数学史
[サクロボスコ][ロジャー・ベーコン][ジョン・ペッカム][フランスの学者たち][ドイツの著述家たち][13世紀の他の著述家][ビザンチンの著述家たち]
サクロボスコ
この世紀のイギリスの優れた学者たちの中で、第二の人は、サクロボスコ(Sacrobosco)(1)であった。彼は、オックスフォードで教育を受け、1230年頃、パリ大学に入学した。後に、彼はパリで数学と哲学とを教え、1256年頃そこで没した。(2)彼は、クロイスター・ソダリウム・マトゥリナリウム(Cloister Sodalium Mathurinalium)に埋葬され、彼のアストロラーベが墓に置かれている。(3)
サクロボスコは、当時すでに現れていた球面に関する最も広く用いられた著作を書き、彼の「記数方論(Tractatus de Arte Numerandi)」(4)あるいは「アルゴリスムス(計算法)(Algorismus)」を通して、ヒンドゥー・アラビア算術をヨーロッパの学者たちに知らしめるのに大きく寄与した。これらの書物は、広く300年間用いられ、16世紀の終わりま用いられ続けた。(5)
この時期の優れた学者の第三の人物は、ロバート・グロステステ(Robert Grosseteste)すなわちグレイトヘッド(Greathead)(1253年10月9日没)であった。一時、パリの学生であったが、後にオックスフォードの学生そして教師となり、最後には、ロンドンの司教となった。(6)彼の関心は、主に数学の物理学と天文学への応用であったが(7)、また、「幾何学の実践(Praxis geometriae)」という著作やユークリッド(エウクレイデス)のオプティカ(光学)についての著作も書いた。(8)
この時期、オックスフォードの人々の中に、ベイシングストークのジョン(John of Basingstoke)がいた。(9)彼はアテネでギリシア語を学び(1240年)、数体系や恐らく古典時代の数学の何らかの知識をイングランドにもたらしただろう。
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ロジャー・ベーコン
しかし、13世紀のイングランドで最も優れた学者は、博学の、また予言的直感力の人、ロジャー・ベーコンであった。彼の著作は、ユークリッド(エウクレイデス)の「幾何学原論」や「光学(オプティカ)」、プトレマイオスの「アルマゲスト」「光学」、「球面幾何学(Sphere)」についてのテオドシウス、ヒッパルコスやアポロニウス、アルキメデスの著作の一部、さらに様々なアラビアの著述家たちの著作についての知識があることを示している。彼はアリストテレスの著作やそれらの注釈のいくつかに精通していた。代数については、彼は名前以外ほとんど知らなかった。(10)当時理解されていた数学は、天文学以上のものではほとんどなく、この分野での彼の同時代人のほとんどの著作に対して、彼はひどく軽蔑をしていた。この軽蔑は、教えることに関してさらに一層表明されている。そこでは、彼は、莫大な時間が浪費されたと主張した。彼は40年間研究に捧げたが、すべての領域は3ヶ月から6ヶ月でカヴァーできると述べている。(11)パリの教師たちは、「4つの欠点--際限のない幼稚な虚栄、言いようのない虚偽、大量の不要なもの、価値あるものすべての省略」によって特徴付けられるだけだ。こうしたエピグラムのほとんどがそうであるように、その告発は真実ではない。というのは、ベーコンは毒舌をふるうようしむけられたから。彼の同時代の人が、全般に、彼をひどく嫌っていたとしても何ら不思議はない。後の時代に「極めて博識な数学者(doctissimus mathematicus)」として語られるのだけれども、彼は、純粋な数学には何も貢献せず、彼の応用数学に関する主な著作は、世界が評価することにはならなかった暦学であった。(12)
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ジョン・ペッカム
数学の分野でベーコンが弟子たちに及ぼした影響について、私たちはほとんど証拠を持っていないが、恐らく、彼がジョン・ペッカム(John Peckham)(13)に学問研究をするよう鼓舞した人物であると考えるある理由がある。それはともかく、ペッカムは有名な科学者で、彼の Perspectiva communisは、300年の間、古典とみなされてきた。(14)彼は1279年にカンタベリーの司教になっている。
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フランスの学者たち
フランスは、13世紀、重要な数学者を 一人も生み出さなかった。その時代のかなりの部分、フランスの偉大な大学は、学問の場と言うより、むしろ騒動の場であった。しかし、こうした事実があるにもかかわらず、数人の尊敬すべき学者が現れた。その最初の人がブルターニュ出身のフランシスコ会修道士、アレクサンドル・ドゥ・ヴィルデュ(Alexandre de Villedieu)(1225年頃)(15)である。彼は、De Sphaera, De Computo Ecclesiasticoと De Arte Numerandiを書き、パリで教えた。しかし、彼は、その世紀、彼のどんな著作よりも、新しいヒンドゥー・アラビア数詞を普及させるのに恐らく貢献したであろう(17)小さなラテン語の算術詩である Carmen de algorismo(16)で最もよく知られている。少し後(1275年頃)、フランス語で初めて、アルゴリズム(計算法)(の書)が書かれた。
アレクサンドル・ドゥ・ヴィルデュの同時代人に、ヴァンサン・ドゥ・ボヴェ(Vincent de Beauvais)(1250年頃)(18)がいた。彼は、ドメニコ会修道士で、ルイ9世(「聖ルイ」のために書かれた彼の百科事典、Speculum Majus(19)には、非常にわずかしか扱われていないテーマ、四学科(quadrivium)が含まれている。
ロージャー・ベーコンは、当時(1265年頃)の最も偉大な数学者の一人として、ペトルス・デ・マハルンクリア(Petrus de Maharnsuria)(20)という人物に言及している。しかし、彼について知られているのは、彼が磁石についての著作を書いたということだけである。
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ドイツの著述家たち
13世紀のドイツの数学者の中で、三人だけは、特別に述べるに値する。この中で、時代的に一番早く、数学の才能でも第一のものは、ヨルダヌス・ネモラリウス(Jordanus Nemorarius)(21)であり、彼はパリで研究し、Arithmetica decen libris demonstrata(22) と恐らく Algorismus demonstratus(23) を書いただろう。彼は、また、数学的天文学についての著作--Tractatus de sphaera、幾何学についての著作--De triangulis、代数に関する中世の優れた書物の一つ--Tractatus de numeris datis も書いた。「算術(Arithmetica)」(24)は、ボエティウスのものと同じように、論文で書かれた数の理論に関するものであり、彼の著作にオリジナルなものは極めて少ない。その書の唯一価値ある特徴は、全般に数字を表す文字の使用である。これは、すでにアリストテレスやディオファントスを含む初期の著述家たちの著作の中にある程度見られるものである。しかし、ヨルダヌスは、文字を全く今日使用されているのと同じように扱っている。例えば、文字bをどんな数でも表せるようにしている。(25)その Tractatus de sphaera は、長い間古典であって、何度か版が刷られた。De triangulis(26) は4書からなる著作で、三角形の重心、曲面、相似の弧(弓形)のようなテーマの命題と共に、一般のタイプの72の命題を含んでいる。
Tractatus de numeris datis は、代数の規則の体系である。その問題は(27)、一般に numerus datus、つまり、与えられた数(28)と関係している。それは、現代の代数の多くの問題でのように、何らかの決められた仕方で分割されなければならない。(29)
彼は、また、De Ponderibus Propositiones XIII と題する著作も書いている。それは、1533年にニュールンベルクで出版され、静力学(statics)を簡単に扱ったものを含んでいる。彼は、1222年に、ドメニコ会修道会の総会員となったヨルダヌス・デ・サクソニア(Jordanus de Saxonia)である。(30)
この時期のドイツの学者たちの中で最も偉大な人の一人は、ボルシュテットの伯爵、ドメニコ会の聖職者で、レーゲンスブルクの司教であったアルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus)(31)である。彼は、パドヴァで学び、ボローニャ、ストラスブルク、フライブルク、ケルン及びパリで教えた。彼は、非常に多方面の才能を発揮したので、「普遍的博士(Doctor Universalis)」と呼ばれた。彼の関心は、主に、哲学と物理学であったが、彼の著作には、天文学の資料やピュタゴラスの算術への論及もいくらか含んでいる。(32)クロード・フリュリ(Claude Fleury)は、1691年に教会史を書いた人だが、彼は、彼の書物を除けば、彼には何も偉大なものは見いだせないと記述している。
その世紀の終わりに(1270年頃)、ヴィテロ(Witelo あるいは Vitello)(33)という、恐らく、チューリンゲン(Tueringen)出身だろうがポーランド出身の可能性もある人が(34)、透視画法(perspective)、光学(optics)と天文学について書いており、その事実は、13世紀にポーランドでこの応用数学の分野への関心があったことを示している。
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13世紀の他の著述家
数学に触れる著作を書いたこの世紀の学者の中で最も優れているのは、el Sabio(賢王)として知られるカスティリア王、アルフォンソ10世(1223-1284年)であった。彼は、功績のある天文学者で、彼の名は、アルフォンソ天文表(Alfonsine Tables)--プトレマイオスによって残された不完全な表を改良した惑星表(planetary tables)--に現れる。その仕事は、1248年に始まり、1254年に完成している。(35)ティチョ・ブラヘ(Tycho Brahe)は、その編集に伴うお金を浪費したと嘆いたと言われている。それは、間違いなく数学的天文学の研究を刺激したのだけれど。
その時期のもう一人の優れた著述家は、アルノルド・デ・ヴィッラ・ノヴァ(Arnoldo de Villa Nova)(1235年-1313年頃)(36)であった。彼は、パリ、バルセロナ、そしてモンペリエで教えた。主として、医学と錬金術の20の著作で知られている一方、Computus Ecclesiasticus & Astronomicus(37) をも書いている。恐らく、それは、占星術との関連を通してそのテーマの研究へと導かれたのだろう。(38)
ロジャー・ベーコンは、彼の同時代の人々のほとんどを非難して、「今は、それほどの名声を得てはいるが、一方、オリジナルのギリシア語での学問に無知であることはパリの知識人たちのみんなにはよく知られているので、そうしたふりをしている」有名なウィリアム・フレミング(William Fleming)について語っている。このフラマン(フランドル)人の著述家は、クレメンス4世(Clement IV)とグレゴリウス10世の補助司祭(chaplain)であるメルベッケのウィリアム(William of Moerbecke)(39)であった。彼の翻訳したものの中に、ヘロンの反射光学(catoptrics)や浮動物体に関するアルキメデスの著作があった。(40)この著者からアルキメデスの翻訳をタルタリア(41)が剽窃したと考えられている。(42)彼はまた、透視画法(遠近法)についても著述している。
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ビザンチンの著述家たち
13世紀、近東での注目すべき唯一の著述家は、ゲオルギオス・パキュメレス(Georgios Pachymeres)(43)であった。彼は小アジアの生まれであるが、便宜上ヨーロッパ人と分類されるだろう。彼は「4つの数学的学問(Four Mathematical Science)」(44)、すなわち、算術、音楽、幾何学と天文学について著述した。その著作は、学問の関心が 1097年の十字軍によるニケーアの争奪と 1330年のトルコの侵入者の前の没落の時期に、すでに完全に失われていたのではないかということを示していることだけで重要である。
その他には、13世紀のコンスタンチノープルの数学のことは、ほとんど知られているものはない。しかし、そこの学者たちがギリシアの数詞の文字をhを反転したものに似た零の記号を加えて、15世紀までも使われていたことを示す証拠がある。それらの問題は、ささいなもので、主として計量に関するものである。(45)彼らは、ギリシアの形式を用いていたが、アラビア人の数体系をも知っていて、その起源はヒンドゥーであると語っていた。しかし、彼らは私たちが一般にアラビアのものと呼ぶ数詞には精通していなかった。
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原注1
- ヨークシャー(Yorkshire)のハリファックス(Halifax)で 1200年頃生まれる。1256年頃パリに没す。名前は、Johannes de Sacrobosco, John of Halifax, John of Holywood, Sacro Bosco, Sacrobustoのような様々な形で現れる。Sacroboscoは、Holywood(Holyfax,Halifax)のラテン語である。Widman (1489)は、その名を Iohane vo sacrobustoと、Pacioli (1494)は、Gioua de sacro buscoと書いている。J.Aubrey,"Brief Lives," ed. Clark, I,408. (Oxford, 1898)(以後、Aubrey,"Brief Lives"として言及)は、「Dr. [John] Pell is positive that his name was Holybush.」と言っている。
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原注2
- 彼の死の年代は、以前は、確かに、G.J.Vossius, "De Vniversae Mathesios Natvra & Constitvtione Liber,"p.179 (Amsterdam) の権威によって、1256年とされていた。P.Tannery は、Vossiusがこの年代を得た曖昧な詩から彼の Compotus の完成、さらに、その年代は、1256年ではなく 1244年と読むべきだということを示している。その詩は、
"M. Xristi bis C quarto deno quater anno."
である。Bibl.Math.,XIII (2),32.を見よ。
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原注3
- J.C.Heilbronner, "Historia Matheseos Universae",p.471 (Leipzig, 1742); 以後 Heilbronner,"Historia"として言及。Wood (Historia Oxon., I,85) は、そこで彼の教えについてこう話している。「Joh, de Sacro bosco. Claruit apud Parisienses in Mathesi & in Philosophia.」
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原注4
- Halliwell, "Rara Math.,1."で出版されている。早い時期の版は、"the Rara Arithmetica"を見よ。1897年に出た M.Curtzeによる版である。
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原注5
- Suter, "Univ. Mittelalt., p.67; Bibl.Math., XI (2),97; P.Riccardi, Bibl.Math.,VIII(2),73.
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原注6
- Wood ("Historia Oxon, I, 81)によって与えられたように、彼のいろいろな名前は面白い。それらには、Grossum caput, Groshedius, Grouthede, Grokede や Groschedeのような形を含んでいる。彼は、また、Robertus Lincolniensis と Rupartus Lincolniensisとしても知られていた。
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原注7
- Theorica planetarum, De astrolabio, De cometis, De sphaera coelesti, De computo, Praxis geometriae, と Calendarium.
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原注8
- また、A.G.Little,"Roger Bacon Essays,"の L.Baur, "Der Einfluss des Robert Grosseteste auf die wissenschaftliche Richtung des Roger Bacon"を見よ。
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原注9
- この年代のもとに、Matthew Paris は記録している。「Obiit magister Johannes de Basingestokes, archidiaconus Legrecestriae, vir in trivio et quadrivio ad plenum eruditus.」
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原注10
- Opus majus の中で、彼は、「Algebra quae est negotiatio, et almochabala quae est census.」と言っている。
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原注11
- "Multum laboravi in scientiis et lingua, et posui jam quadriginta annos postquam didici primo alphabetum ... et tamen certus sum quod infra quartam anni, aut dimidium anni, ego docerem ore meo hominem sollicitum et confidentem, quicquid scio de potestate scientiarum et linguarum." Opus Tertium, cap.xx.
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原注12
- S.Jebb (1733,1750), J.S.Brewer (1859), J.H.Bridge (1897), と Robert Steeleによる彼の出版された著作に加えて、E.Charles,"Roger Bacon, sa vie, ses ouvrages, ses doctrines... を調べよ。
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原注13
- Kentに、恐らく、1240年より少し前に生まれた。Mortlakeで、1292年12月8日に没す。その名は、Peachamus, Peccamus, Pithsanus など他にいろいろな形で現れる。
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原注14
- Facio Cardano (1444-1524) は、それを "Prospectiua cois d. Iohanis archiepiscopi Catauriesis"というタイトルの下に、それを編集し、それは s.l.a.出版された。(しかし、ミラノでは、1482年)この著作には様々な版がある。
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原注15
- De Villa dei あるいは De Villa Dei Dolensis.
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原注16
- Song on Argorism, すなわち、al-Khowarizmi's arithmetic methods(アルーフワリズミの算術の方法)についての歌。
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原注17
- J.O.Halliwell,"Rara Mathematica,"(London, 1838), 2d.ed. (1841), p.73.に完全に出版されている。
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原注18
- Vincentius Bellovacensis.
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原注19
- 彼の「全集(Opera)」は、1494年にヴェネチアに現れた。
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原注20
- Peter de Maharn-Curia また、Petrus Peregrinus とも呼ばれる。Maharnsuria というのは、Picardy の Maricourt であったように思える。Boncompagni's,"Bullettino,"I,1.
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原注21
- Jordanus de Saxonia また Jordan of Namur としても知られる。彼は、Paderborn の教区の Borgentreich に生まれ、1236年あるいは 1237年に没した。Cantor, "Geschichite,"II, chap.xliii.
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原注22
- 1496年にパリで出版された。
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原注23
- この点についての疑問は、G.Einstroem, Bibl.Math., V (3),9 を見よ。
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原注24
- いずれも初版とは異なっている Royal Society の図書館と オックスフォードの図書館にある写本については、J.O.Halliwell, "A Catalogue of Miscellaneous Manuscripts preserved in ... the Royal Society (London, 1840) と J.Wallis, "Algebra," p.13 (Oxford, 1693) を見よ。
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原注25
- Cantor, "Geschichite," II (2),56; Enestroem, Bibl.Math., VII(3),85.
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原注26
- "Jordani Nemorarii Geometria vel de Triangulis libri IV " in the Mittheilungen des Coppernicusvereins, Heft VI (Thorn, 1887)
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原注27
- P.Treutlein, "Abhandlungen, II,135. を見よ。
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原注28
- 「Numerus datus est cuius quantitas nota est.」
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原注29
- 彼の最初の問題の一つは、実際には次のようなものである。「二つの数の和とそれぞれの数の二乗の和の値が与えられている。例えば、x+y=10, xx+yy=58, それぞれの数は、x=7, y=3. Abhandlungen, II,136(4).
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原注30
- 一つのオックスフォードの写本は、明らかに彼のことを Jordanus de Saxonia と呼んでいる。14世紀のイングランドの年代記作者、Nicolas Trivetは、1222年の下でこう述べている。「Hoc anno in Capitulo Fratrum Praedicatorum generali tertio, quod Parisiis celebratum est, successor beati Dominici in Magisterio Ordinis Fratrum Praedicatorum factus est frater Iordanus, natione Teutonicus, Dioecesis Moguntinae, qui cum Parisiis in scientiis saecularibus et praecipue in Mathematicis magnus haberetur ...」
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原注31
- 1193年あるいは 1205年にシュヴァービア(Swabia)のラウインゲン(Lauingen)に生まれ、1280年、ケルンで没す。Albertus Teutonicus, de Colonia, あるいは Ratisbonensis. Cantor,"Geschichte", II (2),86, とDixon の Sighart(Regensburg, 1857)による彼の伝記の翻訳を見よ。
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原注32
- 彼の「全集(Opera omnia)」の最初の版は、1651年、ライデン(Leyden)に現れた。最も良い版は、1890年のパリの版である。
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原注33
- 最も古い写本では、その名は Witeloとして現れる。Vitelloと Vitelliusという形は、後のものである。他に、Witilo, Witulo, Widilo, Wito, Vitellion など多くのヴァリアントがある。
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原注34
- 彼は、自分の国のことを語ってこう言っている。「In nostra terra, scilicet Poloniae habitabili ... 」また、自らのことを「Thuringo-polonus」また「Filius Thuringorum et Polonorum」として語っている。それで、恐らく彼の母親はポーランド人であろう。
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原注35
- 完成の年代は、時にこれより遅く置かれることがある。その表は、1483年にヴェネチアで初めて出版された。
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原注36
- Arnauld de Villeneuve, Arnald Bachuone, Arnoldus Villanovanus. 彼は、恐らくカタロニア(Catalonia)のヴィッラ・ノヴァ(Villa Nova)で生まれただろうが、南フランスのヴィッレヌーヴ(Villeneuve)の可能性もある。
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原注37
- 1501年にベネチアで出版された。その版に関しては、"Rara Arithmetica",p.73 を見よ。
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原注38
- 占星術で用いられた幾何学的図形については、この時期の著述家である、Raymundus Lullus (1235-1315年頃)の the "Ars Magna"で調べることができる。
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原注39
- Guilielmus Brabantinus or Flemingus. 彼は、コリント(Corinth)の大司教として 1281年頃に没す。
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原注40
- De iis quae in humido vehunter. また、J.L.Heiberg, "Zeitschrift"(Hl.Abt.), XXXIV, 1-84; XXXV (Hl.Abt.), 41-48, 48-58, 81-100, そしてそして後の巻を見よ。
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原注41
- 297ページを見よ。
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原注42
- Cantor, "Geschichte," II (2),514.
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原注43
- コンスタンチノープルからおよそ60マイル離れたビチュニアのニケーアに1242年に生まれる。1316年頃没す。
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原注44
- Περι των τεσσαρων μαθηματων Παχυμερουs μεγαλου διδασκαλον. 様々な写本が現存する。E.Narducci, "Di un Codice Archetipo e Sconosciuto dell'opera de Giorgio Pachimere," Rendiconti della R.Accad. dei Lincei, VII,194.
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原注45
- J.L.Heiberg, "Byzantinische Analekten," Abhandlungen, IX,161.
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