数学史

[スペイン][11世紀のユダヤの学者][ラビ、ベン・エズラ][12世紀のスペイン][12世紀のユダヤの著述家][13世紀のユダヤの著述家][12世紀のアラビアの著述家][13世紀以降のアラビア著述家]

スペイン

 AD1000年頃、多くのムーア人の学者がスペインに現れ、算術や天文学、また時折代数の文献に貢献した。これらの学者たちの中で、最も優れた数名の名を挙げれば、数学全般の分野での彼らの関心と偉業との範囲を示すのに役立つだろう。
 コルドバ生まれのイブン・アルサッファール(Ibn al-Saffar)(1)は、天文表と天文器具について書いた。少し後(1050年頃)、イブン・アルザルカラ(ツァルカラ?)(Ibn al-Zarqala)(2)は、恐らくコルドバの生まれだと思うが、天文学と占星術について著述し、1セットの天文表を用意した。(3)
 その世紀の後半、デニア(Denia)出身のスペインの医学者アブル・サルト(Abul-Salt)(4)は、幾何学と天文学について書き、ジャビール・イブン・アフラ(Jabir ibn Aflah)(1140年と 1150年の間に没)、一般にはヘベル(Geber)として知られているが、セヴィリアで活躍し、天文学、球面三角法とメネラオスの横断線の定理について書いている。(5)彼は、よく似た名前の錬金術師とよく混同される。

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11世紀のユダヤの学者

 11世紀の終わりに、スペインで最も学識ある学者は、しかし、イスラム教徒ではなかった。ユダヤ民族、彼らは都合のよいことにスペインの東洋文明との関係で述べられることになるが、全般的に、キリスト教の支配でよりもサラセンの支配の下での方が、よい扱いを受けていた。この時代以前に、イタリアでいくらか活躍したことはあったが。ムーア人から受けた励ましを通して、ユダヤ人たちはスペインでの数学の発展に少なからぬ程度の貢献をし、キリスト教徒たちは、数学に関するアラビア語の著作の最初の知識を彼らに負うている。(6)この世紀のユダヤの優れた学者たちの第一は、アブラハム・バル・キイア(Abraham bar Chiia)(7)(アブラハム・ユダエウス(Abraham Judaeus))、一般に、サヴァソルダ(Savasorda)(8)として知られるバルセロナ生まれの人である。(1070年頃から 1136年頃)彼は、天文学について著述したが、主として、算術、幾何学及び数学的地理学を含む百科事典のために知られている。(9)この断片しか、今は現存しないが、彼はまた、Liber Embadorum(10)という題名の著作も書いている。この著作は、幾何学を扱っているが、数の理論で用いられた多くの定義も含まれている。この中で、彼はフランス系ユダヤ人を幾何学に無知であり、それ故に算術に弱いと非難している。この著作は、チボリのプラト(Plato of Tivoli)によってヘブライ語からラテン語に翻訳された。

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ラビ、ベン・エズラ

 この時期の第二の偉大なヘブライの学者は、アブラハム・ベン・エズラ(Abraham ben Ezra)であった。(11)彼は、数の理論、暦学、魔方陣、天文学、そしてアストロラーベについて著述した。カバラに非常に関心があって、当時の最も学識のあるユダヤ人として正当に評価されている。(12)彼は広く旅行し、少なくとも東はエジプトまで、北はロンドンまで(1158年)行っている。天文学、暦学とその近隣のテーマに関する貢献に加えて、彼は数について3,4の著作を書いている。(1) セフェル・ハ・エチャド(Sefer ha-Echad)(13);(2) セフェル・ハ・ミスパル(Sefer ha-Mispar)(14)、主に算術について;(3) Liber augmenti et diminutionis vocatus numeratio divinationis, これはラテン語の翻訳だけで知られており、恐らく彼によるものではないだろう。(15)(4) タ・フブラ(Ta 'hbula)、ヨセフス問題(Josephus Problem)を含んでいて、分冊の可能性があり、恐らく彼によるものだろう。これらの中で、セフェル・ハ・ミスパル(Sefer ha-Mispar)だけが、唯一重要である。それは、ヒンドゥーの算術に基づいているが、数詞としてヘブライ文字を用いており、計算法の中で0を使っている。彼は何人かの先人がしていたように、9を捨てるというチェックを採用している(?)(the check of casting out nines) 次のは、彼の規則の例である。「ある一定の数まで連続する数の合計がいくらになるか知りたいと思う人は、その数にその数の半分を掛け、それにその数の 1/2を加えなさい。その結果が、その合計である。」(16)
 ユダヤ人によっても、キリスト教徒によっても、同様に高く評価されていたけれども、彼の運命は全くの幸せであったとは言えなかった。彼は逆境との戦いの中で、次のような言葉で嘆きを漏らしている。

  Were candles my trade it would always be noon;
  Were I dealing in shrouds Death would leave us alone.
    (私の交易品がろうそくであるならば、常に正午(真昼)のよう(に明るく)であり;
     私が死体を包む布を扱っているのなら、死に神は私を一人にしておくだろう。)

 この時期のユダヤの活動と関連して、また裁判官のハサン(Hasan)のことを思い起こすだろう。彼は、10世紀に著作したようだが、どこの国でかは知られていない。また、スペインの医者であったと思われるイェフダ・ベン・ラクフィアル(Yehuda ben Rakufial)の名も思い起こす。この二人ともユダヤの暦について著述し、前者は、ラビ、ベン・エズラによって言及されている。

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12世紀のスペイン

 12世紀は、スペインの数学の研究には、その前の時代の人々より遙かに好ましかった。アラビアの著述家たちの中で、第一の者は、中世には一般にこう呼ばれていたが(17)、アヴェロエス(Averroes)(1126年頃-1198/9年)であった。彼は天文学と三角法について著述している。彼の同時代人で、学問に最も優れた人は、アヴェンパセ(Avenpace)、キリスト教徒たちによってこう呼ばれていたが(18)、であって、彼は、セヴィリヤとグラナダに 1140年頃生きていて、幾何学について著述している。

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12世紀のユダヤの著述家たち

 しかし、先の世紀と同じように、この世紀も、数学の発展に最大の寄与をしたのは、ヘブライの学者であった。ラビ、ベン・エズラ(Rabbi ben Ezra)を別にしても、二人の学者を特別に取り上げるのに値する。マイモニデス(Maimonides)(19)(1135年-1204年)、コルドバ生まれ、スルタンお抱えの医師で優れた天文学者であった人物(20)と、ヨハネス・ヒスパレンシス(Johannes Hispalensis)(21)(1140年頃活躍)である。彼は、キリスト教の信仰を告白し、算術と占星術について著述し(1142年)、様々なアラビアの数学に関する著作をラテン語に翻訳した。(22)
 同じ世紀、それほど著名ではないが、様々なユダヤの学者たちがいた。例えば、サムエル・ベン・アッバス(Samuel ben Abbas)(23)、彼は、算術(24)、ヒンドゥーの数詞とその用法(25)、代数そして幾何学について著述している。また、名前不詳のイギリスのユダヤ人もいた。彼はイギリスの歴史家たちによって Mathematum Rudimenta quaedam と呼ばれる著作を書いた。

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13世紀のユダヤの著述家たち

 13世紀には、アラビア語からヘブライ語になされた様々な翻訳が見られる。そして、その何人かの翻訳者が知られている。これらの中に、モーゼス・ベン・ティボン(Moses ben Tibbon)(26)がいる。彼の父親と祖父は、哲学及び科学(学問)的著作をアラビア語からヘブライ語に翻訳した人として著名であった。彼は、その世紀の中頃、積極的に仕事をし、アルペトラギウス(Alpetragius)の天文学(27)と恐らく 210ページに述べられるアル・ハッサル(al-Hassar)(1200年頃)の算術を翻訳した。
 この時期の他のユダヤの学者たちも、主に天文学への学問的関心を示していた。例えば、トレドのイェフダ・ベン・サロモン・コヘン(Jehuda ben Salomon Kohen)(1247年没)は、プトレマイオスの「アルマゲスト」について著述している。彼は、また、エウクレイデス(ユークリッド)から短い抜粋を用意し、その注釈を書いている。また、トレドのイサク・ベン・シド(Issac ben Sid)(1256年没)は、彼のちょうど死の直前に、アルフォンソの天文表(Alfonsine Tables)(p.228を見よ)を編集した。
 13世紀の中頃、コルドバに、有名なティボン一族のもう一人の子孫--ヤコブ・ベン・マキル(Jacob ben Machir)、プロファティウス(Prophatius)として知られる人物が生まれた。彼は、モンペリエに住み、彼が発明した四分儀(quadrant)(the quadrans Israelis あるいは quadrans Judaicus)(28)について著述し、エウクレイデス(ユークリッド)の「幾何学原論」と「ダータ」そしてメネラオスの「球面(幾何学)(Sphere)(29)をアラビア語からヘブライ語に訳し、暦(almanac)についての著作を書いている。

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12世紀のアラビアの著述家たち

 12世紀の西方アラビア人の間で、算術に関する著述家の中で、最もよく知られた人たちの一人は、アブ・ベクル・モハメド・イブン・アブダラ(Abu Bekr Mohammed ibn 'Abdalah)(30)、一般には、アル・ハッサル(al-Hassar)として知られている人物である。(31)彼の著作は、あまりに受け入れられていたので、すでに述べたように、モーゼス・ベン・ティボンによってヘブライ語に翻訳されている。(32)(1259年) その著作は、明らかに西洋的である。というのは、ゴバル(gobar)の数詞を用いているから。

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13世紀以降のアラビアの著述家たち

 13世紀初め、キリスト教徒の呼び名で、アルペトラギウス(Alpetragius)(33)が、スペインに、恐らくセヴィリャに住んでいて、天文学について著述した。(1200年頃)彼の惑星の運動の理論は、その著作が彼を数学の著述家としての地位を与えたのだが、マイケル・スコット(Michael Scott)によってラテン語に訳されている。
 アルペトラギウスと同時代の人に、イブン・アル・カティブ(Ibn al-Katib)(34)(1210/11年没)という人物がいた。彼は、算術、幾何学と建築についての若干の議論を含む二つの著作を書いている。
 13世紀に、地理的にスペインの文明と緊密な関係にある北アフリカで生まれた学者の中で、最もよく知られているのは、アルバンナ(Albanna)、すなわちイブン・アル・バンナ(Ibn al-Banna)(35)である。彼は、アル・マラクシ(al-Marrakushi)としても知られているという事実から、私たちは、彼はモロッコ生まれであったと推測している。(36)彼は、天文学、計量、代数、アストロラーベ、そして比について著述している。彼の最もよく知られた著作は、算術の論文である「タルキス(Talchis)」である。(37)
 また一人、イブン・ベドル(Ibn Bedr)(38)として知られるセヴィリャのイスラムの学者がいた。彼は、当時の代数の概論(要約)を書いている。(39)年代は不確かだが、1311/12年に韻文で書かれたその注釈がある。
 スペインのムーア人の偉大な算術家の最後の人物は、アル・カラサディ(al-Qalasadi)(40)である。グラナダの近くの町、バザ(Baza)の生まれである。彼は、算術について広く著作をし、数の理論の扱いにおいて、ある独創性を持っていたように思える。彼は、新しい根号と等号を導入し、上昇の?(ascending)連分数(continued fraction)の体系を提唱した。(41)

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原注1

 Ahmed ibn 'Abdallah ibn 'Omar al-Gafiqi, Abu'l-Qasim (1035年没)

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原注2

 Ibrahim ibn Yahya al-Naqqash, Abu Ishaq.

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原注3

 Schonerは、1534年に彼の作品の一つを翻訳した。

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原注4

 Omeiya ibn 'Abdel'aziz ibn Abi'l-Salt (1067/8-1133/4).

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原注5

 彼の天文学は、クレモナのゲラルドによって翻訳され、1534年に出版された。

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原注6

 Libri, "Histoire", I,154 n.

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原注7

 あるいは、Chijja, Chiya.

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原注8

 Sahib al-Shorta,"Chief of the Guards." サヴァソルダ(Savasorda)への音訳はチヴォリのプラト(Plato of Tivoli)(1120年頃)による。

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原注9

 Iesode ha-Tebuna u-Migdal ha-Emuna.

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原注10

 これは、フィボナッチの幾何学の資料の一つである。M.Curtze,"Abhandlungen" XII を見よ。そこでは、ラテン語とドイツ語の翻訳がある。その題名は、ギリシア語εμβαδον、面積あるいは面、から来ている中世ラテン語。彼の著作や同時代のユダヤの著述家については、J.Bensaude,"L'Astronomie Nautique au Portugal", p.52 (Bern, 1912); 以後は、Bensaude,"Astron. Portug."として言及する、を見よ。Bibl.Math., 1896, p.36 を見よ。

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原注11

 1093年から 1096年の間にトレドで生まれる。1167年、ローマあるいはルーアンで没す。これは、ブラウニング(Browning)の詩のラビ・ベン・エズラである。彼は、時々 Abraham ben Chiiaと混同される。恐らく、いずれも Abraham Judaeusと呼ばれていたから。彼の生涯については、M.Steinschneider, "Bibl.Math., IX(2),43; Abhandlungen, III,57; Bensaude, loc.cit.,p.52. を見よ。

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原注12

 O.Terquem,"Journal des mathematiques pures et appl., VI,275.によって数学者として彼に注意が向けられた。その時から、彼の著作は、Luzzato, Rodet と Steinschneider によって研究されてきた。また、Amer.Math.Month., XXV,99. の Smith と Ginsburg も見よ。

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原注13

 Book of Unity. これは二度出版された。Bamberg, 1850; Odessa, 1867.

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原注14

 Book of Number. M.Silberberg は、フランクフルトでドイツ語訳を出版した。1895. また、Bibl.Math.,IX(2) 91も見よ。

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原注15

 彼の書であることに好意的なのは、Cantor,"Geschichte, I,(3),730.; 反対しているのは、G.Wertheim, Bibl.Math., II(3),143. また、P.Tannery, Bibl.Math., II (3),45も見よ。Liber augmenti ... divinationis は、Libri によって出版された。しかし、彼の Liber de nativitatibus (Venice, 1483)は、出版された彼の最初の著作であった。

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原注16

 すなわち、s=n(n/2+1/2). Sefer ha-Mispar, ed. Silberberg, p.24 (Frankfort a.M.,1895)

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原注17

 彼の名は、Mohammed ibn Ahmed ibn Mohammed ibn Roshd, Abu Velid.

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原注18

 彼の名は、Mohammed ibn Yahya ibn al-Saig, Abu Bekr, Ibn Bajje と Ibn Saig としても知られている。"Avenpace"(Avempace)とも綴られる)という名は、スペイン語の形である。それで、アベンパセと発音される。

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原注19

 Rabbi Moses ben Maimun. 彼は、1177年にカイロのラビになった。

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原注20

 ボードリアン博物館の写本の中に、彼のユダヤの暦がある。暦に関する彼の著作の一部は、1849年にパリで、1859年にライプチヒで、1881年にベルリンで出版された。

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原注21

 セヴィリアのヨハネスとルナのヨハネス。そうした多くの場合のように、最初の名は、しばしば Joannesと書かれた。全体の名は、Johannes Hispanensis あるいは Johannes de Hispania とも書かれる。彼の死の年代は、1153年であったかも知れない。

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原注22

 少なくとも、いくつかがスペイン語に訳され、それから Domenico Gondisalvi によってラテン語に訳された。彼の Alghoarism de Practica Arismetrice は、B.Bomcompagni によって、1857年、ローマで出版された。それは、アラビア語の資料に基づいているが、翻訳はない。彼の翻訳は、Alfraganus (al-Fargani, 833年頃)、Abu 'Ali al-Chaiyat (卓越した占星術師 835年没。)と Tabit ibn Qorra (875年頃)による著作を含んでいる。彼の著作は、1548年、ニュルンベルクで出版された。

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原注23

 M.Steinschneider, Bibl.Math.,X (2),81. 彼は、モハメッドの信仰を受け入れた。彼のアラビア語の名は、Samuil ibn Yahya ibn 'Abbas al-Magrebi al-Andalusi. である。彼は、1174/5年に没した。

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原注24

 Al-Tab'sira.

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原注25

 Al-Qiwami, 恐らくパトロンの Qiwam ed-din Yahya にちなんで名付けられた。

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原注26

 Bibl.Math., X (2),112.

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原注27

 Kitab al-hei'a

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原注28

 コロンビア大学図書館に、明らかに15世紀のものである、その著作のよい写本がある。その著作は、数回、ラテン語に訳されている。

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原注29

 Boncompagni's "Bullettino",IX,595; Bibl.Math., XI(2),35. その名は、また、Propatiusとしても現れる。彼は、1308年頃没する。

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原注30

 ゴタ?写本(Gotha MS)は、Abu Zakariya Mohammed ibn 'Abdallah ibn 'Aiyash. として、その名を挙げている。Bibl.Math., XIII (2),87. を見よ。

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原注31

 すなわち、Computer(計算機?);しかし、Suter は、これは苗字だと考えている。H.Suter,"Das Rechenbuch des Abu Zakarija el-Hassar."in Bibl.Math.,II,(3),12 と III(2),109 を見よ。また、ibid., XIII (2), 87. も見よ。

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原注32

 恐らく。ヴァチカン写本は、まだ批判的に研究されなければならない。

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原注33

 Nur ed-din al-Betruji, Abu Ishaq.

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原注34

 Mohammed ibn 'Abderrahman, Abu 'Abdallah.

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原注35

 すなわち、建築家の息子。彼の完全な名は、Ahmed ibn Mohammed ibn 'Otman al-Azdi, Abu'l-Abbas. 1258年頃生まれ、モロッコで 1339年頃没す。

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原注36

 A.Marre, Atti dell'Accademia Pontificia dei Nuovi Linsei, XIX (以後は、Atti Pontif として言及する);M.Steinschneider, Bincompagni's "Bullettino", X,313. Suter の一覧(リスト)は、臨時的な名 al-Marrakushi を省略し、彼の誕生年を 1258年頃以降にしている。時々、1252年にされることもあるが。父親は、グラナダ一族に属していたように思える。

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原注37

 Cantor,"Geschichte",I (3),806. で議論された。

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原注38

 Mohammed ibn 'Omar, Abu Abdallah.

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原注39

 Jose A, Sanchez Perez,"Compendio de Algebra de Abenbeder", アラビア語のテキストとスペイン語の翻訳。Madrid, 1916.

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原注40

 Ali ibn Mohammed ibn Mohammed ibn 'Ali al-Qoreshi al-Basti, Abu'l-Hasan. "al-Qalasadi"という名は、「高潔な、法律に精通した」という意味である。Suter は、彼の死の場所と年代を、チュニス、1486年としている。

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原注41

 Woepcke in the Journal Asiatique, 1854, II,358, と 1863, I, 58. Atti Pontif., XII, 230,399.も見よ。

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