オーストリアとドイツ
15世紀のドイツ国家で数学の発展を促した人物の名を考える前に、レッヘンマイスター(算術教師)の影響と著作に関する言葉を語る必要がある。13世紀にドイツでは交易の大復興があった。チュートン(ゲルマン)諸国の商業都市の連合体であるハンザ同盟が、交易の要求が認識されていたに違いないことを示している。それは、海賊に対して力を採用し、外国の都市に定住地を購入し、メンバーの利益を保護するためにデンマークやイングランドと戦争さえした。教会の学校は、ビジネスのために少年たちを教育することができなかったので、(ハンザ)同盟は、この仕事を引き受け、教会の学校が教えていた読み書きを教えただけでなく、教会の学校が全く教えなかった商業算術も教えた。この種の徒弟の教育から、レッヘンマイスターによって主宰されるレッヘンシューレ(算術学校)として知られる一種の商業学校が起こった。時の経過と共に、レッヘンマイスターはギルドを形成し、自らの職業を独占し、ついには町の正式の官吏とみなされるようになった。彼らの義務は、度量衡の認証(sealing of measures)、町の樽の測定(the city gaging of casks)、そして、時には、当時は国家ではなく都市の機能でもあった貨幣の鋳造などが含まれることも稀ではなかった。彼らは、また、文書作成の大家であることもあり、遂には町の高官とみなされるようになった。(1)より大きな都市では、レッヘンマイスターのギルドは6年間奉仕する徒弟を認め、それから助手、教師となる特権を有したシュライバー(Schreibers)となった。locus が開かれると、これらの見習いの最も年長の者は、試験を受けなければならず(2)、それに合格するとマイスターの地位が与えられた。シュライブ・ウント・レッヘンマイスターのギルドは、例えば、リューベックでは、1813年まで続いた。
15世紀に、レッヘンマイスターの力は、初めてかなりの程度示され、次の300年間、彼らは多少執拗なまでに自分たちの特権にしがみつき、算術は公共の学校の教師ではなく、自分たちが教えるべきだと要求した。彼らの影響は、オランダの商業都市に広がり、レッヘンマイスターは、しばしば17世紀のオランダの算術の中で言及されている。(3)15世紀にドイツに現れ始め、19世紀までドイツやオランダに存在し続けた優れた商業算術は、レッヘンマイスターや彼らが影響を及ぼした人々の著作であった。(4)
恐らく、初期のドイツの印刷の発展によって、あるいは恐らく、コンスタンチノープルからバルカン諸国を通じてウィーンに及ぶ古典の影響のために、あるいは恐らく、富が可能にした余暇の影響のために、チュートン(ゲルマン)諸国は、15世紀に次第に発展し、数学の能力では人々はイタリアと肩を並べるようになった。これらの人々のうち4人は、その経歴に外国であると認められる学者であり、残りは平凡な人々であった。
その世紀後半、ボヘミアのエガー(Eger)生まれのヨハン・ヴィドマン(Johann Widman)(1460年頃生まれ)は、算術と代数について書いている。彼は、1480年にはライプチヒで学生であり、1482年にB.A.(文学士)、1485年にM.B.(医学士)、1486年にはM.A.(文学修士)になっている。彼は、医学で博士号を取ったかも知れない。なぜなら、ヨハン・ヴィドマンによる医学書が 1497年に現れているからだが、これは恐らく別の人であろう。(5)彼が代数について講義をしたことが、恐らくライプチヒで最初のものであろうが、その当時の写本に示されている。(6)彼は、恐らく、Algorithmus Linealis (Leipzig, post 1489)、計算機(counter)の助けを借りて行う計算について印刷された最初の論文の著者であっただろう。彼は、商業算術に関して最初の重要なドイツのテキストを書いた。(7)そして、この書に計算操作の記号としてではなく、商品の一括取引の余剰と不足とを表すための記号として+と -が印刷されている。
数学者としては、より有能であるが、一般にはそれほど知られていない人に、ヨハン・フォン・グミュンデン(Johann von Gmuenden)(8)がいて、彼はウィーンで教育を受け、そこで教え、完全に数学に与えられた講座をもった最初のオーストリア人であった。彼は60分数(sexagesimal fractions)についての論文(9)、三角法に関する論文(10)、そして演算(computus)に関する論文(11)を書いた。
数年後、漁師の息子であるニコラス・クサ(Nicholas Cusa)(12)は、卑しい(貧しい)境遇に生まれた者であっても、天賦の才と勤勉さとがあれば、達成できることを証明した。彼は、教会で急速に頭角を現し、ブレシア(Brescia)の司教職を含む様々な名誉ある地位に就いた。彼は枢機卿になり、1448年ローマの長官(governor)になった。彼は、円の求積、暦の改革、アルフォンソ天文表の改良、宇宙の太陽中心説(科学的な蓋然性というよりむしろパラドクスとみなされていた理論)、そして数の理論を扱ったテーマを含む数学についてのいくつかの論文を書いている。ウォリス(Wallis)(13)は、彼は、サイクロイド(cycloid)について研究した知られている最初の著述家であると主張したが、証拠があるわけではない。(14)彼の作品集(Opuscula)は 1490年頃に出ており、全集(Opera)は 1511年にパリに現れている。(15)
数学者として遙かによく知られているゲオルク・フォン・ポイルバッハ(Georg von Peurbach)(16)は、ニコラス・クサや他の偉大な教師たちのもとで研究し、プトレマイオスを読むことができるようにと枢機卿ベッサリオン(Bessarion)からギリシア語を学び、フェッラーラ、ボローニャ、パドヴァで講義し、ウィーンで数学の教授になり、この大学を当時の数学の中心地にした。主として天文学と三角法に興味があったが(17)、彼は算術について書いている。(18)しかし、これは、単にこれらの学問の分野の学生たちの使用のためのものであった。メランヒトン(Melanchthon)は、その著作を非常に優れているものと考え、1534年版に序文を書いている。ポイルバッハ(Peurbach)は正弦表を編集した。これは、彼の死後、弟子のレギオモンタヌス(Regiomontanus)によって増補された。また、彼は様々な天文学に関する著作も書いている。
15世紀のドイツの数学者たちの中で、最も影響力があり最もよく知られているのは、ヨハン・ミューラー(19)、一般にはケーニヒスベルク(Koenigsberg)のラテン語名からレギオモンタヌス(Regiomontanus)として知られている人である。(20)12才の時に、彼はライプチヒの学生となった。その後、ポイルバッハのもとで研究し、ヴェネチア、ローマ、フェッラーラそしてパドヴァで講義をし、しばらくの間ニュールンベルク(Nuernberg)に住んだ。(21)1475年、彼は教皇シクストゥス4世(Sixtus IV)に、暦の改革を考えようとした何度かの試みの一つのためにローマに呼ばれ、ラティスボン(Ratisbon)の名義司教(titular bishop)となった。彼は、オリジナルのギリシア語の数学を研究し、「人文学(humanism)」を科学の侍女にした最初の人物」となった。彼は「De triangulis omnimodis libri V (1464年頃)」、単独で三角法を最初に扱ったと言われる著作を書いた。(22)彼は、また「エウクレイデスの幾何学原論序(Introductio in Elementa Euclidis)」も、星形多角形に関する補足の著作を加えて書き、周航(?)(circumnavigation)問題に関してある明確な考えを持っていた。(23)
最も初期の知られるドイツのアルゴリズム(計算法)は、フィボナッチがそのテーマに関する著作を書いてから2世紀以上後、それに関するフランス最初の写本が書かれたと知られている時からおよそ70年後の 1445年に編集されている。ドイツの代数の最も初期の例は、1461年のラテン語でもテキストのあるミュンヘン写本の中に見いだせる。最初の印刷されたドイツの算術は、1482年にバンベルク(Bamberg)に現れた。
フランスは、血縁の言語を話す姉妹国としての精神で、イタリアのヒューマニズム(人文学)を受け入れたが、グレゴリー・ティフェルナス(Gregory Tifernas)(1458年)がギリシア語を教えるためにパリへ行ってから何十年もの間、知識階級の好みは科学と言うより文学の方にあった。(24)
15世紀に、フランスがドイツやオーストリアほどには著名な数学者を生み出さなかったのは、恐らくこの事実によるのだろう。しかし、パリ大学がこの時期自ら見いだしていた絶えざる混迷のといった原因によるものであった可能性の方が高いだろう。教会と国家との間のフランスの統治を巡る絶えざる争いと、その城壁内からの絶えざる抗議で、フランスは科学も文学も育むといった雰囲気は全くなかった。
この時期のフランスの教育制度の最も優れた産物の一つの型が、極めて平凡でほとんど知られていない学者、ロランドゥス(Rollandus)(1424年頃)という人物の中に見られる。彼は恐らくリスボンの生まれであろうが、パリで生涯を送った。彼は医者であり、王宮礼拝堂(Royal Chapel)の聖堂準参事会員(minor canon)であり(25)、1410年の大学の学長(rector)であったロラン(Rolland)であったかも知れない。彼は、現存する 1424年頃の写本によって示されているように(26)、明らかに純粋な算術と代数とに通じていた。彼は、また観相学(physiognomy)と外科手術についても書いている。
この時期のフランスの数学者の中で最も輝かしいのは、ニコラ・シュケ(Nicolas Chuquet)(27)であった。彼は、パリの生まれだが、リヨンに住んでいた。(28)彼は、算術の3つの分野に触れる著作である「数の学の三部(Triparty en la Science des Nombres)」を書いている。(29)第一部は有理数の計算、第二部は無理数、第三部は方程式の理論に関するものである。シュケ(Chuquet)については、彼が医学士でリヨンで著作を書いたこと以外何も知られていない。(30)
大ブリテンは、15世紀には比較的少数の著述家しか生み出さず、特に優れたものは一つもない。ジョン・キリンワース(John Killingworth)は、その時期の最も優れた学者の一つのタイプとして受け取られるだろう。私たちは、彼についてほとんど知らないが(31)、記録によれば、彼は 1432年にオックスフォードのマートン・カレッジ(Merton College)の評議員(フェロー)となり、1445年5月15日に没している。彼は、主として天文学に興味があって、この学問の学生の使用のための一連の(天文)表を作成したように見える。ケンブリッジ大学図書館には、1444年に彼によって書かれたアルゴリズム(計算法)が現存する。(32)この中で、彼は計算の目的のためにスレート(石板)を使用することに言及しているが、計算操作(方法)に関しては、なんらオリジナリティを示していない。
ロシアの初期の数学は、広く暦学と数のパズルに関する問題に没頭した。中世の写本のいくつかには非常に複雑な計算の結果が載っているが、私たちは、これらの計算がなされた方法については何も知らない。(33)そうした例のいくつかが、ルースカヤ・プラウダ(Russkaya Pravda)の中に見いだせる。(34)15世紀の終わりに、暦に関する著作がメトロポリタン、ゾシマ、そしてノヴゴロドの司教ゲンナディ(Gennadi)によってなされたことを知っているが、その結果(著作)は現存しない。これらすべての著作において、数詞はアルファベットであり、その体系は後期のギリシアのものに似ているように思われる。14世紀においてさえ、聖職者たちは幾何学と天文学を禁止令のもとに置き、17世紀になるまで数学の研究の機会はなかった。(35)18世紀になって、科学的活動の増進が図られた時でさえ、数学の指導者はすべて外国から招かれた。
15世紀に(1450年)、一般にトレビゾントのゲオルゲ(George of Trebizont)(1396-1486)(36)として知られるクレタの著述家が「アルマゲスト」の新しいラテン語訳をなし、また、それについてのテオンの註釈も翻訳した。彼は、科学や文学、また、礼儀にほとんど敬意を払わない喧嘩っぱやい人物であった。
ハンガリーには、ゲオルキウス・デ・フンガリア(Georgius de Hungaria)と言う人がいた。彼は、1499年に「Arithmeticae summa tripartita」を書き(37)、恐らく、これが15世紀のハンガリーの数学の水準を示しているのであろう。
この世紀のユダヤ人の活動は 非常にわずかであり、主に、ラテン語からの翻訳で目立つぐらいである。ヤコブ・カファントン(Jacob Caphanton)(1439年までには没)は、恐らく、カスティリアの生まれであろうが、医学者で教師であり、算術について著述している。(38)そして、イェフダ・ヴェルガ(Jehuda Verga)(1450年頃)、ユダヤ人の苦難に関する編集物で知られているが、彼は、また、同じタイプの概論(要約)の著者でもあった。(39)占星術や暦に関する著作を残した様々な著述家がいたが、それ自体は重要な貢献はなく、表の計算を要求し天文学者を何らかの仕方で刺激したぐらいであろう。
15世紀には、他の国々でも数学の研究を前進させる散発的な努力はなされたが、科学において関心を確立する以上の効果は全くなかった。例えば、ホアン(Joao)2世は、非常な困難の末、ポルトガルの王位についた人で、学問、特に天文学と航海術とを高めようとして、リスボンにフンタ・ドス・マテマティコス(Junta dos Mathematicos)(40)を設立したが、純粋な数学においては、優れた結果は無かった。カルサディルハ(Calsadilha)やドン・ディオゴ・オルティス(Don Diogo Ortiz)のような少数の学者が、ポルトガルの航海者を助ける目的で地図作製のような分野の応用数学を発展させようとしたが、これがなされたほとんどすべてであろう。少し後、ディオゴ・メンデス・ヴィツィンホ(Diogo Mendes Vizinho)やトマス・トレス(Thomaz Torres)のような占星術師がいたが、前者は地図作製学の要素以上のことはほとんど知らなかったし、後者はホロスコープを描くことだけに興味があったように思える。数学がポルトガルの大学で何か注目に値するものが目にとまるようになったのは、16世紀になってからである。
数学と文学におけるイタリアの新しい精神の何らかの思想が、ほぼ同じ頃にスペインに達していた。バルボサ(Barbosa)のような人々は、サラマンカでギリシア語を講義し、レブリクサ(ネブリセンシス)(Lebrixa(Nebrissensis))は、1474年、イタリアから帰り、セヴィリア、サラマンカ、そしてアルカラ(Alcala)で講義をしたが、学者たちの関心は中世の神学にあり、科学の発展にはほとんど注意は向けられなかった。
15世紀のスペインの著作の性格は、アロンソ・デラトーレ(Alonso Delatore)によって書かれ、1489年にトロサ(Tolosa)で出版され、1538年にセヴィリアで再び出版された一種の総合百科全書である「哲学と自由学芸の???(Visio delectable de la philosophia & artes liberales)」から推測できるだろう。この著作の第四章は、Dela arismethica y de sus inuetores と題されているが、数世紀前にカペッラ(Capella)やイシドルスによって与えられた算術の扱い以上に優れたものはほとんどない。スペインは、この頃、貴族強盗(bandit nobles)の鎮圧、スペインの法の再編纂、そして最後のムーア人の追放に専念していて、1492年になってやっと将来の平和に必要な政治的統一が果たされる。にもかかわらず、商業数学と航海術の科学の急速な発展のための新しい型の土台が築かれる過程にあったように思える。コロンブスが、そして次の世紀には、ポンセ・デ・レオン(Ponce de Leon)がなしたような航海は、植民帝国の拡張と急激な富の増大へと導いた。しかし、残念なことに、スペインの指導者たちはその機会をつかむことができず、新しく獲得した富を無益な戦争へと導くことになる野望に満ちた計画に浪費した。メディチ家があれほど幸福に改善したその機会は、スペインの支配者たちには脇へ投げ捨てられ、芸術も学問も育まれなかった。それ故、その世紀のほとんどの間、状況は、学問への情熱はそがれ、15世紀にはスペインでは、何ら重要な数学的著作の一つも出版されなかった。