Navarre)の裕福な学生の召使いとしての仕事を得た。昼間は、この立場で働き、夜は勉強して修士の学位への道を拓いた。わずか21歳の時、1536年のことであった。彼は、知的ヨーロッパの注目を集めた。「アリストテレスが言っていることは、すべて偽りである」(18)という彼の論題による、当時の偶像への攻撃によって。この後すぐ、彼は教師の経歴を始めるが、その職で高い地位を得るのに長くはかからなかった。何年もの間(1546年から)、彼はコレージュ・ド・プレスレ(College de Presle)の学長であり、コレージュ・ド・フランスの教授職にあった。(1551年から) 彼は、偉大な力のある雄弁家であり、巧みな論客であったが、彼の輝かしい経歴は、1572年8月26日聖バーソロミューの日の虐殺で幕を閉じた。彼の著作は、主として哲学と人文主義(学)であったが、多くの注意を数学に向け(19)、エウクレイデス(ユークリッド)の「幾何学原論」を編纂し(20)、理論的算術(21)や幾何学(22)、光学について著作している。
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ヴィエタ
16世紀フランスの数学者すべての中で最も偉大なのは、ビゴティエール殿(領主)、半ばラテン語名のヴィエタの方でよく知られているが、フランソワ・ヴィエト(23)であった。彼は、若いとき、故郷の町で法を学び、後に政治的経歴をたどり、ブルターニュ議会のメンバーとなった。彼の数学に関する最初の著作は、1579年にパリに現れた。1580年に、彼はパリの master of requestsとなり、後に、王の私的評議会のメンバーとなった。こうした状況の下、彼は、数学の研究に多くの暇な時間を捧げることができ、その結果、彼は、この学問で高い名声を得た何人かの有名な人の例の一人と見なされるようになった。生涯の晩年になるまで、主にそれに専念したわけではなかったが、実際、ヴィエタは、アドリアン・ヴァン・ルーメン(Adriaen van Roomen)への手紙の中で、彼は数学者ではなく、単に余暇の時、数学を楽しむ者に過ぎないと告白している。 ヴィエタは、主に代数について書いたが(24)、また、幾何学(25)、暦学、また数学全般にも興味を持っていた。グレゴリウスの暦法改革に関連して、彼は、クラウィウスへの苦い対抗心を通して、また、彼の全く非学問的(科学的)な態度を通して、不幸にも多くの悪評を得た。彼は、政府のための、外交の秘密文書の解読の専門家でもあった。
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代数に関するヴィエタの著作
ヴィエタが広く代数や三角法の発展に寄与したことは、第2巻で示されるだろうが、彼の著作について簡単に触れておくことがここでは好ましいだろう。彼は、代数学を表すのに文字を用いた最初の一人であった。しばしば、未知数に母音を、既知数に子音を用いている。彼は、sinφの項で、sin nφの公式を発見し、n次元の方程式が nの次の要素で作られているのを証明するのに前進した。また、f(x)=0の方程式の根を加え、減じ、掛け、kで割る方法を示し、無限の積でπの数値を決める最も初期の方法の一つを示した。また、分析的な三角法の基礎となるよう代数を幾何学に応用した。彼は、未知数の2乗に Aqを、3乗に Acを、4乗にはAqqなどを用い、彼の先行の人々がなしたより単純に累乗を、また、角の3等分の問題と3次方程式の解法との関係を明らかに示していた。彼の面白い無限積級数の繋がりが彼の次の式に見られる。 2/π=√1/2 * √(1/2+1/2√1/2) * √(1/2+1/2√(1/2+1/2√1/2))(註:正確に表示できていない)
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マイナーな著述家たち
この時期、数学の理論に関する著述家の中で、リヨンで著作を出版し何らかの注目を引く唯一の人が、ヨアネス・ブテオ(Joannes Buteo)(26)、聖アントニウス修道会(St.Anthony)の兄弟(修道士)で、後に総院長となった人である。彼は、主に、幾何学(27)と算術(28)について書いた。彼の幾何学は、円の求積についてのオロンス・フィネの様々な主張を論破した。何らかの才能があるフランスの数学者で、パリ以外の地で出版した別の例は、この場合、フランス国外であるが、フランチェスコ・ダル・ソーレ(Francesco dal Sole)の例がある。彼は、イタリアのフェッラーラで著作し、ヴェネチアで算術を出版した。(29) その書の言及に値する唯一の特徴は、数と空間の概念を結び付けたことである。(30) 恐らく、16世紀にフランスで出版されたもっとも詳細な、しかももっとも実用的でないものの一つである算術は、ピエール・フォルカデル(Pierre Forcadel)(31)のものであっただろう。この著述家については、彼が長い間イタリアに住んでいて、最後には、ラムスの努力でパリにコレージュ・ロワイヤル(College Royal)の数学教授として呼ばれたということを除いて、ほとんど知られていない。彼は、エウクレイデス(ユークリッド)の 第I-VI書とプロクロス、アルキメデスその他の著述家の作品の一部を訳している。
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実用的数学
算術のリヨン学派の最も初期で、最も破廉恥で、最も輝かしい人の一人は、リヨン生まれだが、ヴィユフランシュ(Villefranche)として知られるエスティエンヌ・ド・ラ・ロッシュ(Estienne de la Roche)(32)であった。彼は、シュケ(Chuquet)の弟子で、彼の算術(33)には、その時以来出版されたシュケの写本から多くの資料を不当に利用している。恐らく、16世紀の他のどのフランス人算術家も、計算方法とそれの商業への応用には、より優れた見解は示していないだろう。(34) もう一人の南の学派の注目すべき著述家は、ルマン生まれのジャック・ペレティエ(Jacques Peletier)(35)、また、ラテン語名ペレタリウス(Peletarius)として知られる人物である。彼は、ベィユ(Bayeux)の大学の学長で、ルマンの司教の秘書、ボルドー(1550年)、ポワティエ、リヨン、そしてパリの医者であって、最後にルマンの大学の学長になった人である。彼は、文学全般と初等数学に貢献した。彼の算術(36)は、ポワティエ(1549)とリヨン(1554年)で出版された。彼は、また、代数(37)、エウクレイデス(ユークリッド)の「原論」、直線と角の幾何学、そして円についても著述している。彼は、方程式の項を0に等しくし、すべての根が整数であるなら、どの根も最後の項の約数であると述べている。 もう一人のかなり有名なリヨンの算術家は、イアン・トレンチャン(Ian Trenchant)(1525年頃生まれ)である。彼の算術(38)は、普通の商業への応用と、一般の数だけでなく、カウンタ(計算盤)の操作も含んでいる。 リヨンで出版された実用的な表の中に、パリ大学の数学教授、モント・リガル・ピエ(ド)モントヮ(Monte Regal Piedmontois)による一連の表がある。これらの表は(39)、羊皮紙に美しく印刷されていて極めて珍しいものである。その著作には、100x1000までの数の積が含まれていて、著者は、1575年にヴェネチアで、その表の一部を出版したと語っている。
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