ハルン・アル・ラシド
ハルン・アル・ラシド(1)は、「アラビアン・ナイト物語」で私たちはよく知っているが、彼は学問の偉大な擁護者であった。彼の影響のもと、ユークリッドの著作の一部を含む学問に関するいくつかのギリシア古典がアラビア語に翻訳された。実際に、中世ヨーロッパがユークリッドを初めて知ったのは、アラビア語訳による。彼の統治下に、ヒンドゥーの学問がバグダードに流入するという第二の流れがあった。特に医学と占星術の分野において。
ハルン・アル・ラシドの息子、アル・マムン(al-Mamun)(809-833年統治)もまた、学問の偉大な擁護者であった。実は、彼は単なる擁護者以上であった。というのは、彼はバグダードに天文観測所を建て、自らそこで観測を行ったから。彼は、また、子午線の一度の長さ(the length of a degree of the meridian)を決定する目的でなされたメソポタミアでの二度の測地調査を指揮監督したとも信じられている。彼の命によりギリシア古典の翻訳は続けられた。プトレマイオスの「アルマゲスト」は、アラビア語に訳され、ユークリッドの「幾何学原論」の翻訳は完成された。数学の分野でのアラビア人の間での偉大な活動と完成された著作の全般的な性格を示すために、簡単な名前の一覧を必要に応じて要約した注を付けて示すことにする。ほとんどの名はなじみがなく、詳細のほとんどは頭の中を素通りするように思えるが。
天文学は、この時期、宮廷で数学を好意的におもてに出す最大の学問であった。一方で占星術と一方で数学と結びついて、天文学は、占星術を通して数学という学問を確立するのに十分役立つ教えを持ち込んだ。
アル・マムンの優れた統治のもと、数学的天文学について著述し、そうすることで三角法(trigonometry)の研究を進めた者たちの中で、次の学者たちが特に名をあげるに値する。その才能のためと言うよりはその精神のために。アル・タバリ(al-Tabari)(2)、彼はプトレマイオスのテトラビブロス(Tetrabiblos)の注釈を書いた。アル・ネハヴェンディ(al-Nehavendi)(3)は、天文表の準備をした。アル・メルヴァルディ(al-Mervarrudi)(4)、彼は、ダマスクスとバグダードで天文観測を行った。(830年頃)アル・アストルラビ(al-Astorlabi)(5)、彼はバグダードに住んでいて(830年頃)、天文学と測地学について著述し、アストロラーベその他の天文観測の器具の製作者として名高い。メッサハラ(Messahala)(6)、ユダヤの占星術師であり、後のラビ・ベン・エズラ(Rabbi ben Ezra)(1150年頃)とチョーサー(1400年頃)の著作に影響を与えたように思えるアストロラーベに関する論文を書いている。(800年頃)そして、ヨーロッパでの名を使うとアルフラガヌス(Alfraganus)(833年頃)(7)、彼は日時計や天文学、「アルマゲスト」について著述した。
モハンメド・イブン・ムサ・アル・フワーリズミー(コワリズミ)
アル・マムンの宮廷で最も偉大な数学者は、モハンメド・イブン・ムサ・アル・フワーリズミー(コワリズミ)(Mohammed ibn Musa al-Khowarizmi)(8)、今日のキヴァ(Khiva)の都市のある国、フワレズム(Khwarezm)生まれのアブ・アブダラー(Abu Abdallah)(835年と 845年との間に没す)であった。天文学者であり、いくつかの天文表(astronomical tables)や日時計、アストロラーベや年表(chronology)に関する著作の著者であるが、彼は「アルジェブラ(algebra代数)」という名のついた最初の著作、ギリシアのモデルに基づいた論文を書いたことで最もよく知られている。(9)彼はまた、算術についても書いている。この著作は、チェスターのロバート(Robert of Chester)あるいは、バスのアデラート(Adelard of Bath)によって、ラテン語に「アルゴリトミ・デ・ヌーメロ・インドルム(Algoritmi de numero Indorum)」というタイトルで翻訳されている。アルゴリズム(Algorism)やオーグリム(augrim)(10)という言葉がアル・フワリズミに由来するというのは、そこからである。代数(algebra)の由来するタイトルは、「イルム・アルジャブル・ワル・ムカバラ(ilm al-jabr wa'l muqabalah)(約分と消約との学=the science of reduction and cancellation)」(11)であった。アル・マムンの死後も、バグダードではおよそ一世紀半(150年)繁栄を続けた。予想されるように、幾分奨励されることは少なくなったが。(12)
アルマハニ(Almahani)(860年頃)(13)は、一般にそう呼ばれているが、名望を博した天文学者であり、球を一定の体積の比率に分割するというアルキメデスのよく知られた問題について書いていることから最もよく知られているだろう。この問題に含まれる三次方程式の球積の解法で、彼は三面体の角(trihedral angle)のサイン(正弦)を用いた。彼は、またユークリッドの「幾何学原論」の第5書と第10書、球と円柱に関するアルキメデスの著作について注釈も書いている。
アルキンディ(Alchindi)(860年頃)(14)は、中世ヨーロッパで一般に知られていた名前を使うと、「アラビアの哲学者」と普通呼ばれていた。彼は、天文学、占星術、光学や数を含む非常に様々なテーマについて著述している。クレモナのゲラルド(Gherardo of Cremona)(1150年頃)は、光学について彼の著作をラテン語に翻訳した。
870年頃、バグダードにはベニ・ムサ(Beni Musa=モーゼの息子たち)あるいは三兄弟として知られる三人の学者が住んでいた。(15)彼は、改心した盗賊で、最後はマムンの宮廷で幾何学と天文学に一身を捧げたムサ・イブン・シャキール(Musa ibn Shakir)の息子たちであった。これらの兄弟、モハンメド、アフメド、アル・サハンのうち、最初の名(モハンメド)が最も有名であるが、三人ともすべて、ギリシアの最も優れた著作を確保し、それらを翻訳することに努めた。彼らは、医学、円錐曲線論、幾何学、計量、角の三等分、その他の学問的テーマについて著述した。彼らは、三等分の問題では、コンコイドを用い、楕円の作図では焦点に結ばれた紐を用いた。
この時期、バグダードでは、少しの間、タビト・イブン・クォラ(Tabit ibn Qorra)(16)が著作をしている。卓越した医者であるが、哲学や数学の著作の方がよく知られ、特に、代数を幾何学に応用するのに成功したという言明のために知られている。彼は、有名な医者であるイシャク・イブン・ホネイン(Ishaq ibn Honein)(910年頃)によってなされたユークリッドの「幾何学原論」の翻訳といわゆるミドル・ブックス(middle books)、すなわちユークリッドとプトレマイオスとの間の時代に書かれた書物の翻訳とを校訂した。(17)彼は、また、広く、天文学、「アルマゲスト」、円錐曲線論、初等幾何学、ユークリッド、魔方陣、親和数(amicable numbers)、占星術についても著作した。クレモナのゲラルド(Gherardo of Cremona)(1150年頃)とヨハネス・ヒスパレンシス(Johannes Hispalensis)(1140年頃)は、彼の著作のいくつかを翻訳している。彼には息子がいて(18)、医者で、彼もまた父親の歩みに従い、天文学と幾何学について著述し、アルキメデスのシリア語からアラビア語への翻訳の一つを校訂した。
この頃、一人のエジプト人--アフメド・イブン・ユスフ(Ahmed ibn Yusuf)(19)--が比例と天文学とについて著述し、フィグラ・カタ(figura cata)すなわち、横断線によって切断された三角形の辺の長さに関するメネラオスの比率について議論している。