数学史

[日本の数学の始まり][日本での中国の影響]

日本の数学の始まり(1)

 AD500年以前から、日本が知的に発達していく中で、中国の影響が姿を現し始めていたのだが、何らかの明白な[影響の]結果に気づくのは、522年(2)仏教が伝えられ始めるようになってからである。事実、552年には正式に仏教が伝えられ、二年も経たないうちに、暦法に関連する事柄に造詣の深い二人の学者が(3)、朝鮮を通って日本に中国の暦学の体系をもたらした。600年頃には朝鮮の僧侶、勧勒が占星術と暦法に関する一連の書物を女帝[推古天皇]に献上した。皇子の聖徳太子は、(計)算学に非常な興味を示したので、それ以後、日本算術の父という伝承が生まれた。

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日本での中国の影響

 それ以来何世代にもわたって、日本はあらゆる知的生活において、完全に中国の影響の下におかれることになった。中国の度量衡の体系が採用され、算術の学校が創設され(670年頃)、同じ頃、天文観測所が設立された。701年、大学の制度が始められた。九つの中国の書物が数学の学生のために指定され(4)、それは古典のように扱われ、数世紀にわたって日本の数学研究に影響を及ぼした。
 この時期、聖徳太子と並んで、日本数学史に、その名が著しく目立っている人物は、朝廷の相談役であり教師であり(890年頃)、学問と文学との偉大な奨励者でもあった、天神(5)である。
 しかし全体的には、準備の時代であって、中国がすでに発達させてきたものに新しく寄与するものは、ほとんど何もなかった。実際、数学の分野で、日本がその可能性に本当に目覚めるのは、17世紀になってからのことである。

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原注1

 Smith-Mikami, "A History of Japanese Mathematics" p.4 を見よ。

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原注2

 最初に来たのは、Szu-ma Ta(司馬達), 日本語では、Shiba Tatsu として知られている。

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原注3

 この二人は、Wang Pao-san(王保孫?) と Wang Pao-liang(王道良?)である。Smith-Mikami ”A History of Japanese Mathematics" を見よ。

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原注4

 これらは、(1)周髀算経(Chou-pei Suan-king)、(2)孫子算経(Sun-tsi Suan-king)、(3)六章(liu-chang)、(4)三開重差(san-k'ai Chung-ch'a)、(5)五曹算術[経](wu-ts'ao Suan-shu)、(6)海島算術[経](Hai-Tau Suan-shu)、(7)九司(kiu-szu)、(8)九章(kiu-ch'ang)、(9)綴術(kiu-shu)である。そのうち3、4、7番目の書物は失われている。

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原注5

 彼の名は[菅原]道真、死後、天神(天の人)として祀られた。(天神を Heaven man と訳している - 訳注)

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