数学史

[ペルシア][メソポタミアのキリスト教学者][私たちの数詞についてのセボクト(の証言)][バグダード]

ペルシア

 私たちは、イスラムに征服された土地での学問の興隆は、単にアラビア人の影響によるものだと考えがちであるが、ここではそうではない。例えば、ペルシアでは、学問(科学)の寛大な擁護者、聖王コスル(Khosru the Holy)(1)は、宮廷にギリシアの学者を招き、西洋の文化の移入を奨励した。彼の統治時代に、アリストテレスとプラトンが翻訳され、疑いなく、ギリシアの数学者の著作が知られるようになっただろう。

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メソポタミアのキリスト教学者

 イスラムの勢力の勃興の時代頃、やがてはアラビア人によって支配される地域には、キリスト教の学問の中心があった。これらは、近東全体に散在していた修道院に見いだせる。こうした隠遁所で教えた学者の中で、7世紀最も学識ある人物は、セウェルス・セボクト(Severus Sebokht)(2)であった。彼は、司教アタナシウス・ガンマラ(Athanasius Gammala)(631年没)と彼の後継者ヨハネ(John)の時代、ユーフラテス川のほとりにあるケンネシュレ(Kenneshre)の修道院に住んでいた名義司教(titular bishop)であった。彼は、哲学、数学、神学の研究で秀でていて、彼の時代、ケンネシュレの修道院は、西シリアでギリシア学問の主要な地位を占めるようになっていた。彼は、天文学、アストロラーベ、そして地理学について著作した。662年に年代付けられる、私たちに(現代に)まで伝わっている彼の著作の断片の一つで、彼はヒンドゥーの数詞に直接触れている。彼は、シリア人を見下すあるギリシア人学者たちの横柄さに傷付けられたように思える。そして、シリア人を擁護して、彼らのために天文学の発明を(自分たちのものだと)主張する。彼は、ギリシア人はバビロンのカルデア人の単なる弟子にすぎない事実を述べ、この同じカルデア人が、敵対者(ギリシア人)の非難するまさにそのシリア人であったと主張する。彼は、学問は普遍的なものであり、それを探究する努力(労)を惜しまないいかなる国、いかなる個人にも得られるものであるといって議論を終える。それ故、学問は、ギリシア人の独占物ではなく、国際的なものである。

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私たちの数詞についてのセボクト(の証言)

彼(セボクト)が、次のような言葉で説明をしながらヒンドゥーについて語っているのはこうした関連からである。

 シリア人とは同じでない民族のヒンドゥーの学問について、どんな議論ももう省略しよう。彼らの天文学というこの学問における難解な発見、ギリシア人やバビロニア人の発見よりも独創的な発見、彼らの価値ある計算法などのことを。彼らの計算は言語を絶する。この計算は、9つの記号だけでなされるとだけ言っておきたい。ギリシア語を話すだけで、彼らが学問の極致に達したと信じている人が、万一これらのことを知ったなら、彼らは相当の学問を知っている人たちが他にもいることを確信するだろう。

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バグダード

 イスラムの隆盛の下、数学が最も奨励されたのは、チグリス川のほとりにあるバグダードであった。古代都市の廃墟の上に、アッバース朝のカリフ(3)、アッバスの子孫(4)の一人、アル・マンスール(al-Mansur)(712-744/5)によって建てられたバグダード(5)は、イスラム世界の知的中心となり、学問の繁栄において、第二のアレクサンドリアとなった。アル・マンスールの統治下(766年頃)、シンドヒント(Sindhint)という名の著作が、カンカ(Kankah)(マンカ?(Mankah?)というヒンドゥーの天文学者で数学者であるインドの学者によって、彼の宮廷にもたらされたと言われている。彼は、こうしてバグダードの学者たちに知られるようになった。この著作は、スーリヤ・シッダーンタであったかも知れないし、シッダーンタという題名の何か別の書物であったかも知れない。シッダーンタという言葉は、それが意味すると思われる他のどの言葉よりもシンドヒントに近いから。しかし、一般には、それはブラフマグプタのブラフマシッダーンタ(Brahmasiddanta)であったと信じられている。というのは、彼の著作が当時のバグダードにもたらされたもとがわかっているから。(6)
 カリフの宮廷に、そのように物語の中に書かれているのだが、ヤクブ・イブン・タリク(Yaqub ibn Tariq)(796年没)という名のペルシア人も来ていた。彼は、天球(数学的天文学)と暦について著作し(775年)、校訂し、恐らく上述のブラフマグプタの著作を翻訳するのを手伝っただろうと言われている。同じ宮廷に、(この事実の記録は、幾分より信頼できるのだが)天文学者アブ・ヤフヤ(Abu Yahya)(7)が来て、そこで、彼はプトレマイオスのテトラビブロス(Tetrabibilos)を翻訳し、こうしてギリシア哲学の古典をカリフの宮廷に伝えることになる大きな運動を起こす手助けをした。
 同じ頃に、アル・ファザリ(al-Fazari)(777年没)(8)は、バグダードで仕事もし、占星術と暦について著述した。彼は、知られる限り、アストロラーベを制作し、数学的器具について著述した最初のムスリムであった。彼の有名な同時代人、イェーベル(Jeber)(9)は、アラビア人最大の錬金術師であり、アストロラーベについて、また、恐らく数学についても著述した。(10)
 すでに述べたアル・ファザリの息子である、もう一人のアル・ファザリは(11)、特に天文学の分野で非凡な学識ある人物であるが、カリフによってカンカ(Kankah)によって、バグダードにもたらされたシッダーンタを翻訳するように求められた。モハメド・イブン・ムーサ・アル・コワリズミ(フワリズミ)(825年頃)が彼の天文学の基にしたのは、この翻訳であった。

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原注1

 Khosru I, Anoschirvan. 彼はユスティニアヌス(Justinian)と同時代の人で、527年、コンスタンティノープルで皇帝に戴冠された。W.S.W.Vaux,"Persia",p.169 (London,1875); T.Noeldeke,"Aufsatze zur persischen Geschichte," p.113 (Leipzig,1887)

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原注2

 J.Ginsburg,"New Light on our Numerals," Bulletin of the Am. Math. Soc.,XXIII(2),366, 抜粋はそこから自由になされた。英語の読者の注意は、先ず、Karpinski教授によるこの著作家の数学的著作,"Science" (U.S.),June,1912.に向けられなければならない。また、E.R.Turner,"Popular Sci.Mo.," December,1912も見よ。

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原注3

 カリフ(Calif)は、Khalifahからで、「(預言者の)継承者」の意味である。

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原注4

 Ab basides あるいは Abba sides, モハメドの叔父で助言者であったアッバス(Abbas)の(少なくともそのふりをした)末裔。アル・マンスルは、753/4から 774/5年まで統治した。アラビア語の発音の規則については、page xxを見よ。

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原注5

 ペルシア語では、Bagadata「神に与えられた」。アラビア語では、Dar al-Salam「平和の住まうところ」。Baghdadとも綴られる。

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原注6

 ザハウ(Sachau)のアルベルニ(Alberuni)の India,I,xxxiの翻訳の序。この時代にインドから何らかの使節が来たことを証明する記録がアラビア側にはないことについては、ibid.,II,313を見よ。

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原注7

 Abu Yahya al-Batriq, 796-806年頃没す。

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原注8

 Ibrahim ibn Habib ibn Soleiman ibn Samora ibn Jundab, Abu Ishaq al-Fazari.

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原注9

 Jabir ibn Haiyan al-Sufi, Abu Abdallah (777年頃没)。中世に Geberの名で知られている二人の優れた学者の一人。

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原注10

 この問題は、H.Suter,"Die Mathematiker und Astronomen der Araber und ihre Werke," in Volume X of the Abhandlungenの中で簡潔に議論されている。アラビア語の音写(transliteration)は、Suterのリストから取られた。英語で使用できるように、elは alに、gは j、sはsh、chは kh、wは v、jはyに変えてあるが。これは、Ishaqのような shの場合、必ずしも好ましいものではないが、一般の読者には遙かにわかりやすいだろう。これらすべての名前に関しては、学生は Suterの著作を参照した方がよいだろう。

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原注11

 Mohammed ibn Ibrahim ibn Habib, Abu Abdallah al-Fazari. 彼は、796年と 806年の間に没した。

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