全般的な時代
中国の数学の歴史の中で最も面白い時代であり、事実、世界の歴史の中でも最も面白い時代の一つであるのは、1000年から 1500年までの5世紀(500年)の時代である。同時代のヨーロッパとは異なり、眠りからの目覚めの時代である。ヨーロッパは、古典時代の栄光が死に絶えるのを見、暗黒の季節が通り過ぎ、十字軍によって目覚めさせられ、13世紀には、非常な回復を成し遂げる。そして、15世紀に、移動型の印刷機の発明を通して、新しい思想世界と西半球の発見を通して新しい商業活動の世界が開かれた。
中国は、同様の経験をし、13世紀には、代数において大発展を遂げ、300年後のイエズス会宣教団の著作を通して、新しい文明を学んだ。
11世紀には、中国の数学は、ほとんど進歩しなかった。事実、史書の中に見いだせる何らかの重要な唯一の名は、天文局の長で国務大臣、そして、そこで見いだされる著作、恐らく中国では初めてだろうが、一連の難問の要約である著作の著者である 沈括(Chon Huo)(1011-1075)という名である。この要約は、形が四角錐に面取された最上列に2の2乗の小樽、最下列に12の2乗の小樽があり、すべてで11列に山積みになったブドウ酒の小樽の数に関する問題の解法の中に現れる。また、著者は、半径から円弧の長さを見出す問題も考えていて、その問題の難しさについて語っている。
1083年、政府は、劉徽(Liu Hui)(250年頃)の海島算経(Sea Island Classic)(1)を出版することで数学への関心を示している。そして、一年後(1084年)、政府は、張邱建(Chang Kiu-kien)(575年頃)の算術を出版した。(2)
12世紀も11世紀同様に不毛であった。黄帝九章(Huang-ti Kiu-chang)(3)が出版されたように思われ、T'sai Yuan-ting(4) は、易経(I-King)について著述した。しかし、これらの出来事は、単に、その世紀が何の成果もない不毛の時代であった事実を強調しているに過ぎない。はるかに意義のあることは、東洋は再び西洋と接触するようになってきたという事実である。交易商業は、商業の問題点を交換し、占星術師たちは数学的知識のより高度で神秘的な層で同じ事をしていた。私たちは、この世紀、金属がアラビアから中国へと運搬され、1178年頃には大輸出貿易が描かれており、商品の一覧の載っている中国の著作が書かれた。(5)1128年、中国の巨大な軍がトルキスタンに侵入し、そのに多くの中国人の住民を見出した。(6)世界の交通の刺激は強烈になり、この刺激の効果は、次の世紀に現れることになった。
12世紀には、思想の交流の機会が増大し、それは13世紀に受け継がれた。全く、ヨーロッパのペリパトス派の学者が同じ時期、数においても活動においても増大したように。金属がペルシア(ポズ(Po-sz))から、またアラビアの国(タシ(Ta-shi))から輸入された。(7)1219年、チンギスハン(8)は、西アジア征服への大遠征を行い、東モンゴリアとペルシアやロシアとを結ぶ道を確立し、軍を東ヨーロッパにまで派遣した。そして、東洋と西洋とのあらゆる地域との交易の道を開いた。彼は、ボカラ(Bokhara)、サマルカンド、ヘラート(Herat)、メルヴ(Merv)、ニシャプール(Nishapur)、キエフ、そして恐らくモスクワを攻略しただろう。彼は、ポーランド、ガリシア(Galicia)、シレジア(Silesia)、そしてハンガリーに侵入し、彼の占星術師たちは、東ヨーロッパの首都のギルドと自由に混ざり合ったに違いない。1221年に、中国人旅行家、K'iu Ch'ang ch'un は、サマルカンドに到し(9)、特に意義深いことは、その都市では「中国の職人が、至る所に住んでおり、インド(Yin-du)からきた孔雀や大きな象を見た」という事実を記録していることである。彼は、また、私たちが当然、学識ある人と期待するように、サマルカンドの天文学者と会い話をしたことも語っている。1236年、モンゴル人は、ブルガリアに侵入した。1238年、フランスは東方からの軍に対する援軍を求めるイスラム教徒の使節を迎えている。1241年、モンゴル人はガリシアに侵入し、1259年、彼らはクラクフを再び焼き尽くした。
1266年、セイロン王が軍勢に中国人を雇っていたという事実も意義深い。一方、この頃、中国人旅行家、Chau Ju-kua は、「優れた天文学者で暦の計算者」(10)であるとして、個人的知識としてヒンドゥーのことを語っている。
さらに、ヨーロッパ人が、しばしば東洋で見られるようになった。1246年、大公爵ヤロスラフ(Yaroslav)は、モンゴルの宮廷で、フランシスコ会修道士、プラノ・カルピニ(Plano Carpini)という人と会っている。ほんの数年後、別の小さき者(フランシスコ会修道士)である、ルブルック(Rubrouck)が同じ宮廷を訪れ、彼もカルピニも二人とも旅の記録を残した。また、西洋へ行った東洋の旅行家もいた。例えば、道士の Ch'ang ch'un は、1220年から 1224年まで(西洋へ行っている。) Ch'ang-ti は、1259年にマング(モンケ)・カーンによって送り出され、バグダードを訪れている。また、Ye-lu Hi-liang は、1260年から 1262年まで中央アジアを旅した。
その世紀の後半、モンゴルと中国の宮廷に、西洋から来た他の旅行家が見られる。小アルメニア(Little Armenia)の王、ハイトン(Haithon)(ヘトゥム(Hethum))は、1254年にモンゴルを訪れ、彼の旅の記録はよく知られている。マルコ・ポーロは、1271年にヴェネチアを出発し、中国で17年間過ごし、楽しみながらアラビア、ペルシア、インドを旅した。1298年のペルシア帝国の高官、ラシド・エッディン(Rashid ed-din)は、モンゴル史を書き、彼らの国のことをよく知っていることを示している。これらすべての出来事は、詳細は重要ではないが、全体として見ると、とても意義深い。なぜなら、それらは、東洋と西洋との間の思想の自由な交流があったことの証拠を示すことができるから。例えば、中国の代数が12世紀のイタリアへの道を見出すことができたかどうかという多くの疑問を晴らすのに役立つ。もし、そうでなかったなら、それは驚くべき原因であるだろうと私たちは繰り返す。さらに、13世紀は、富、贅沢の、また機会の時代であった。チンギス・ハンは、道士の旅行家 Ch'ang ch'un への手紙の中で、「天は、その傲慢さと過度の贅沢のために、中国を見捨てた。」(11)と主張した。これは真実であったかも知れない。征服者は、そう言いがちであるだろう。しかし、それは、両方の大陸で、数学が繁栄するべき世紀であったことは確かである。私たちは、これがその場合であることが分かるだろう。
13世紀は、ヨーロッパにおいても中国においても覚醒の時代であった。事実、それは東洋固有の数学の最も高度に発達した時代であったと言えるかも知れない。西洋との思想の交流の、あるいはチンギス・ハーンの侵入以前に富がその国にもたらした余暇の、あるいは戦争が育んだとその擁護者によって言われる理想主義の成長、その他様々な原因の結果として、中国は、この時期、代数が著しく発達した。
恐らく、この動きの中で第一の学者は、秦九韶(Ch'in Kiu-shao)、その詳しい歴史は全く知られていない人物だが、若い頃に兵士であった人で、1244年、政府の行政にあって、二つの地方の長官であり、1247年に「数書九章(Nine sections of Mathematics)」(12)を書いた人である。その著作は、主に数の高次方程式について述べており、その中では、著者は、ある程度ホーナー法に先んじている。しかし、それは、また、不定方程式や代数の三角法への応用も考えている。彼の著作「数書九章(nine sections)」は、31ページで述べたものと同じではない。πの値として、著者は、3,22/7 や √10 を与えている。彼の著作でも、○という記号が、零のために使用され、桁の値がすべての数を書くのに使われている。著者は、実際の問題を解くのに代数の知識を応用することにほとんど関心を示さず、それを純粋な学問とみなすのを好んでいる。
この方向での次に注目すべき一歩は、李冶(Li Ye)(1178-1265)によって進められた。彼は、1249年に「 測円海鏡(Sea Mirror of the Circle Measurement)」(13)を、1249年に「益古演段(I-ku Yen-tuan)」など他に様々な著作を書いている。若い頃は公の仕事に就いていて、1232年には鈞州(Chun Chou)の長官であった。彼は、後に、1260年に統治し始めたフビライ・ハーンによって高い評価を受けた。(14)李冶は、息子に「測円海鏡(Sea Mirror)」を除く彼のすべての著作を焼却するよう命じたが、「益古演段(I-ku Yen-tuan)」も保存され、それ以来、双方とも中国の偉大な著作とすっとみなされている。秦九韶(Ch'in Kiu-shao)が自らの関心を主に抽象的な方程式(abstract equations)の解法に向けた一方、李冶は様々な複雑な問題を解く方程式を作ることに専念したが、解法は無視された。
この頃、もう一人の学者、Liu Ju-hsieh は代数に関する論文を書いたが、その著作は現存しない。(15)
天文学が、この時代の主に関心を集めた数学的テーマであったことは、初期の中国の時代で事実そうであったように、この学問(天文学)に捧げられたかなりの数の学者の名によって示されている。この特別な時代の指導者の中に、Ye-lu" Ch'u-ts'ai (16)がいた。彼は、1230年頃生きていた。彼は、北京に(当時は Yen king)に大きな学校を設立し、チンギス・ハーンを伴いペルシアへ行き、日食の計算に従事し、ペルシアの天文学者と接触するようになった。
1261年、楊輝(Yang Hui)は、オリジナルの「九章(Nine Section)」のある部分を説明している(31ページを見よ)著作である、「詳解九章算法(The Analysis of the Arithmetic Rules in Nine Sections)」(17)を書いた。この著作に中で、彼は、算術級数の要約を図に示している。別の著作では(18)、彼はその級数の総和を求める公式を与えている。
1+(1+2)+(1+2+3)+ ... +(1+2+3+ ... +n)
と 1*1+2*2+3*3+ ... +n*n
が、何の説明もしていない。彼は、他にいくつかの著作を書いた。(19)そして、彼の問題の中にウサギと犬の問題のようなものがあり、いくつかは単純な比や複合した比を含んでいる。
楊輝(Yang Hui)の師、中山(Chung-shan)生まれの劉益(Lui I)は、名前だけが知られている著作を書いたが(20)、疑いなく数の高次方程式に関係していただろう。
1267年に、モンゴル人は、様々なアラビアの火器の将校を採用したことが知られている。(21)それで、アラビア人との接触が軍を通して存在した。しかし、この接触は、アラビア人の天文学に十分精通した人、郭守敬(Kou Shou-king)(22)(1231-1316)の学問的業績において一層明らかである。彼は、Hsing-t'ai (23)の生まれで、幼い子供時代でさえ、学識は著しいものがあり、それは、彼の祖父、名声ある数学者、Kou Yung の学者としての資質を受け継いだように思える。青年時代に、郭守敬(Kou Shou-king)は、中国で最も偉大な技師の一人に成長する。彼は、フビライ・ハーンによって暦を改革するよう任命された。(24)この目的のために、彼は、1050年頃に作られ、現在北京の壁にある大きなブロンズの器具の最も初期のもので、以前は首都(北京)にあったが北京から4度緯度の異なる Peenking の計算をするためのアーミラリー円球儀(渾天儀)を元に戻した。彼によって作られた器具は、夜だけでなく、昼間も観測できるようにされたいくつかのものを含んでおり(25)、球面三角法のかなりの知識があったことを示している。彼の器具のうち、二つだけが現存するように思われ、これらはマテオ・リッチが17世紀初めに北京を訪れた時に、彼によって見出され描かれた。(26)リッチは、また、南京にも同じような器具を見たと語っている。
郭守敬(Kou Shou-king)でもって、アラビアの学派では、すでにかなり進歩していたテーマである、球面三角法の中国での研究が始まったと言えるかも知れない。
西洋とのさらなる接触は、この時代に、1286年から 1331年まで広東(Canton)に小さき者(フランシスコ会修道士)オドリック(Odoric)を通してあった。
中国の13世紀は、燕山(Yen-shan)生まれの朱世傑(Chu Shi-Kie) の注目すべき著作で幕が閉じられた。(27)彼の個人的な生活に関して、私たちは、20年以上の間、彼は放浪の教師であったということだけ知っている。彼は二つの著作、1299年の「算学啓蒙(the Introduction to Mathematical Studies)」(28)と 1303年の「四元玉鑑(The Precious Mirror of the Four Elements)」(29)を書いている。彼と共に、古い算盤の代数、係数(coefficients)がチェック模様の板の上に置かれた棒で示されるものだが(30)、それが初めて水準に達した。彼の著作の最初のものの中に、記号の代数的規則と、全般に代数の過程への導入が書かれている。しかし、二つ目の論文では、彼はより高度な代数の様々な新しい問題を考えている。彼は、いわゆる現在のパスカルの三角形で始め、二項式の係数の数値を与え、古いものとしてその図式に言及している。彼は、未知の量が二つ以上の高次方程式を考えている。彼の扱いは、行列式の表記によって消去する知識がいくらかあることを示している。彼は、すでに秦九韶(Ch'in Kiu-shao) によって用いられていた方法での数の高次方程式の解法に多くの才能を示している。それは、ホーナー法(Horner's Method)と似ている。