数学史

[16世紀全般][学問と文学][数学の状況]

16世紀全般

 1500年頃まで、世界の数学は、何らかの記録が私たちに語りかけている限り、どの世紀も少数の個人に限られたものであった。印刷技術がちょうど発明されたばかりで、15世紀になっても比較的無名の技術者にとって彼らの貢献や関心を知らしめる簡単な方法は、全くなかった。それで、彼らは彼らのなした業績の記録を何も残せなかった。しかし、16世紀になると、印刷された書物が名前を永久に残し始めたので、(すべてを取り上げることはできず)今やスペースが許す限りで、そうしたものに注釈をするためには多くあるうちのいくつかを選択するより仕方なくなっている。(1)

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学問と文学

 さらに、歴史的な出来事が、今やより自由に記録され始め、世界は急速に動き、数学の発展に及ぼした影響は、さらに跡づけるのが難しくなる。新世界の幕開けは、商業算術の関心を非常に増大させるだろうということは明らかであり、その事実が16世紀に出版された書物によって十分証明されている。しかし、シェークスピアやセルバンテス、カモンイシ(Camoens)のような作家たちによって例証される偉大な文学運動やスペイン無敵艦隊(Armada)の敗北のような世界の出来事の影響は、学問科学の分野ではそれほど明らかではない。実際には、私たちは、当時の文学のルネサンス(文芸復興)を刺激したのは、その逆というよりむしろ、レオナルド・ダ・ヴィンチやコペルニクス、パリッシー(Palissy)やティコ・ブラーエ(Tycho Brahe)のような科学者たち影響であったと言うことができよう。

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数学の状況

 数学の分野での状況は、進展の過程で画期的なものであった。ユークリッド(エウクレイデス)の「幾何学原論」は、1482年に出版されて出現し、アポロニウスの「円錐曲線論(Conics)」は写本で知られていて(2)、そこから純粋数学の最も有望な分野が解析の領域に入っていた。二次方程式は、十分な解明がなされていたので、次のステップは三次方程式の解法を試みることであった。それは、特殊な場合だけ、円錐曲線の交差を用いることで、ギリシア人やアラビア人たちによって解明されていた。数学の発展が、自然と期待されるのは、この時、ここにおいてであった。これと並んで、よりよい記号、活版印刷術の要求に相応しいようなものの発展も期待されるだろう。三次方程式が解明されると、数学の世界では、4次そしてそれ以上の高次方程式を解くことが期待される。地理的な理由から、その先鞭はイタリアで取られたことを予想する。そして、また、天文学と航海術との要求が、より急速な三角法の発展を要求することになるだろうと期待する。これら予想されたすべての期待は、私たちがこれから見るように、成就される。実に、わずか一世紀の間に、アレクサンドリア学派が学問世界を支配していた時代からそれまでに成し遂げられたこと以上の発展を遂げるのである。

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原注1

 Encyclopaedia Britannicaの第7版を参照したことのある読者なら、"The Progress of Mathematical and Physical Science since the Revival of Letters in Europe"のJohn Playfairによる"Dissertation Third"が、この時代の研究の非常によい背景を提供してくれることに気づくだろう。

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原注2

 1537年に、ヴェネチアで最初に出版された。Commandinus editionは、1566年、ボローニャで、Halley editionは、1710年、オックスフォードで出されている。

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