宗教的政治的影響
紀元1000年紀の間、キリスト教が一般の人々にどれだけの影響を及ぼしていたのか言うことは困難である。歴史家たちは、以前考えられたほどには「千年の恐怖(terreur de l'an Mil)」に注意を向けていない。多くの教養ある人々が、この1000年間に関して、文字通り聖書の論評をなした可能性はないとしても、何人かの人々がそうしたことは確かである。とにかく、この指標(1000年間)が経過した後、キリスト教世界に新しい関心が芽生えたことは見て取れる。
それに、また、十字軍(1095-1270年頃)があった。これは「最初のルネサンス」と呼ばれており、世界大戦が20世紀の文明に為したのと同じことを長く眠っていた文明に対してなした。--ある地域の民族に、他の地域で行われ考えられ希望されていたことの多くを知らしめたのである。それは戦争ではあったが、全般に知的ヨーロッパの境界を越えたものであった。
また、ヨーロッパには、その真ん中に外国の高度に発展した文明の強い影響があった。--スペインのサラセンの覇権である。そして、ラテンの学者たちにギリシアやオリエントの文明の最も優れたものを知らしめたのは、このサラセンの学者たちであった。
更に、ヨーロッパは、その私的な戦争の愚かさを見ていたし、「神の休戦(Truce of God)」は、その力を感じさせ始めていた。平和の祝福が、今再び、フランスやその近隣諸国に定まりつつあり、こうして知的探究を可能なものとした。
これらの影響に、ノルマン人の征服(Norman Conquest)を加えなければならない。そのおかげで、戦争を長引かせず、イギリスを目覚めさせ統一し、一方、大陸が学問と芸術についてイギリスのためになるものを指し示したから。
こうした影響の結果として、ヨーロッパは新しい時代、大聖堂の建築(1)、教会の改革、芸術への新たな関心、政治的実験、そして学問的偉業が大きな役割を果たす時代へと突入する。
にもかかわらず、この時代は、まだ中世の前の世紀の精神によって支配されていた。「信仰が知性を打ち負かす」また「権威は研究の敵となった」、「学者たちは教師に退化した」「学問は錬金術と占星術の泥沼の中に自らを失い、忠実な信者たちには禁物(破門に値するもの)になった」(2)時代であった。このことは、著名な教会人で学者であるゲルベルト(Gerbert)(3)、これまで教会や都市ローマに輝きを与えた偉大な教皇の一人であるが、彼に対する学者世界の態度に見て取れる。彼は教皇の座に就き、シルベステル2世(Sylvester II)という名で 999年から 1003年まで統治した。彼は卑しい両親の下に生まれたが(4)、生来の利発さからオーリヤック(Aurillac)の修道士たちの下で学ぶよう召喚された。特に、フリュリのアッボ(Abbo of Freury)のような立派な学者の下で、そして彼の教育を完全なものとするためにスペインに送られた。(967年)(5) 970年頃、彼はイタリアへ行く。そこで教皇に紹介され、教皇によって皇帝に拝謁された。972年フランスに戻る。彼は教会で様々な職務をこなし、999年に教皇職に選出された。彼は非常に学識のある人で、「魔術として告発された」--私たちの学識の運命は--誤謬と戦い、新たに数学への関心に目覚め、ヒンドゥー・アラビアの数詞の知識を得、占星術(当時価値ある学問と見なされていたテーマ)の研究に何らかの関心を向け、算術(6)、幾何学(7)、その他の数学の諸学と恐らくアストロラーベについて(8)著述しただろう。
ゲルベルトと同時代の人物であるが、ゲルベルトの人生が壮大であったのと極めて対照的に地味な生涯を送った人物、ラムゼー(Ramsey)の修道院のイギリス人修道士、その名はバートファース(Byrhtferth)(9)がいた。彼はフランスに旅し、フリュリのアッボ(Abbo of Fleury)の下で学んだ。イギリスに戻ると、学生のグループがラムゼーで彼を待ち受けていたのを発見する。彼は彼らに、天文学、暦学、そして数学の原理を(10)教え始めた。しかし、時代は研究に都合のよい時代ではなかった。この3世紀の間(1000-1300年)、イギリスには平均して14年に一度の飢饉があり、生活は厳しかった。恐らく、そうした災難が示しているように、物質に対する精神の克服の必要性がイギリスの後の思想家たちが生まれるのを可能にした影響の一つだっただろう。
大陸では、サン・ゴールがこの時代の修道院の学問の主要な中心の一つであった。ここでは、よく知られた学者、ノトカー・ラベオ(Notker Labeo)(11)(c.950-1022年)がいて、計算について書いた他に、カペッラの百科事典の一部と恐らくボエティウスの算術のいくらかを翻訳しただろう。(12)
ゲルベルトの数学の弟子で最も優れた人は、パリのベルネリヌス(Bernerinus of Paris)であった。彼はゲルベルトの計算法を説明した算術を書いたが(13)、彼の生涯についてそれ以上のことは知られていない。(14)
少し後(c.1028年)、アレッツォのグイード(Guido of Arezzo(Aretinus))、フェッラーラ近くのポンポーザ生まれのベネディクト会修道士であるが、彼は算術について著作し(15)、また、ほぼ同じ頃(c.1066)、リエージュのフランコ(Franco of Lie'ge)が同じことをしている。この時代、それほど一般でなかったことは、円の求積法について書いたことである。(16)彼の同時代人の中に、ヒルシャウ(Hirschau)の大修道院長、ヴィルヘルム(Wilhelm)(1026-1091年)がいた。彼は数学を天文学とを教えた。
11世紀、ゲルベルトの後継者の中で、最も優れていたのは、シュヴァーベン伯、ヴォルヴェラト(Wolverad)の息子、ヘルマヌス(Hermannus)であった。彼の四肢は子供の時から痛ましいほど収縮し、歴史上、ヘルマヌス・コントラクトゥス(Hermannus Contractus)として知られている。(17)ライヘナウの修道院の学校で教育を受け、後にベネディクト会修道会に入り、数学の講師となり、周囲に多くの生徒を集めた。彼は、アストロラーベ(18)、アバカス(計算盤)、そしてリトモマキア(rithmomachia)という数のゲーム(19)について著述した。
西洋の知的活動の時期、コンスタンチノープルには対抗できるような人はほとんどいなかった。そこでの生活は、まだ停滞していた。11世紀に唯一の名が、東方の首都で何らかの関心を数学に示したとして目立っている。--ミカエル・コンスタンティヌス・プセッロス(Michael Constantine Psellus)(20)(1020-1110年)という名である。彼はギリシアの著述家で、アテネに学び、熱烈なプラトン主義者であって、哲学を教えるためにコンスタンチノープルに戻った。彼は数人の支配者による統治の時代を生き、皇帝たちに意見を求められたので、彼らによって哲学者の王(Prince of Philosophers)という称号が名誉として与えられた。(21)ニコマコスとユークリッド(エウクレイデス)の研究の入門(概論)は、彼によるものとされているが、彼が実際に書いたかどうかは疑わしい。一つには、彼が数学に関するギリシアの著述家のほぼ最後の人物であったから、一つには、彼の著作が容易に読めることから、また一つには、全般に彼の学識についての名声から、彼はルネサンス時代に何らかの注目を引いた数学の業績のある数少ない当時の学者の一人である。数学に関する彼の主要な著作は(22)、16世紀に少なくとも13回出版された。彼が、πの値として√8をとったという事実は、学者(科学者)としての名声が、どれほど価値のないものかを示している。