数学史

[エジプトとコンスタンチノープル][アレクサンドリアの衰退][カイロ学派][西洋の東洋文明]

エジプトとコンスタンチノープル

 地中海に接する東の国々は、ローマの没落後5世紀の間、数学にはほとんど何も貢献しなかった。輝かしい「文明の立法者(the Lawgiver of Civilization)」ユスティニアヌス帝(527-565年)の統治でさえ、異民族の侵入の恐怖を取り除くことはできなかったし、ビザンティウムでの「青(Blues)」と「緑(Green)」との悲惨な争いを鎮圧することもできなかった。これに加えて、532年の大火とその10年後の恐るべきペストの流行から、ボスポラス海峡の堤は知的再生の場所ではなかったということが見て取れるだろう。

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アレクサンドリアの衰退

 アレクサンドリアでは、芸術と学問の進歩の機会はローマの没落と共に死に果てたように思え、世界の強国としてのイスラムの勃興によって、アレクサンドリアの古代の栄光を取り戻す最後の望みも決定的に消えてしまった。ムハンマドの死の80年後、彼の信徒たちは北アフリカ全土を征服し、スペインにはしっかりと定住した。642年には、アレクサンドリアの大図書館が焼け落ちた。これは恐らく、それまで学問の大きな施設にふりかかった最も重大な損失だろう。
 にもかかわらず、2、3の名が東方キリスト教には現れる。聖ソフィア寺院の建造において助手の建築家であったアンテミウス(Anthemius)(1)は、円錐曲線について書き、1世紀後(610年頃)アレクサンドリアのステパノは、数学と天文学とについて著述しコンスタンチノープルで教えた。アレクサンドリアでは、イスラム教徒の侵入のちょうど前に、トラレスのアスクレピアス(Asclepias of Tralles)(635年頃(2))がニコマコスについての注釈を書き、また、ヨアネス・フィロポヌス(Joannes Philoponus)(640年頃(3))が、ヨアネス・グラマティクスとしても知られるが、彼も同じことをし、また、アストロラーベについても書いた。(4)
 19世紀の終わり頃、上エジプトのアクミム(Akhmim)(5)で、7世紀か8世紀に書かれたと思われるギリシアのパピルスが発見された。この中には、アーメス・パピルスに書かれているのとよく似た単位分数の表がある。しかし、その著作は2000年以上も昔のものから何ら前進を示していない。エジプトでは、アレクサンドリアの影響にあった地域を除けば、学問は永らく死に絶えていた。

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カイロ学派

 10世紀の前半、イスラムの支配階級の一族であるファティマ家が、アル・カヒラ(al-Kahira)(勝利者Victrix)--現代のカイロ--と呼ばれた都市から権力争いの後敵を駆逐した。ここに、彼らは古代アレクサンドリアのそれに敢えて匹敵することを希望した学校を設立することを勧め、実際にそれは天文活動の中心となった。それにはイブン・ユニス(Ibn Yunis)(p.175)とアル・ハイタム(al-Haitam)(p.175)という名が結びつけられているが、短期間のものであって、エジプトのカリフの支配は、1171年にサラディンによって崩壊した。
 恐らく、ユダヤの学者、サアディア・ベン・ヨセフ(Sa'adia ben Joseph)(6)が、この時期カイロで研究をしていただろう。彼は遺産の分割と暦について著述した。彼はバビロンで教え、疑いなく、そこでヒンドゥーの算術と天文学について著作したイサク・ベン・サロム(Isaac ben Salom)と出会っただろう。

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西洋の東洋文明

 アレクサンドリア図書館の焼失後も、イスラム教徒は征服を続け、アフリカの北海岸に沿って一掃し、遂には 711年スペインに侵入し、西ゴートの王を打ち破り定住し 800年間そこに留まった。彼らと共に、東洋の占星術の信仰をもたらし、数学における彼らの第一の関心は、主として天文学、三角法と円錐曲線に関するものだった。秘教的な好みから、数とゲマトリア(gematria)(6)の神秘が彼らの心を強くとらえた。ユダヤ人たちは絶えず関りを持つようになり、疑いなく、カバラが彼らに印象を与えただろう。バグダードの知的輝きによって鼓舞され、ギリシアの古典がそこの学校において場所を見いだした。バグダードの覇権が東方で重大な危機にさらされるようになるまでには、コルドバが西洋でのイスラムの知的中心となっていた。アルハケム(Alhakem)2世は、961年から 976年まで統治し、そこにかなりの図書館を設立し、10世紀の終わり頃には、その土地の学者であるアル・マジリティ(al-Majriti)(7)が、親和数、天文学と幾何学について著述している。
 10世紀になっても、数学の分野での活動は大きくなかった。注目すべき最初の著述家は、ムスリム・イブン・アフメド・アルレイティ、アブ・オベイダ(Muslim ibn Ahmed al-Leiti, Abu 'Obeida)、また、サヒブ・アルキブル(Sahib al-Qible)とも呼ばれる人物であった。(907/8年没)彼はコルドバ生まれで、天文学と算術との著述家である。同じ頃、コルドバに、なんらかの注目に値する算術家、サルハブ・イブン・アブデッサラム・アルファラディ、アブル・アッバス(Salhab ibn 'Abdessalam al-Faradi, Abul-Abbas)(922/3年頃)がいた。

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原注1

 S.Guenther, "Geschichte der Mathematik", I,244 ( Leipzig, 1908)(以後、Guenther Geschichteとして言及する); Cantor, "Geschichte, I,(3),843; Th, Martin, "Les Signes Nume'raux," Annali de Mat. pura ed applic., V, 50. and reprint, Rome, p.78 (1864).

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原注2

 Liber in calculum paschalem.

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原注3

 H.Dueker, "Der liber mathematicalis des Heiligen Bernward, Hildesheim,1875.

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原注4

 534年、コンスタンティノープルで没す。

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原注5

 恐らく、一世紀前。

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原注6

 その年代は非常に不確かで、恐らく一世紀遅すぎるだろう。

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原注7

 De vsv astrolabii ejusque constructione libellus. それは、H.Hase, "Rheinisches Museum fuer Philologie,"VI,127 (Bonn, 1839)によって出版されている。ニコマコスについての彼の著作は、Hoche, Leipzig,1864, と Wesel,1867. によって編集されている。

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原注8

 あるいは Ekhmim, 古代の Chemisあるいは Panopolisの遺跡。そこは中世初期、キリスト教徒たちによって大きな宗教の中心となった。コンスタンチノープルの司教、ネストリウス(5世紀)は異説を唱えたため名誉を剥奪されてアクミム(Akhmim)に追放された。Heath,"History,"II,543 も見よ。

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原注9

 アラビア語では、Sa'id ibn Yusuf al-Fayyumi. 彼は 941年に没する。ヘブライ語の Sa'adia Gaonは、天才(偉大な)サアディア(Sa'adia the Genius (Great))という意味である。

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原注10

 文字の数値によって名前を評価することと広く関連している。

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原注11

 Abul-Qasim Maslama ibn Ahmed al-Majriti, 1007/8年没。

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