数学史

[ルネサンスへと導く影響][印刷の起源][大学][イタリアの著述家][ルカ・パチオリ]

ルネサンスへと導く影響

 ルネサンスとして知られるあの学問の復活へと導く影響の中で、二つの最大のものは東方の学問のイタリアへの伝播と印刷の発明であった。前者(東方の学問のイタリアへの伝播)は、コンスタンチノープルの陥落、すなわち 1453年のトルコ人による争奪に年代付けて語られるのが通例となっている。(1)モハンメド2世(Mohammed II)がボスポラス海峡の堤に立って、ペルシアの二行連句(distich)、

  蜘蛛は帝国の宮殿に蜘蛛の巣を作り、
  フクロウはアフラジアの塔で夜通し歌を歌った。
   ( The spider has woven his web in the Imperial palace,
    And the owl has sung her watch-song on the towers of Afrasiab.)

を繰り返したとき、彼は、古代ビザンティウムにおけるギリシア文化を要約していた。ヘレニズム(ギリシア)の文明の遺物は、他の土地に避難所を求めること以外、他に何も残されていなかった。
 ステファン・ドゥサン(Stephen Dusan)が、彼が死んだとき(1356年)に死ななかったとしたら、あるいは、彼がセルビアの王位に相応しい後継者を残しておいてくれたなら、コンスタンチノープルは東方の征服者ではなく、西方の征服者の手に落ちていたかも知れない。そうなっていたなら、全般に文明、そして、特に、数学に対してどんな結果を生じていたか思いめぐらすことは面白い。(2)しかし、私たちはこのギリシア文明の伝播は、その都市の陥落より一世紀前にすでに始まり、ローマもフィレンツェも、印刷機がその内容を世に知らしめる用意が整ったときに有効になるべき、ギリシアやラテンの写本の獲得収集を始めていたことをすでに見ている。
 15世紀の初め頃、ニコロ・デ・ニッコリ(Niccolo de' Niccoli)(1363-1437年)は、フィレンツェで価値ある写本の収集を行った。そして、1414年には、ローマ教皇庁(Roman curia)の秘書官(事務官)、ポッジョ・ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini)は、古典作品の筆写と収集を始めた。その世紀の間、フィレンツェのメディチ家やローマのニコラス5世のような寛大な学問の擁護者(パトロン)がいて、彼らの労作の結果を、今日でもロレンツォ図書館(Laurentian Library)やヴァチカン図書館で見ることができる。また、モンテフェルトロ(Montefeltro)の伯爵、フェデリゴ(Federigo)もいた。ヴィットリーノ・ダ・フェルトレ(Vittorino da Feltro)は、自らの教師によって情熱でずっと満たされ、シクストゥスIV世(Sixtus IV)からウルビノ公爵(Duc d'Urbino)の称号を受けた。写本で満たされたウルビノの彼の図書館は、イタリアの学者たちのたまり場であった。ユマニスタ(人文主義者)ジョヴァンニ・アウリスパ(Giovannni Aurispa)(1369-1460年頃)も、コンスタンチノープルからヴァネチアヘ、およそ238の古代ギリシアの写本をもたらした。
 しかし、これらすべての活動にもかかわらず、イタリアは15世紀には、数学において何ら自国で才能を見せなかった。全般に、トスカナ文化について、シモンズ(Symonds)が言ったことが特に数学に当てはまる。「月が太陽から反射した光で輝いているように、フィレンツェはアテネからの光を借用した。(文芸)復興は、ギリシアの古い黄金時代の銀の時代であった。」
 この時代、算術を学ぶ人にとって、国家という精神がまだ発達していなかったことは明らかである。人々が忠誠を誓ったのは、私たちが知っているような国家ではなく、都市であった。私たちに、ヴェネチア芸術というのがあるように、ニュールンベルクの作品とピサの作品とが互いに異なるように、私たちは、異なるヴェネチアの算術、フィレンツェの算術、ローマの算術というものを見いだす。

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印刷の起源

 私たちが数学の発展に及ぼした印刷の影響を考えるとき、私たちは、その技術はグーテンベルクの時代、およそ 1450年頃よりずっと以前から存在したという事実を思い出さなければならない。中国人はこれより何世紀も前から彫刻された木片で印刷していただけでなく(木版印刷)、木版の活字(movable types)も使用していた。ヨーロッパでも、木版印刷は活字が発明されるまでは、かなり顕著に使われるようになっていた。
 また、印刷されたものが外国に送られるようになる以前、数学の知識はどのようにして広められていたか考えておくこともよいだろう。中世は、そうした知識の伝播には、全般に三つの時代があった。
 1.529年の聖ベネディクトゥスによるモンテ・カッシノの修道院の設立から、1200年頃まで続く時代は、学者たちは修道院の教師のところに赴き講義を聴いた。これは、尊者ベーダ(ビード)やヨークのアルクィンのような人々の時代であった。
 2.1200年頃から 1400年頃。写本の取引が一層一般的になり、多くの部数が作られ、これらは、私たちが今日書物を売買するように売られた。(3)
 しかし、これらは、すべて印刷された書物の流通に比べれば、未熟な段階の知識伝達の方法であった。それで、私たちは、古代文明の数学の古典を広く世に知らしめ、すでに蓄積されていた数学の、一般向けの概説書を作成し始めるのは、15世紀であると期待してもよいだろう。この世紀は、これら蓄積された宝を受け入れ、それを伝えること以上のことはせず学問の新しい発展は次の世紀に持ち越されたとほとんど考えてよいだろう。ナッサウのアドルフ(Adolf of Nassau)によるマインツ(Mainz)の略奪(1462年)は、その都市にあった印刷機をヨーロッパ中に散らばらせたということも付け加えておくべきであろう。それは、コンスタンチノープルの陥落の結果と何らかの点で比較されうる出来事であった。

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大学

 大学は、この頃には、より一般に数学に触れ始めていた。しかし、それでほぼすべてであった。1408年のオックスフォードの規則の断片では、ほんの少しの算術だけが学士(bachelor)の試験に要求されただけであり(4)、1431年になってもほとんど改善はされなかった。(5)パリでは、その仕事は、1452年、教皇の使節によって認められたが、この学問の状況の改善には何もなされなかった。大学入学資格試験(baccalaureate)は、少しの数学を読むことが要求されたが(6)、明確なものは何も規定されなかった。全般に、算術とユークリッドのわずかなもの以上は要求されなかった。(7)

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イタリアの著述家

 15世紀のイタリアの偉大な商業活動は、多くの商業算術を生み出した。このことは、ある程度、今日の教科書にまだ影響を及ぼしている。商業算術の扱いを標準にすえたのである。商業算術の著述家で最もよく知られた人達の中に、マッテオ・ダ・フィレンツェ(Luca da Firenze)(1400年頃)(8)、彼の息子、ルカ・ダ・フィレンツェ(Luca da Firenze)(1400年頃)、このルカの息子、ジョヴァンニ(Giovanni)、そして 1505年にピサ共和国の官吏であったアンドレア・ディ・ジョヴァンニ・バッティスタ・ランフレドゥッチ(Andrea di Giovanni Battista Lanfreducci)(1490年頃)がいた。これら四人の著述家たちの著作は、写本でだけ存在し、彼らが当時の商業の習慣について語ることを除けば、ほとんど価値のあるものを含んでいない。
 有名なフィレンツェの市民の中で、16世紀の歴史家の一人(9)がベネデット(Benedetto)、一般にベネデット・ダ・フィレンツェ(Benedetto da Firenze)として知られる数学者に言及している。彼の算術は(10)、1460年頃に書かれ、彼の故郷の都市の商業の必要性と関連している。それは、15世紀に現れたこの種の著作の最も完全な著作の一つであるが、一度も出版されたことはない。
 この時期、商業算術の分野を超えた何らかの数学の知識のあるイタリアの著述家の中で、最も初期に属する人は、パドヴァ生まれでこの都市の大学の学生であり教授であるプロスドチモ・デ・ベルダマンディ(Prosdocimo de' Beldamandi)(11)であった。彼は、算術、音楽、天文学について著述し、医学の研究もした。(12)その算術は、普通の演算に限られていて、商業的な問題は、何も含まれていなかった。(13)
 1425年頃、クレモナのレオナルド(Leonardo of Cremona)あるいはレオナルド・デ・アントニイ(Leonardo de' Antonii)(1380年頃生まれ)という人が、簡潔な実用的な幾何学を著し、その三つの写本が知られている。(14)少し後(1449年頃)、彼と同じ町の人で、マントヴァとローマで教師をしていたクレモナのヤコブ(Jacob of Cremona)が、アルキメデスの著作のいくつかを翻訳した。その世紀の終わり頃、ピアチェンツァ(Piacenza)の生まれのゲオルギウス・ヴァッラ(Georgius Valla)(1430-1499)は、パヴィア、またヴェネチアで自然科学(物理学)と医学について講義した。そして、彼の「大全集(magnum opus)」では、それは単なる知識の大要であるが、他の様々なテーマと共にボエティウスの算術、ユークリッド(エウクレイデス)の幾何学と光学、アストロラーベを扱っている。その著作は(15)、1501年に出版され、主として、その大きさのために知られている。
 1475年頃、イタリアの画家、ピエトロ・フランチェスキ(Pietro Franceschi)、ピエトロ・デッラ・フランチェスカ(Pietro della Francesca)(16)とも呼ばれるが、彼は、De corporibus regularibus という著作を書いている。その中で、彼は、正多角形の計量、球面、球に内接する五つの正多面体、そして全般に立体図形を扱った。彼の問題は、直径7の円が外接する正八角形の面積を求める場合と(17)、同じく、直径7の球に外接する正六面体(立方体)の表面積を求める場合(18)に例証されるかも知れない。
 印刷は、1464年に、ローマ近くのズビアコ(Subiaco)修道院の修道院長、ユアン・トゥッレクレマタ(Juan Turrecremata)(19)によって導入され、その最初の書物は、次の年に現れている。(20)14年後(1478年)、初めて印刷された算術が、当時、ヴェネチアから一日の旅程にあった重要な商業都市、トレヴィゾ(Treviso)に現れた。そこには、すでに三つの印刷所が設立されており、この著作が現れたのは、マンゾロ(Manzolo)あるいはマンゾリーノ(Manzolino)(21)という印刷所からであった。それが作者不詳であるということは、単に個人の栄光は国家の栄光の中に吸収されるとう土地の習慣に従っただけのものであった。(22)ボンコンパーニ(Boncompagni)は、様々な保存状態のこの算術の8部だけしか知らなかった。(23)それで、その書は稀なものである、それは全く商業的なもので、イタリアの算術になんら著しい影響は決して及ぼさなかったとした。(24)しかし、それは激しい動きの中にあった。というのは、15世紀の終わりまでに、イタリアで少なくとも214の数学的著作が出版され、その数は次の世紀の 1527年まで増え続けたから。(25)
 トレヴィゾの書が現れてから3年後、最初の純粋な商業算術(26)が出版された。著者は、ジョルジョ・キアリーノ(Giorgio Chiarino)、それ以上のことは何も知られていないが、であったように思える。その著作は、度量衡とフィレンツェの商人に必要とされた交易(交換Exchange)の習慣を単に編集しただけの物であるが(27)、その中には、パチオリ(Pacioli)が自由に借用できるものが十分に含まれていた。
 3年後、ベネチア人のピエロ・ボルギ(Piero Borghi)(28)が、その世紀最も有名なイタリアの商業算術を出版した。それは、ヴェネチアの商人階級のために意図されたものであった。その書の特徴の一つは、その時期のある他のもののように、乗法で始まり、除法の後に加法と減法とがあり、それ故に計算の何らかの能力が前提とされている。整数を扱うその著作は、あとに分数、三の法則(the Rule of three)、そして時間の普通の応用、--共同(partnership)、損益、交易(barter)、そして混合法がくる。
 しかし、これらの著作は、単なる先発隊の密使に過ぎなかった。算術は、ドイツとイタリアで出版されていたし(29)、ユークリッド(エウクレイデス)の「幾何学原論」は、ヴェネチアのラトドルト(Ratdolt)の有名な印刷所から出版されていた。そして、当時の数学的知識を要約する全体的な論文のための心理学的な契機が到来した。1494年を中心に巡る不安な時代、フランスがイタリアのほとんどの国と戦争状態にあり、フィレンツェが姉妹都市に対して武装をし、シャルル8世が(イタリア)半島に侵入し、サボナローラが彼の怒りを鎮めるためにピサへ大使として赴いていた、そうした時代、このような書物は、修道院の平和な雰囲気の中でだけ作成することが可能であったと言うことは推測されるだろう。

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ルカ・パチオリ

 そうした事情があって、ルカ・パチオリ(Luca Pacioli)(30)、ボルゴ(Borgo)のルカという生誕地からそう呼ばれる、はそうした(修道院の)著術家であった。少年の時、彼は、町の人、すでに述べた(p.247)芸術家のピエトロ・フランチェスキ(Pietro Franceschi)の影響の下、やって来たのかも知れない。彼の著作から、彼がかなりの資料を自由に使用しているのが見て取れる。20歳の頃に、彼はヴェネチアに行って(1464年)、裕福な商人の三人の息子の家庭教師となり(31)、およそ6年後、彼は決して出版されることのなかった代数を書いている。(32)1471年に、彼はローマへ行き、恐らく、聖フランシス兄弟団にすでに入っていた二人の兄弟の影響を受けたのだろう、フランシスコ会修道会(Minorite order)に入っている。1476年、私たちは、彼がペルージャで教え、生徒たちのために小さな書を書いているのを発見する。(33)5年後、ザラ(ツァラ)(Zara)で、彼はさらに「より繊細で厳密な」(34)別の著作を書く。しかし、これらの著作のいずれも出版されなかった。彼は広くイタリアを(35)、また、恐らくオリエントを旅し(36)、フランシスコ会士となった後でさえ、彼は流浪者のままであった。私たちは、彼が 1487年にペルージャに戻り、「Suma」について著述し、1494年にナポリに、1496年にミラノ、1500年にフィレンツェとローマに、1508年にヴェネチアにいたことを発見する。(37)
 パチオリの偉大な著作、彼のそれまで出版されなかった著作ばかりでなく、当時の全般的な数学的知識を要約したものは、1494年にヴェネチアに現れた。(38)それは、彼がペルージャにいた7年前に書かれたものである。(39)それは、優れた編集であるが、独創性はほとんどない。(40)彼は、様々な資料から自由に借用し、しばしば、ほんのわずかの保証も与えていない。しかし、このことは、単に、当時の習慣に彼が従っただけのことである。彼が、ユークリッド(エウクレイデス)、プトレマイオス、ボエティウス、フィボナッチ、ヨルダヌス、サクロボスコ、パルマのビアジョ(Biagio of Parma)、プロスドチモ(Prosdocimo)やスイチェト(Suiceth)から資料を使用していることは、とにかく、彼が十分な読書をしていたことを示している。しかし、彼は、カルダン(Cardan)(41)が彼の書の中には間違いに捧げられた章があるというほど不注意な著述家であった。(42)その著作には、当時知られていた代数、大量の商業算術、ユークリッドの貧弱な要約、そして複式簿記が含まれている。(43)
 1497年、ミラノにいる間に、彼は、De diuina proportione を書き、1509年にヴェネチアで出版された。(44)これは、Suma より幾何学の観点よりみれば、より多く価値ある著作であるが、この場合の性格上、広まることのできるようなものではなかった。この書に与えられている正多面体の図は、それまで印刷されたものの中で最良のもので(45)、レオナルド・ダ・ヴィンチのものとずっとされている。彼は、また、1509年にユークリッドの版も出版したが、その著作はほとんど価値のないものである。
 数学にかなりの注意を払った15世紀のイタリアの天文学者たちの中で、最も優れているのは、パドヴァ大学の天文学の教授のジョヴァンニ・ビアンキーニ(Giovannni Bianchini)、フランチェスコ・カプアーノ(Francesco Capuano)、ジョヴァンニ・バティスタ・デ・マンフレドニア(Giovanni Batista de Manfredonia)(1450-1490年頃)、そしてドメニコ・マリア・ノヴァラ・ダ・フェッララ(Domenico Maria Novara da Ferrara)(1454-1504年)であった。しかし、イタリアの学問は、さらに高度の数学の必要性には、まだほとんど目覚めていなかった。
 この時代の算術家たちのうち、最も注目すべき人たちの中の一人は、フィリッポ・カランドリ(Filippo Calandri)(46)であった。彼の算術は、1491年にフィレンツェに現れ、私たち現代の方法によれば長除法(long division)の印刷された最初の例や、イタリアで出版された最初の図解の問題を含んでいる。彼の生涯については、これ以上のことは何も知られていないが、スフォルトゥナーティ(Sfortunati)(47)は、1534年に書いたものの中で、彼のことを博識の人として語っている。(48)
 フランチェスコ・ペッロス(Francesco Pellos)あるいはペッリザーティ(Pellizzati)は、ニースの生まれで、1492年にトリノで商業算術を出版した。その中では、第2巻に示されているように、10の累乗による数の分割を示すのに小数点を使用している。

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原注1

 生き生きとした描写が、Gibbon, "Decline and Fall of the Roman Empire" Vol.VI, chap.lxviii. にある。

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原注2

 J.B.Bury,"the Cambridge Modern HIstory," Vol.I, chap.iii (London, 1902). 様々なエッセイを含むこの重要な作品は、以後、Cambridge Mod.Hist.として言及する。

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原注3

 書記たちは、大学の近くにスタンド(屋台店)をもっており、書籍販売人は店を持っていた。今日、パリのソルボンヌ近くの書店は、13世紀や 14世紀に、写本を賃貸しした古い librarii の家の名残である。stationarius は、巧みな写字生を採用することが求められた、彼らは仕事を "fideliter et correcte, tractim et distincte, assignando paragraphos, capitales literas, virgulas et puncta, prout sententia requirat."にすることが命令されていた。G.H.Putnam, "Books and their Makers during the Middle Ages," I, 200 (New York, 1896,1897) を見よ。; 以後は、Putnam, Books. として言及する。復刻と販売の全体的テーマについては、J.A.Symonds, "Renaissance in Italy: The Age of Dspots," II.129 (New York, 1883)を見よ。

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原注4

 "Algorismus integrorum" と "computus ecclesiasticus."

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原注5

 licentiate のためには、"Arithmeticam per terminum anni, videlicet Boethii,"と少し多くの科学と数学。 Suter, "Univ. Mittelalt., p.90.

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原注6

 "Aliqui libri mathematici."

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原注7

 ヴォルフェンビュトラー図書館(Wolfenbuettler Bibliotek)にある、1515年のある写本は、算術を次のように描いている。"Arithmetica communis ex divi Severini Boetii Arithmetica per M. Ioannem de Muris compendiose excerpta; Tractatus brevis proportionum, abbreviatus ex libro de proportionibus D. Thomae Braguardini Anglici, ... Algorithmus M. Georgii Puerbachii de integris; Tractatus de Minutiis phisicis compositus Viennae Austriae per M. Ioannem de Gmunden." Monatsberichte der K.P.Akad. d. Wissensch. zu Berlin, 1867 (Berlin, 1868), p.43.

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原注8

 Matthew of Florence. "Rara Arithmetica," p.468 を見よ。

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原注9

 U.Verino, "De illustratione urbis Florentiae libri tres. Paris, 1583.

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原注10

 Mr.Plimpton の図書館の写本にあるように、"Inchomincia el trattato darismetricha,"。 Rara Arithmetica p.464. を見よ。

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原注11

 1370-1380年頃、パドヴァに生まれる。1428年、パドヴァに没す。その名は、また、Beldomandi, Boldomondo, Beldemandi, Prosdocimo Padvano としても現れる。Bernardino Scardeone(De Antiqvitaie Vrbis Patavii, Basel, 1560)は、彼のことを「e nobili familia Patauina ortus: egregius Musicus, & eximius philosophus, & clarus astrologus.」と語っている。

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原注12

 初期の二つの写本の権威によるとこうである。「Examen medicinae magistri Prosdocimi de padua M iiij undecimo.」 すなわち、1411年。彼は、「fu esaminato e dottorato nelle arte ... 1409.」という主張で「Padovani dottori delle arti e Medicina.」である。

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原注13

 説明は、Rara Arithmetica, p.13; Boncompagni's Bullettino, XII,1. を見よ。

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原注14

 Leonardi Cremonensis artis metrice practice compilatio. Primus tractatus. 年代は疑わしい。Rara Arithmetica, p.474; Bibl. Math., IX (3),280 を見よ。

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原注15

 Georgii Vallae Placentini viri clariss. de expetendis, et fvgiendis rebus opus.

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原注16

 1410-1420頃生まれ。1492年没。E.Harzen, "Uber den Maler Pietro degli Franceschi und seinen vermeintlichen Plagiarius, den Franziskanermoench Luca Pacioli," Archiv f. d. zeichn Kuenste, II, 231; W.G.Waters, "Piero della Francesca," London, 1901; と、後で述べられる Mancini の専攻論文を見よ。

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原注17

 「Diameter circuli qui circumscribit octagonum est 7. Quanta igitur sit octagoni superficies invenire.」 Tract. I, Problem XL. 彼は、πの値として、22/7を用いている。

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原注18

 Tract. II, Problem XVI. その著作は、G.Mancini, "L'opera 'De corporibus regularibus' di Pietro Franceschi," in the Atti d. R. Accademia dei Lincei, XIV, (5),488.に、完全に出版されている。

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原注19

 ファミリーネームのラテン語形は、Torquemada である。彼は、スペインのヴァッラドリド(Valladolid)の生まれであった。

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原注20

 Putnam, "Books," I,405.

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原注21

 Domenico Maria Federici, "MemorieTrevigione," p.73. Venice, 1805.

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原注22

 「バイロンがヴェネチアの長い歴史をざっとしかし鋭い眼差しで眺めたとき、彼は、彼の詩のために何を見いだしたか? 二人の老人、一人は自らの過失により非難された、もう一人は息子の過失により非難された人だけである。--主として不幸のために有名な。」 Mrs.Oliphant, in The Makers of Venice.

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原注23

 一つの描写として Rara Arithmetica, p.3 を見よ。

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原注24

 P.Riccardi, "Biblioteca Matematica Italiana," Parte seconda, XI, XV, seq. (Modena, 1880), 以後、Riccardi, Bibl. Mat. Ital.として言及。

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原注25

 Questo e ellibro che tracta di Mercatantie et vsanze de paesi (Florence, 1481). Rara Arithmetica, p.10 を見よ。

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原注26

 「Finito ellibro de tvcti ichostvmi: cambi: monete: pesi: misvre: & vsanze di lectere di cambi: & termini di decte lectere che nepaesi si costvma et in diverse terre.」

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原注27

 最初の版に出てくる名前は、Piero Borgi である。その名は、また Pietro Borghi と Pietro Borgo としても出てくる。彼は、1494年以後に死んだように思える。

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原注28

 Qui comenza la nobel opera de arithmethica, 最も初期に出版された書物には、全般に題名のページはない。後の版では、時々、Libro de Abacho と呼ばれる。最初の版は、1484年、ヴェネチアである。

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原注29

 Preclarissimus liber elementorum Euclidis, Venice,1482. facsimile を見よ。

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原注30

 トスカナ(Tuscany)のボルゴ・サン・セポルクロ(Borgo San Sepolcro)に、1445年頃生まれる。恐らく、1509年以後に没す。その名は、Paciolo, Paciolus, Paciuolo など、他に様々に綴られる。彼の Suma では、その名は決して現れない。De diuina proportione (Venice, 1509)では、ラテン語の属格としてだけ現れる。--"Lucae pacioli ex Burgo sancti Sepulchri ... epistola." 彼が、De diuina proportione の出版の許可を求める、1508年、12月29日の彼の「Supplica ... al Doge di Venezia」では、その名は、"Luca de pacioli dal borgo sa sepulchro."として現れる。それが、Boncompagni (Bullettino, XII,420)が彼のことを Pacioli と語るようになったのは、そうした同時代の証拠からである。Bernardino Baldi は、1589年に書いたもので、"Fu de la famiglia de Paciuoli ignobile per quanto mi credo e di poco splendore,"と言っており、それが Cantor にこの後の綴りを採用させることになった。同時代の文書記録では、彼は、全般にLuca あるいは Lucas di Borgo として語られている。Boncompagni, loc. cit.を見よ。
 彼の生涯の最もよい解説は、H.Staigmueller による "Lucas Paciuolo Eine biographische Skizze" in the Zeitschrift (Hl.Abt), XXXIV, 81,121.である。また、B.Boncompagni, "Scritti inediti del P.D.Pietro Cossali (Rome, 1857),p.63 の "Elogio di Fra Luca Paciolo"、B.Boncompagni の Bullettino,XII,377. も見よ。

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原注31

 "... nostri releuati discipuli ser Bart. e francesco e paulo fratelli deropiasi da la cudeca: degni mercatanti in vinegia: figliuoli gia de ser Antonio." Suma, 1494 ed., fol.67, v., l.4.

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原注32

 現在、ヴァチカンにある彼の写本に関しては、G.Enestroem, Bibl.Math., XIII (2),53; B.Boncompagni, "Bullettino, XII,381,428. を見よ。

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原注33

 "... alo giouani de peroscia ... nel. 1476," 彼が、1494, fol.67,v. の Suma の中で言っているように。

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原注34

 "E anche in quello che a cara nel. 1481. de casi piu sutili e forti componemo." Ibid.

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原注35

 "Ma da poi che labito indegnamente del seraphyco san francesco ex voto pigliamo: p. diuersi paesi ce conuenuto andare peregrinando." Ibid.

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原注36

 18世紀に著述した Cossali はこう言っている。「per desio di scienza viaggiasse in Oriente, ed in Arabia precipuamente, dove a que' tempi erano le matematiche dottrine in gran fiore"; しかし、その言葉の同時代の権威付けはない。確かに、"in gran fiore"という表現は、根拠がない。反対に、Sumaから、彼は一度も東方に行ったことがないという内からの証拠がある。

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原注37

 P.Treutlein, "Abhandlungen,"I, 10 も見よ。

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原注38

 タイトルページは、253ページを見よ。Suma は、Summa の短縮形。

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原注39

 "E al presente q i peroscia ... correndo glianni del nostro segnore Jesu Christo. 1487." Suma, 1494 ed., fol. 67,v.

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原注40

 G.Mancini, "L'opera 'De corporibus regularibus' di Pietro Franceschi," Atti d. R. Accademia dei Lincei, XIV (5), 488. また、彼が願ったことをためらわずにそこから取った、Chiarino の著作と Boncompagni's Bullettino, XII,426 の中の Baldi の論も見よ。

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原注41

 1539年の彼の Arithmetica の中に。

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原注42

 "De erroribus F. Lucae quos vel transferendo non diligenter examinavit, vel describendo per incuriam praeteriit, vel inveniendo deceptus est." また、Cossali, "Elogio di Fra Luca Pacioli," in the Scritti inediti, p.63 (published by B.Boncompagni, Rome, 1857)も見よ。二つの版(1494年と 1523年)のそれぞれのバリエーションについては、E.Narducci, "Intorno a due edizioni della Summa de Arithmetica," Rome, 1863. を見よ。

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原注43

 その著作のこのフレーズについては、Annali del R. Istituto Indust. e Professionale di Torino, Vol. V. (Turin, 1877)からのリプリントである V.Gitti, "Gli Scrittori Classici della Partita Doppia," を見よ。

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原注44

 C.Winterberg, Vienna, 1896.によるドイツ語訳。

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原注45

 パチオリは、ここでは、すでに述べた Franceschi の著作から自由に資料を取っている。

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原注46

 その時代のイタリアの著述家たちは、その名のこの形を挙げている。ラテンの著述家たちは、Philippus Calender と Philippus Calandri を用いている。Calandri 自身は、Philippi Calandri というラテン語の属格形しか挙げていない。Rara Arithmetica, p.47 を見よ。

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原注47

 Giovanni Sfortunati (1500年頃、シエナ生まれ),"Nvovo Lvme Libro di Arithmetica, Venice, 1524. p.306 を見よ。

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原注48

 "Filippo Caladri Cittadino Fiorentino, huomo certamete in tale disciplina erudito." 1545年版、fol. 3,r. から。

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