リトモマキア
11世紀と言えば、リトモマキア(rithmomachia)(1)という数のゲームのことに触れなければならない。これに関する最も初期の論文の一つは、修道士フォルトルフス(Fortolfus)によるものである。彼は、恐らく、11世紀の終わり頃に生きていただろう。(2)そして、それが指摘するように、その世紀以前には知られていなかった。時折、ボエティウスやピュタゴラスにまでさかのぼるとされることもあるのだが。このテーマについては、ヴァチカン図書館に写本がある。タイトルは「リトマキヤ(Ritmachya)」であり、1077年に、ベネディクトゥス・アッコリトゥスとして知られる修道士によって書かれた。また、そのゲームは、中世の詩「デ・ウェトゥラ(De Vetula)」(3)にも言及されている。それに興味を持った初期の著述家は、すでに述べたように、ヘルマヌス・コントラクトゥス(Hermannus Contractus)(1013-1054)の他には、ヨルダヌス・ネモラリウス(Jordanus Nemorarius)(1236年頃没)とニコレ・オレスメ(Nicole Oresme)(1323-1382年頃)の二人であった。
このゲームは、ニコマコスによって示されているギリシアの数の理論に基づいている。それは、四角い形の二重のチェス盤で遊ばれる。一方の側には8つの正方形があり、他方には16ある。駒は、三角形、四角形、円と角錐で、それぞれある数値を有している。これらの駒は、1496年の著作から、図(p.199)で示されたように並べられた。数字は、アットランダムに取られているわけではないが、それらが配置された意図は、この書で説明するには複雑すぎる。三角形の場合には、81=72+72*1/8、6=4+4*1/2、9=6+6*1/2、四角形の駒の場合には、45=25+20 と 15=9+6、角錐は、四角の上に重ねられていて、91=6^2+5^2+4^2+3^2+2^2+1^2 と 190=8^2+7^2+6^2+5^2+4^2 となっている。四角の場合には、S=(2n+1/n+1)*S' という公式があり、それぞれの文字の意味は、図を見ていると見いだせるだろう。そこでは、S=25, S'=15, n=2 あるいは、S=81, S'=45, n=4 である。ゲームは非常に複雑で、私たちの目的には、ゲームの最高潮は、Victoria praestantissima に到達したときであるということができる。Victoria praestantissima では、一般の3つの数列--算術的、幾何学的、調和的数列を具現化する4つの数を一列に並べる必要がある。これらの駒で、可能な唯一の解法は、数字で6である。このゲームは、中世では、ギリシアの数の理論に精通していることが要求されていて、数学のエリートたちだけができるもののように見えるだろう。その人気のほどは、11世紀には少なくとも3つの写本、12世紀と13世紀には3つの写本によって、さらに、このテーマについていくつかの印刷された論文から証明されている。これらはすべて、私たちに伝えられているほんのわずかの名前のリストから、私たちが考える以上に多くの数の理論についての学者がいたことを示しているだろう。(4)
12世紀は、キリスト教ヨーロッパにとって、9世紀が東方イスラム教世界においてそうであったのと同じ関係、翻訳の時代であった。バグダードの場合は、これらの翻訳はギリシア語からアラビア語への翻訳であったが、キリスト教ヨーロッパの場合は、アラビア語からラテン語への翻訳であった。東方の学問を知ろうとするこの願望の理由を見いだすことは困難ではない。11世紀との関連ですでに述べた原因は、100年たった後には、さらに一層強くなり、芸術や学問におけるムーア人によるスペインの発展は、すでに、フランスやイタリア、イングランドの教会の学校の上流階級の人々に知的な不安を引き起こしていた。この不安の結果がスペインへの学生たちの流入であり、様々な学者たちの側からは、アラビアの何らかの知識の獲得であり、東方の学問を知り知らしめたいという強い欲求であった。ちょうど、バグダードが決してギリシアの文学を翻訳せず、ギリシアの科学学問を熱心に知ろうとしたように、ヨーロッパも、アラビアの文学にはほとんど注意を向けず、カリフの首都で名声を得ていた天文学、算術、三角法、光学、占星術、幾何学、そして医学についての著作に非常な関心が向けられた。ユークリッド(エウクレイデス)の「幾何学原論」でさえ、オリジナルのギリシア語でなく、主としてアラビア語の翻訳を通してラテン教会の学者たちには知られるようになった。
12世紀にイタリアとフランスは、2・3の優れた学者を生み出した。彼らのアラビア語の知識と数学への好みは、イスラムやギリシア文明の様々な古典をラテン世界に知らしめることになった。
これらの翻訳者の中で最初の人物は、チボリのプラト(Plato of Tivoli)あるいは、プラト・ティブルティヌス(Plato Tiburtinus)(5)であった。彼は、1120年頃の人で、アルバテニウス(Albategnius)(アル・バッターニ(al-Battani))の天文学、テオドシウスの「球面幾何学(Spherics)」、アブラハム・バール・キイア(Abraham bar Chiia)(1120年頃)の Liber Embadorum その他占星術に関する様々な著作を翻訳した。
この頃、シチリア島も、ギリシアやアラビアの著作の翻訳が活発であった。(6)こうした学者たちの注意を引いた論文の中に、プトレマイオスの「アルマゲスト(Almagest)」があった。そのアルマゲストは、1160年頃、以前にシチリアの学者によってコンスタンチノープルからパレルモにもたらされていたギリシア語の写本から、名前不詳の翻訳家によってラテン語に翻訳されたものである。(7)
何年か後、ゲラルド・クレモネンセ(Gherardo Cremonense)、すなわち、クレモナのゲラルド(Gherardo of Cremona)(1114-1187年)(8)は、イタリアで、それからスペインで学び、トレドではアラビア語を学んだ。彼において、他の多くの中世、またずっと後の科学者たちにとっては、占星術は、医学と数学とを加えた総合学(ネクサス)となったように、彼の関心は、その3つの分野すべてにあった。彼は、様々な数学及び天文学の著作をアラビア語から訳し、その中に、ユークリッド(エウクレイデス)の「幾何学原論」「ダータ(Data)」、テオドシウスの「球面幾何学(Spherics)」、メネラオスの著作、プトレマイオスの「アルマゲスト」(9)が含まれている。その「書物への愛のため」彼はトレドに旅をした。(10)彼の翻訳の中に、半弦(half chord)を表す sinusという言葉が使用された初期の例が見いだせる。これは、三角関数を表す現代の用語の最初である。(11)13世紀に生きていた若いクレモナのゲラルドがいた。彼は、ダ・サッビオネッタ(da Sabbionetta)と呼ばれ、天文学について著述した。(12)
イタリアとフランスの翻訳者の中に、まさに、ブルージュのルドルフ(Rudolph of Bruges)が含まれるだろう。なぜなら、彼の著作のほとんどは、フランスの影響の下で書かれたから。彼の時代頃(1143年頃)、カリンツィアのヘルマン(Hermann of Carinthia)が、プトレマイオスの「平面天球図(Planisphere)」を翻訳している。(13)
イングランドは、12世紀に優れた翻訳者を二人以上生み出しており、アイルランドは少なくとも一人を生み出したように思える。これらの中で最もよく知られているのは、バースのアデラード(14)(Adelard of Bath)である。トレド、トゥール(Tours)、ラオン(Laon)、そして東方でも学び、ギリシア、小アジア、エジプトを経由して、恐らくアラビアまで旅し、多くの数学的著作を持ち帰ったイングランドの学者である。(15)彼は、ギリシア語の知識があると信じられ、ユークリッド(エウクレイデス)をラテン語に訳した最初の人たちの一人だが、この翻訳はアラビア語からなされたように思える。(16)彼かカンパヌス(Campanus)のいずれかが、星の多角形の角の総和を決定したように思える。その図形は、恐らく占星術での使用のためだと思うが、かなりの関心が当時持たれていた。彼は、恐らく、アル・フワーリズミーの天文表を翻訳しただろう。そして、彼は、この著者の算術についての注釈を書き、「算盤の規則?(Regulae abaci)」(17)と題する著作を書いたと言われている。アデラードは、ユークリッドの名をイングランドにもたらした最初の人物では決してなかった。というのは、私たちが見てきたように(p.187)、10世紀には、恐らくイギリスの学者たちに知られていただろうから。
アデラードがトレドに滞在した数年後、数学に関心のある他の二人のイングランドの学者が、自らの研究を究めるためにスペインへ行った。このうち最初の者がチェスターのロバート(Robert of Chester)(1140年頃)(18)であった。彼は、アル・フワーリズミーの代数をラテン語に訳し(19)、いくつかの天文表を用意した。彼は、北スペインのパンペルナ(Pampelune)の助祭長であって、また、イタリアとギリシアに旅したようにも思える。彼は、コーラン(クルアーン)をラテン語に訳した最初の人物であった。(1143年)
このイングランドの学者の二人目は、ダニエル・モーリー(Daniel Morley)(20)であり、1180年、オックスフォードで学んでいた。彼はパリへ行き、そこからトレドへ行って(21)、アラビアの著述家たちを自由に引用しながら、天文学と数学とについて著述した。(22)こうした人たちが、この時代、数学を求めて強制的に外国へと派遣されたことは、ロンドンの学校でなされた著作の記録から明らかである。この著作は、主として文法と弁論術に関する性質のものである。(23)スペインへ行くべきであるというのは、全く自然であった。単に言語の理由からだけでなく、アルフォンソ8世(1158-1214年)とヘンリー2世の娘、レノーラ(Lenora)との婚姻で、カスティリアとイングランドとの間には、親密な関係があったからである。
アデラードの弟子たちの一人、N.オクリート(O'Creat)(24)は、乗法と除法に関する著作を書いているが、それは、アラビアの数学の著述家たちから学んだことを示している。しかしながら、オクリート自身のことは、それ以上何も知られていない。しかし、その名は、彼が生まれた国を暗に示しているだろう。その著作には、aa=(a+b)(a-b)+bbの公式を使って数の二乗を求めるニコマコスの方法を含んでいる。例えば、109^2=100*118+81=11881. 彼はローマの数詞を用いているが、0も零を示すギリシア語のτに似た文字も両方とも用いている。(25)
1125年頃、ラオンのラドゥルフ(Radulph of Laon)(1133年没)は、算術について著述し、この時より少し前(1090年頃)、サン・ポールの小修道院長(prior)のベサンソン(Besancon)(26)のジェルラン(Gerland)は、計算(computus)とアバカス(計算盤)について簡略な著作を書いている。(27)
12世紀初め、ロレヌ(Lorraine)生まれのウォルケルス(Walcherus)という名の、占星術師で幾何学者、そして算盤家(abacist)がいた。彼は、イングランドでかなりの名声を得、天文学について著述している。(28)こうした名前は、当時の教会の学校での数学の内容について証言しているといういことだけでの関心からである。