数学史

[著作全般の性格][アーリヤバタ][アーリヤバタの著作][ヴァラーハミヒラ]

著作全般の性格

 500年から1000年までの時代、インドには4人から5人の優れた数学者がいた。これは、二人のアーリヤバタ(Aryabhata)(1)、天文学者のヴァラーハミヒラ(Varahamihira)、ブラフマグプタ(Brahmagupta)とマハーヴィーラーカーリヤ(Mahaviracarya)であった。これらすべての著作家の著作は、余りにも優れたものと陳腐なものとが混ざり合っているので、彼らの資質についての判断は、研究者の個人的な同情・共感に大きく依存している。アラビアの歴史家、アルベルニ(Alberuni)(1000年頃)は、彼らの著作のこうした特異性について、次のように語っている。

 私は、彼らの数学的及び天文学的文献を、真珠貝と酸っぱいナツメヤシ、あるいは真珠と動物の糞、あるいは高価な水晶とどこにでもある普通の小石にたとえることができるだけだ。どちらのものも、彼らの目には同じように見えていた。なぜなら、彼らは厳密な科学的演繹法に高めることができないから。(2)

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アーリヤバタ(3)

 私たちに伝えられている偉大な著述家のうち、第一に挙げられるのは、年長のアーリヤバタである。(4)彼は、花の都(the City of Flowers)(5)、ちょうどガンジス川との合流点にあるジュンマ(Jumma)の小さな町、クスマプラ(Kusumapura(Kousambhipura))に生まれた。(6)その場所は、現在のパトナ(パトナー)(Patna)から遠くなく、回教徒たちからはアジマバド(Azimabad)と、古代の仏教徒からはパータリプトラ(Pataliputra)(Patoliputra)と、そしてシリアの使節、メガステネス(Megasthenes)からはパリバトラ(Palibathra)と呼ばれている。(7)地理的な近さから、アーリヤバタは、しばしばパータリプトラで生まれたと言われる。伝承によれば、その都市は、元来、パータリプトラカ(Pataliputraka)と呼ばれ、魔法の杯と杖、上靴の騎士で、王女パータリ(Patali)と結婚したプトラカ(Putraka)によって創建された。(8)更に、伝承によれば、ブッダは、その生涯も終わり頃、この地点でガンジス川を横断し、その都市の偉大な未来を予言したことになっている。(9)5世紀の初め、そしてアーリヤバタが生まれる1世紀ほど前までには、その都市は古代の威光をいくらか失っていた。というのは、すでに述べた中国の旅行家、法顕(Fa-hien)が、アショカ王が天才たちに建造するよう命じた王宮の廃墟について記述しているからだが、また、彼は、著しい歓待を受けたこととその他の建物はまだそこにあるとも語っている。(10)アーリャバタは、明らかに、そこで、あるいはクスマプラで著述をした。彼が、著作の一つで、次のように語っているから。「ブラーフマ、大地(地球)、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、そして星座に敬意を表しながら、アーリヤバタは、花の都で尊き学問を明らかに説き明かす。」(11)
 彼の著作が、すぐ後の数世紀、ヒンディーの学者たちに知られていないのは、恐らく、アーリヤバタが、数学と天文学との古代の中心、ウジジャイン(Ujjain)から遠く離れたところに住んでいたからであろう。

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アーリヤバタの著作

 彼の著作は、しばしば、アーリヤバティーヤ(Aryabhatiya)(12)とかアーリヤバティーヤム(Aryabhatiyam)と呼ばれているが、ギーティカー(Gitika)あるいはダサギーティカー(Dasagitika)という天文表の集成とガニタ(Ganita)という算術の論文とを含むアーリヤースタサタ(Aryastasata)(13)、時間とその測定に関するカーラクリヤー(Kalakriya)、そして天球に関するゴラ(Gola)から成り立っている。
 その算術は、10の8乗までの十進数の記数法を持っており、平面数?(plane numbers) と立体数?(solid numbers) を扱い、平方根の規則が書かれている。それは、p番目の項(pth term)以後の算術級数を合計する規則も含まれていて、現代の数式では次のように書かれるだろう。
     数式1
それには、また次のような公式も含まれている。
     数式2
 著作の残りは、二次方程式と不定一次方程式との知識があったことを示している。
 面積に関する公式の中に、二等辺三角形の規則がある。これは、アーリヤバタによって用いられた次のような言葉の不完全な形を示すのに十分であろう。三辺によって囲まれる面積は、底辺を二等分する垂線と底辺の半分の長さの積である。球の体積の公式は、きわめて不正確で、πrr√πrrであり、それは、πを16/9と等しいとしているようで、恐らく、アーメス(Ahmes)の(16/9)の二乗の間違いであろう。
 πの値を求める方法は、次のようにされている。「100に4を加えよ。8をかけよ。そして再び62000を加えよ。その結果が、直径がおおよそ20000の円周の値である。」これは、πを 62832/20000、すなわち、3.1416としている。(14)アーリヤバタは、また、サイン(正弦)を求める方法も示している。ギーティカーには、これらの関数の簡単な表も載せている。
 彼の著作は、また、連分数によって不定一次方程式の一般解を求めようとする最も初期の試みの一つを含んでいるものとして注目すべきものでもある。(15)
 上に述べたように、ここで言及しているアーリヤバタは、同名の二人の数学者のうち年長のものとして知られている人である。この事実は、アルベルニ(Alberni)の著作の中に現れているもので、(16)最近の著述家たちには、ずっと注釈のテーマとなってきた。(17)若い方のアーリヤバタの年代は知られていないし、その二人の著作を明確に区別することも、まだできない。現在知られている不十分な権威から判断すると、彼はクスマプラ(Kusumapura)で生まれたように思える。

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ヴァラーハミヒラ(Varahamihira)(505年頃)

 インドの天文学者たちの間に(18)、二人がヴァラーハミヒラという名で現れる。一人は、202年頃、もう一人は 505年頃に生きていた。(19)この二人の学者のうち、後者は、初期のインドの天文学に関するすべての著述家の中で、最も有名である。彼は、いくつかの著作を書いたが、そのうち占星術と天文学とを扱ったパンカ・シッダーンティカー(Panca Siddhantika)が最もよく知られている。それは、惑星の位置を求めるのに必要な計算法を含み、数学的天文学の発達した状態を示しているが、数学史の中で主として価値があるのは、この時代のすぐ前に書かれた5つのシッダーンタに関する記述のためである。(20)彼は、ギリシア人の著作を評価するよう人々に説き、こう言っている。「ギリシア人は、不純ではあるが尊敬しなければならない。なぜなら、彼らは科学(学問)において訓練されており、その点で他の者たちに勝っていたから。それなら、ブラーフマンが、自らの純粋さを科学(学問)の高さと結びつけたなら、私たちは、ブラーフマンのことをなんと言うべきであろうか。」(21)
 ヴァラーハミヒラは、地球が球形であること教え、この点では、彼は中世のほとんどの他のヒンディーの天文学者たちによって従われた。(22)彼の著作のうち二つは、アルベルニ(1000年頃)によって、アラビア語に翻訳されている。(23)

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原注1

 ヒンドゥーの名前の発音の規則については、page xxiを見よ。

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原注2

 E.C.Sachauによる翻訳、"Alberuni's India", 2 vols.,I, 25 (London, 1910) ; 今後は、Alberuni's Indiaとして言及。ギリシアとヒンドゥーの算術の関係については、H.G.Zeuthen, "Bibl.Math.,V(3),97を見よ。インドの西洋との関係全般については、H.G.Rawlinson,"Intercourse between India and the Western World from the Earliest times to the Fall of Rome (Cambridge, 1916)を見よ。ヒンドゥーの極端な主張については、Benoy Kumar Sarkar,"Hindu Achievements in Exact Science (New York, 1918)を見よ。

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原注3

 475年あるいは476年に生まれる。550年頃没す。

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原注4

 Sir M.Monier-Williams,"Indian Wisdom",4th ed.,p.175 (London, 1893)(今後は、Monier-Williams,"Indian Wisdom"として言及する); J.Garrett,"Classical Dictionary of India, p.767 (Madras, 1871); C.M.Whish,"On the Alphabetical Notation of the Hindus," Trans. of the Literary Society of Madras (London, 1827); L.Rodet,"Lecons de Calcul d'Aryabhata," Journal Asiatique, XIII (7),393; L.Rodet,"Sur la ve'ritable signification de la notation nume'rique inventee' par Aryabhata," ibid.,XVI, p.440. 彼の著作のある断片は、H.Kernによって、the Journal of the Royal Asiatic Society, XX (1863),371.の中で出版されている。また、G.R.Kaye,"Indian Math.",p.11,と "Aryabhata,"Journ. and Proc. of the Asiastic Soc. of Bengal,"IV (N.S.),p.111(以後、Kaye,"Aryabhata,"として言及); "Ancient Hindu Spherical Astronomy,"ibid.,XVについての論文、"Scientia",XXV,I, の論文を見よ。すべて、インドの著作のほとんどは、ギリシア起源であると主張している。

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原注5

 この言葉は、パータリプトラ(Patalitputra)にも用いられている。しかしながら、アルベルニ(Alberuni)のかなり曖昧な所説を信用すると、クスマプラ(Kusumapura)で生まれたのは若い方のアーリヤバタであった。

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原注6

 Sir E.Clive Bayley,"Journal of the Royal Asiatic Society,"XV (N.S.),21.

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原注7

 E.Reclus,"Asia," American ed.,III, 222.

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原注8

 J.Garrett, loc.cit.,p.779.

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原注9

 R.W.Fraser,"A Literary History of India,"p.143 (N.Y.,1898); E.W.Hopkins,"Religions of India,"pp.5, 311 (Boston, 1898).

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原注10

 Dutt,"Hist. of Civ. in Anc. India," II,58 (London, 1893). マガステネス(Magasthenes),の滞在、BC306-298 BC、については、Fraser, loc. cit.,p.175を見よ。アーリヤバタの時代頃のその都市の重要性については、J.F.Fleet,"Corpus Inscriptionum Indicarum,"III,pl.iv,A,B (London, 1888).のinscriptions of Chandragupta II を見よ。一世紀半後の、中国の巡礼者、Huan-tsang(629-645)は、こう述べている。「永く見捨てられているけれども、土台の壁は今も残っている。」Fraser, loc. cit.,p.248.を見よ。

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原注11

 Rodet, loc. cit.,p.396. 若干異なった翻訳として、Kaye,"Aryabhata,"p.116.を見よ。

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原注12

 Monier-Williams,"Indian Wisdom,"p.175; Mrs.Manning,"Ancient and Mediaeval India," 2 vols. (London, 1860), 主として、the Journal of the Royal Asiatic Soc.,I (N.S.),392,and XX,371.からのもの。

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原注13

 Rodet,"Lecons,"loc. cit.,p.395. 彼は、第二部を訳している。p.396. また、Kaye,"Aryabhata,"p.111; Bibl. Math.,XIII (3),203も見よ。

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原注14

 Kayeは、自らの著書「アーリヤバタ(Aryabhata)」の中で、これは、私たちが取り上げている年長の方のアーリヤバタだろうかと、疑問を投げかけている。彼は、後で述べる若い方のアーリヤバタによるものと考えている。

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原注15

 Kaye,"Indian Math.,"p.12.

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原注16

 India,II, 305, 327.

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原注17

 Kayeによる要約を見よ。"Aryabhata,"p.113.

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原注18

 年代付きの一覧は、Colebrooke, loc. cit.,p.xxxiii.にある。

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原注19

 その年代は、全く不確かである。ヴァラーハミヒラ(Varahamihira)は、何人かの東洋の権威ある学者たちから、587年頃没したと言われている。

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原注20

 G.Thibaut and Sudharkar Dvivedi,"The Panca-siddhantika of Varaha Mihira." Benares, 1889.

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原注21

 Alberuni,"India," I, 23.

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原注22

 Alberuni, loc. cit.,I, 266.

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原注23

 彼の著作の一覧は、Alberuni, loc. cit.,I, xxxix. 彼の著作、及び全般にヒンドゥー天文学へのギリシア人の影響については、Colebrooke, loc. cit.,p.lxxx.を見よ。

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