暗黒時代
500年から 1000年までの時期というのは、ローマの没落(455年)(1)の時代頃から教皇シルヴェステル2世(Sylvester II)(Gerbert)下のヨーロッパ最初の覚醒までの時期である。それはいわゆる暗黒時代であり、ゆっくりとした北方の民族の文明化の時代、修道院の学校の発展の時代、シャルルマーニュの偉業の時代、そして主としてスペインのムーア人を通しての東方文明との接触の時代を含んでいる。数学では、西方でのキリスト教の暦の発展の時代であり、他の分野ではほとんど発展はなかった。野蛮な民族は文明化されなければならなかった。彼らが破壊したローマ文化をゆっくりと同化し、よりよい宗教を受け入れるために。ローマの学校は、聖堂や修道院の学校に取って代わられなければならなかった。そして、要求された数学というのは、交易に必要なもの、勘定会計を保つためのもの、教会の祝祭日を定めるものに限定された。マルセイユやアルレ(Arles)、ナルボンヌのような北方の影響にそれほどさらされなかったヨーロッパの地域では、商業の必要性が商人の年期奉公人の訓練において両替のための算術をまだ必要としていた。これらの都市は、この時期、イタリア、コンスタンチノープル、そしてオリエントとの交易を維持しており、染料や穀物、陶器や塩を東方に送り、中国から絹を、インドからは真珠を、そしてエジプトからはパピルスの巻物さえも輸入していた。(2)
アニキウス・マンリウス・セウェリヌス・ボエティウス(Anicius Manlius Severinus Boethius)(3)は、ローマ市民で名高いアンキウス家の一人であり、政治家、哲学者、数学者、文学者、そして中世スコラ哲学の創始者であった。この時期の初めに、それは現在議論されているが、生きていた。真っ直ぐな性格のために迫害され、何者も恐れぬ性格のため処刑され、教会によって殉教者として受け入れられ、彼の名声とその学識は、数学に関する彼の書物に、何世紀にもわたって修道院の学校での高い地位を獲得させた。
彼の最も偉大な書は、獄中で書かれたものである「哲学の慰め(Consolation of Philosophy)」(4)である。彼の数学的著作は、算術(5)、幾何学(6)、そして音楽に関する著作(7)で、当時数学の一部と見なされていたテーマについてである。算術はニコマコスの著作に、幾何学はユークリッド(エウクレイデス)の「幾何学原論」に基づいている。いずれも数学の分野ではなんらオリジナリティを示してはいないが、いずれも、数の理論や論証幾何学の課程を十分必要とするまで発達していた修道院の学校で、これらの書物を一般に使用できるようその内容のテーマを提示している点では十分に成功していた。
最初のキリスト教学者たちの中に、数学や自然科学に何らかの関心を持った人はほとんど見いだせないだろうと予測するのは当然である。彼らの宗教的信仰はあまりに激烈であり、その迫害はあまりに現実的であり、彼らの生活はこれらの分野の思索をするには、あまりにも不安定であったから。2・3のキリスト教徒の名があげられているが、彼らの数学への貢献は取るに足りないものである。しかし、5世紀が終わると共に、キリスト教は十分強大になり、宗教的信仰以外にも興味を持つ知識階層の発展を可能にした。こうした階層の中に、私たちは数人の学者の名を見いだす。彼らはある程度の古典時代の数学の知識のあることを示している。
これらの著述家の中に、古代ローマの一族の末裔、マグヌス・アウレリウス・カッシオドルス(Magnus Aurelius Cassiodorus)(8)がいた。(9)彼は優れた政治家であって、ローマの最後の支配者によっても東ゴートの後継者によっても尊敬されていた。彼はヴィヴァリウム(Vivarium)に修道院を創設し、その壁の中で晩年を過ごした。彼は、聖職者には高い水準の知識を要求し、彼の著作は当時の状況が許した範囲内で、彼が他の者たちに要求した知識を彼自身が持っていたことを示している。カッシオドルスは、「自由学芸の技法と訓練について(De artibus ac disciplinis liberalium literarum)」七つの自由学芸--三学科(trivium)を構成する文法、修辞学、弁論法と四学科(quadrivium)を構成する算術、幾何学、天文学と音楽--の平凡な要約を書いた。(10)この著作は中世の学校で広く用いられ(11)、学問でのこのわずかな試み以上に学問の低い状態を示すことのできるものはないだろう。また、562年に書かれ、キリスト教暦に関する最初の論文の一つである「(Computus Paschalis sive de indicationibus cyclis solis et lunae)」も、疑いなく彼のものとされる。しかし、キリスト教紀元の採用のための計画は、525年頃、ローマの大修道院長、ディオニシウス・エグジグウス(Dionysius Exiguus)によって成し遂げられた。
カッシオドルスの時代より少し前に、「文献学と水星との婚礼(Nuptials of philology and Mercury)」(13)として知られる百科事典の著者、マルティアヌス・ミネウス・フェリクス・カペッラ(Martianus Mineus Felix Capella)(12)が活躍した。これは散文と韻文との入り交じったもので、著作の一部は幾何学についてであり、別の一部は算術についてである。後者(算術)との関連で、カペッラは様々なクラスの数字と想像上のより小さな数についての謎について議論している。その書はカッシオドルスの書よりはるかに内容に乏しく、それを補う点と言えば、水星と金星が地球ではなく太陽の周りを回っているという陳述だけである。(14)
5世紀の終わる前に、ダマスクスに一人のシリア人、その誕生の地からダマスキオス(Damascius)(15)という名をとった人物が生まれている。彼は重要な新プラトン主義者の最後の人物であり、プロクロス(485年頃)の後を継いだマリノス(Marinus)の弟子であった。彼は 510年にアテネの学校の長となった。ユスティニアヌスがアテネのその異教の哲学の学校を閉鎖した時(529年)、ダマスキオスはペルシアへ行くが、5年後(534年)に戻っている。彼の著作は、ほとんど哲学的なものであるが、彼の名は、疑いなく、ユークリッド(エウクレイデス)の「幾何学原論」に加えられた15番目の書と関連づけられている。
中世がかなり進んでしまう以前、数学について何らかの正しい評価を得ている最後のギリシア人の中に、アスカロンのエウトキオス(Eutocius of Ascalon)(16)がいた。彼は、アポロニウスの円錐曲線の最初の4書について注釈を書いている。彼は、また、アルキメデスのある著作--球と円柱、円の求積について、また、平衡(equilibrium)についての著作、プトレマイオスの「アルマゲスト」について著述した。この最後の注釈は失われているが、これらのエウトキオスの著作は、ギリシアの数学に関してある程度情報を提供してくれることを除けば、ほとんど価値はない。
6世紀にアルケニアヌス写本(Codex Arcenianus)(17)、ある時期(1566-1604年)グリョニンゲン(Groeningen)のヨハネス・アルケリウスという人物のものであったことからそう呼ばれるが、それも書かれたように思える。それは田園の自然の法に関する問題に広く関与している一方、ローマの測量技師に関する情報もかなり含んでいる。
その世紀(6世紀)の間、他に言うべき事はほとんどない。それはヨーロッパの知的発展の曲がり角の最も低い時点を代表している。教会の要素は、民衆全般の無知を克服することはできなかった。そして、アイルランドの修道院のかすかな光を別にすれば、ヨーロッパは闇の中にあった。
ボエティウスの死後すぐ後に続く数世紀は、古典時代の文学にも学問にもほとんど関心を示さなかった。聖オーエン(St.Ouen)(609-683年)のような優れた人物でさえ、ホメロスやヴェルギリウスの作品を不敬な詩人のつまらぬ歌であると語り(18)、トゥリウス(Tullius)とキケロを二人の特別な人物だとしている。一方、トゥールのグレゴリウス(Gregory of Tours)は、こう嘆いている。「私たちの時代は不幸だ。なぜなら文学の研究は、私たちの中では死んでいる。これらの時代の歴史を記録できる人は誰も見いだせない。」文明がそのように衰退したので、古いラテンの儀式の遺風にさえ価値を見いだした少数の人々が、カッペラがしたように、へぼ詩を作ったり彼ら(古典文学者たち)の学識を百科事典という形で薄めたりした。
後者を企図した人々の中で優れた人物は、歴史家で文法学者、雄弁家で神学者、司教であり全般にわたる学者であり中世で最も有名な政治家の一人でもあったセヴィリャのイシドルスであった。(19)聖マルティヌス(St.Martin)は、彼の葬儀の演説で、彼のことを「惜しみなく与え、愛想よくもてなし、冷静な愛情、自由の感情を持ち、判断においては公平で、職務においては疲れを知らない」高潔さで有名な人物であると描写している。幸福な生まれで、経歴を始めるにあたっては家族の縁故によって助けられ、同時代のいかなる人と比べても非常に優れた成功を収めたので、彼の死後数年後のトレドの公会議(653年)では、「並はずれた博士、カトリック教会を支える最も新しい人、常に尊敬をもって語られる」人物として真に語られた。彼は、その時代最も学識がある人であったので、三学科(trivium)と四学科(quadrivium)すなわち自由七科(の自由学芸)には、何らかの価値ある数学が含まれているだろうと予想するだろう。彼は「起源(Origines)」と呼んでいるが、しばしば「語源論(Etymologies)」として知られる著作は、20書からなり、第3書が数学に関するものである。しかし、その扱いはつまらないもので、算術はボエティウスの単なる簡略化したものに過ぎない。その著作の残りも、学問的価値は同じようにほとんどない。
ノーサンバーランド(Northumberland)のモンクトン(Monkton)に、中世の教会の学者の中で最も偉大な人の一人、一般に尊者ベーダ(Beda Venerabilis)、尊者ビード(the Venerable Bede)(20)として知られ、バーク(Burke)によって「イギリスの学問の父」と呼ばれたビーダ(Baeda)が生まれたのは、イシドルスの後100年ほど後のことであった。
ハラム(Hallam)(21)は、彼のことをこう述べている。彼は「イギリスの古代の文学年代記の他のあらゆる名の人を凌いでいる。彼より古い著述家たちの勤勉な編集者以上のものではほとんどないけれども、恐らく、世界に(西洋だけでなく東洋でも(学問は)低く沈んでいた)当時いた他のどんな人よりも優れていたと見なされるだろう。」彼は、死の4年前、それまでに書き上げていた37の著作のリストを用意し、それに次のように付け加えている。「私は同じ修道院でこれまでずっと過ごしてきた。私は、修道会の規則と教会の礼拝とを守りながら、私の変わらぬ楽しみは、学ぶこと、教えること、著作することであった。」(22)アウグスティヌスがカンタベリーに伝えた知的精神的宝物の二人の継承者、アルドヘルム(Aldhelm)とベヴェリーのジョン(John of Beverley)に教えられ、(23)また高度な学問を修道院にもたらした二人の先駆者、大司教タルススのテオドール(Teodore of Tarsus)と大修道院長アドリアン(Adrian)の弟子でもあった。こうして彼は世の中のために尽くし、「神の物静かな活動に聖せられた生涯」を送る用意が十分できていた。」(24)
数学では、彼の関心は、古代の数の理論、教会暦、そして指の数の象徴にあり、彼の著作にはこれらの他の数学的テーマも含まれている。(25)彼のおかげで、私たちは暗黒時代に書かれた暦についての最良の書を、また、彼の時代までの数字の記数法について最良の著作を手にしている。(26)ある数学的な楽しみ(の書)もずっと彼によるものだとされてきたが、その著者についての証拠は決定的なものではない。
Gram loquitur, Dia verba docet, Rhet verba colorat,
Mus canit, Ar numerat, Ge ponderat, As colit astra.
クリュニーのペトルス(Peter of Cluny)への詩の中に、ペトルス・ピクタウィエンシス(Petrus Pictaviensis)は、こう書いている。
Musicus, astrologus, arithmeticus, et geometra,
Grammaticus, rhetor, et dialecticus est.